忘却
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それから少し歩いて、僕らは防音室の前まで来た。ふと、雨帝と出会った時のことを思い出す。そういえばあの時のお礼をまだしていなかった。僕は呼吸を整えると、雨帝の方に振り向いた。
「雨帝、あのとき、助けてくれてありがとう」
「おや、何ですそれ? 気持ち悪すぎて照れるじゃないですか」
どういうことだ、と、僕はツッコミを入れかける。しかし、それが雨帝なりの照れ隠しだと分かっているから、あえて追求はしなかった。
「それで定数。少し、閏年計画の目的について考えてみたのですが……」
少しの間をおいて、雨帝が控えめに声を上げた。歯切れの悪い言葉は、どこか迷いを孕んでいるようだ。おそらく、確証があるわけではないのだろう。単なる可能性の話。それでも聴いてみる価値はあるだろう。僕は小さく頷いた。
「もしかしたら、内と外の年齢というのは、心の弱さと強さの象徴なのではないでしょうか?」
雨帝は顎に手を当てて目を細める。藍華は不思議そうに首を傾げていた。つくづく対照的な二人だ。
しかし、雨帝がそこまで考えていたのには驚いた。僕も考えていなかったわけではない。しかし、いつも中途半端で、答えらしい答えは出なかった。おそらく、僕らに何があったのか、僕たち以上に雨帝は理解しているのだろう。ここに来る前のこと、ここで出会うことになったきっかけも、きっと雨帝は知っている。しかし、閏年計画に関しては本当に何も知らないようだった。それは、雨帝が反抗しないように、ということなのだろう。しかし雨帝は僕たちのためにそこまで考えてくれている。そういう人のために全力になれるところを、僕は心から尊敬していた。
感心している僕の前で、雨帝は淡々と続ける。
「定数は、内面は冷めきっているにも関わらず、無理に周りに合わせて年相応に演じているでしょう? そして奇数は、今の自分に疑問を抱きつつそれを隠して幼い頃になりたかった自分に焦がれている……。あくまで推測に過ぎませんが、仮説としては筋が通っているとは思いませんか?」
同意を求めるような『変数』の視線に、僕は戸惑いつつも小さく答えた。
「うん……。確かに、無理をしている方は、弱い……。そうだね。あるかもしれない。少なくとも、僕の方は君のそれで合ってると思うよ。藍華は? 現実でのこととか……藍華?」
明らかに様子がおかしい。体は小刻みに震え、瞳は大きく見開かれている。まさに顔面蒼白と言った感じだ。左手は口元を押さえ、右手は僕らから見て左側を指差していた。
「あ、ああ。あ、あああ——」
その顔が恐怖に歪む。そして、それを拒絶するように小さく首を横に振った。声にならない嗚咽が漏れる。僕は慌てて彼女が指し示す方を見た。
あまりにも異質に伸びた細い道路。
横転して原形をとどめていないタクシー。
「いっ——やああぁぁぁあぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁ!」
藍華の叫び声が虚しく響く。僕も狂ってしまいたい気分だった。しかし、そういうわけにもいかない。藍華を落ち着かせなければ——と、振り向いたところで、雨帝が言った。
「フラッシュバック」
雨帝にしては、あまりにも情感のこもった声だった。涙声というのが一番近いかもしれない。続いて雨帝は、僕の左手首を指差す。見ろ、ということらしい。僕は訝しく思いながらも手首を見た。
そこに巻かれていたのは、壊れた腕時計。
文字盤の壊れた、まっかな腕時計。
「最初に見た時は、道路も、タクシーも、血も、そんなものなかったのに——と、思っていますよね、潤。私も、道路とタクシーに関しては同意見です。どうやら閏年計画は、本格的に狂い始めたようです。アナタが藍華に感化されたように——藍華もアナタに感化された」
雨帝が早口で何かを言う。聞き取れはしたが、何を言っているのか理解できない。ただ、雨帝が藍華を支えてくれているのだけは分かった。
「きっと彼は、強い自分自身に感化され、人の弱さは消え去って、誰もが自分の生き方を理解してくれる(・・・・・・・・・・・・・・)、そんな優しい世界を造ろうとしたのです。そんな閉ざされた思想を——押し付けた」
閉ざされた。
遮断された。
(防音室?)
最後の言葉は、もう声にはならないようだった。
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