過去
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その日は朝から雪が降っていた。
朝のニュースでは「路面凍結に注意」ばかり言っていて、そんなのは関係ないやと、僕は鼻で笑った。参考書やら何やら詰め込んだバックを肩にかけて、慣れた道を歩いていく。塾への道はそれほど長くない。駅から数分歩けば着く距離にあった。僕は腕時計を確認しながら少し遅めに家を出て塾へ行った。この頃はまだこの後自分に起きることなど分かるはずもなく、ただつまらない日常を享受していた。
しかし、待つまでもなく悲劇は訪れる。
つまらない日常のループの中、刺激が欲しいと思わなかったわけではないけれど。
物理的な刺激が欲しかったわけではない。
死にたかったわけではない。
死にたい気分なだけだった。
そんな塾の帰りでの出来事。
塾から駅へ向かう道を歩いていた時のことだった。雪が降っている上に道はカーブしていて視界が悪く、何とも危険な帰り道だった。しかし雪はまばらで帰り道も慣れたものだったので、気にすることもないと思ってしまったのだ。
それが間違いだったのかもしれない。
このとき僕が少しでも周囲に気を配っていたら、あるいはこんなことにはならなかったかもしれない。藍華に会うことも閏年計画の一端を担うこともなかった可能性だってあるのだ。しかし僕はそれ自体を悲嘆したりはしない。閏年計画がなければ、僕は藍華と会うこともなかっただろう。それは嫌だと思った。彼女に会わなければ僕はきっと変われないままだったはずだ。その機会がこの悲劇だったというのは僕の人生に対する皮肉か何かだろうか。だとしたら、僕のしてきたことはよほどの悪事だったのだろう。それで神様がここで選ぶチャンスをくれたのだ。ここで死ぬか、自力で変わるか。神様なんて信じていないが、それぐらいに大きな分岐点だった。
次の瞬間、視界は暗転。やけにスローモーションな数百分の一秒に、僕は大きく目を見開いた。
避けられなかった。
避けようと思わなかった。
視界が歪んだと思ったのもつかの間、僕の体は投げ出された。認知するには大きすぎる衝撃を受けて感覚が鈍る。痛いのか熱いのか分からない感覚とともに、右半身を削がれるように感じた。それが夢なのか現実なのかの区別がつかない。空には白い雲が嘘のように浮かんでいるだけだった。それ以外に僕の目に映るものは淡々と降り積もる雪ぐらいだ。僕はその雪に手を伸ばしながら考える。掴めない。掴んだら消えてしまうな。
赤くなってしまうな。
そこで僕はおぼろげに気づく。
僕は車に轢かれたらしい。
やけに冴えた頭と朦朧とする意識で、僕はもう一度空に手を伸ばした。右手はピクリとも動かない。感覚がまるでなかった。僕は次に左手に力を込める。多少は残った感覚を頼りに、僕は必死に左手を伸ばした。
雪を掴もうと思って。
雪が消えてしまうのが怖くて。
掲げられた左手首の腕時計は、数年前に父が買ってくれたものだった。今では無惨に破損し、かろうじて文字盤が残っている。帰ったら怒られてしまう。どうやって言い訳しようと考えながら、僕の意識は急速に閉ざされていく。
このまま消えてしまうのだと思った。
それでも何も変わらないのだろうと思った。
ゆっくりと閉ざされていく刹那、後部座席の女性と目が合った。
彼女は頭部から血を流し、苦しげに顔を歪めていた。意識はあるのかないのか分からない。冷静になって考えればショックで気を失っていて当然なのだが、冷静な判断力を欠いたこの時の僕にはそれが分からなかった。
この女性の名前を、この時の僕はまだ知らない。僕と彼女は、この後ある摩訶不思議な世界で出会うことになる。そこで僕らはこの悲劇を忘れて、つまらないことで喧嘩しながら成長していく。もうひとつの、このとき選ばれなかったトゥルーエンドに向かって。
彼女の名前を呼ぼうか。
今の僕なら分かるだろう。
三浦藍華という、彼女の名前が。
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