断片
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夢を見ていた。
ただただ道路の真ん中に倒れて、空を見ている夢だった。
雲を掴もうと思って手を上げようとするが、動かない。何だか体全体が痛かった。体が軋むような鈍痛が、爪先から頭のてっぺんまでを襲っていた。
赤い。
僕は必死に腕に力を入れて、なんとか左腕を動かした。もう体は僕の言うことを聞かないようだった。
途切れゆく意識の中、最後に見えたのは壊れた腕時計だった。
「いや、夢なんかじゃない」
僕の意識とはまるで無関係に、口が動いた。つい先ほどまで眠っていたはずなのに、妙に頭が冴えている。いや、もしかしたら眠っていなどいなかったのかもしれない。その、証拠に。
僕の目の前には、あの日の景色が広がっていた。
「アナタたちがここに来る前、一体どんなことが起きたのか、私は知りません。しかし、大方の予想はつきます」
叫ぶような荒々しい口調で雨帝が言った。そのすぐそばで藍華が低く唸っている。
「道路のイメージ、横転したタクシー。それに、壊れた腕時計と血まみれの腕時計。そしてこの状態……。おそらく、アナタたちは——」
「やめろ!」
僕の思いとは裏腹に、言葉は乱暴に響き渡る。雨帝は目を見開いたまま、酷く辛そうな顔をしていた。僕は心の底から思う。何でこんなことを言ったのだろう。もう、分かりきったことだろう。何を今更恐れているのだ。もう逃げないと、そう決めたのに。
「いや、あ……ごめん。ただ、ちょっと混乱してて……」
「……いえ、こちらこそ失礼しました」
雨帝は渋々頷くと、藍華に小声で語りかけた。そして、困ったように眉を寄せてから僕に言った。
「とりあえず、ここから離れましょう。藍華が、辛そうです」
「あ、ああ。うん、そうしよう」
上の空で返して、僕は雨帝の背を追った。酷く頭が痛かった。まるで僕の頭が思い出すのを拒んでいるようだった。ふと、雨帝が呟いた「フラッシュバック」と言う言葉を思い出す。大きなショックによって閉ざされた記憶が、ふとした瞬間に甦る、というものだ。その大きなショックが何なのか、予想がつかないわけではない。しかし、それを思い出してはいけないような気がした。
「とりあえず藍華はここに座って休んでいて下さい。それに、潤も——。お二人とも、顔色が優れません。今は……」
「ねぇ、潤」
僕の右隣に座った藍華が涙声で僕の名前を呼んだ。僕は驚いてそちらを見る。年相応の——精神年齢には不相応な表情をしていた。どこか冷めきって、悟りきった顔をしていた。少し前までの、僕の顔にそっくりだ。
「あの日……二月二十九日。あたしたちは、初めて会ったんだね」
二月二十九日。
それは僕と藍華が、閏年計画の一部としてこの世界にきた日。
そして。
そしてその日、僕らはガラス越しの対面をした。
「うん……そう、だったね」
自分たちでもよく分からないままに会話を続ける僕たちを、雨帝が不思議そうに見守っている。当事者にもよく分かっていないのだから、部外者である雨帝には何のことかさっぱりだろう。
「君の存在しない三年と、僕の、失われた——消去された三年は、きっと、あのとき閏年計画に持っていかれたんだ」
そしてそれは僕らの悪意を象徴し。
彼はあの黒い化け物を生み出し続ける。
それこそが、僕らの弱さの正体だ。
「潤は、後悔してる?」
ついに世界は現実と混ざり始めたようだ。
僕はわざとおどけて言った。
「後悔はしてないけど、まぁ、めちゃくちゃ痛かったよね」
あの日は雪が降っていた。
純白の世界が赤く染まって。
僕は眠っていた。
「人生って、面白いね」
あの日僕らは、交通事故にあったんだ。
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