善悪
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問題、と言う言葉が胸に刺さる。こういうとき、雨帝はストレートだ。滅多に変化球を投げてこない。打ち返しようのない勢いで豪速球を投げてくる。しかし、僕のような臆病者にはそれぐらいがちょうどいい。
「しかし、どうなのでしょうね」
雨帝が小さく呟く。僕はつい振り返りかけて顔を逸らした。
「え……?」
そしてすぐ、半ば二度見するように振り向いた。「どう」とは、なにが「しかし」なのだろう。僕は訳が分からず首を傾げる。それに気づいた雨帝は咄嗟に付け加えた。
「いえ、ただ、それそのものが悪と決めつけるのは、どうなのか、と思ってしまって」
そう言うと、雨帝は髪の毛で隠れた左目を右手で押さえつけた。呼吸が速くなる。何だか胸騒ぎがした。その理由はおそらく僕と雨帝の両方にあったと思う。だからどうと言うわけでもないが、何となくそう思った。
混乱したままの僕を置いて雨帝は続ける。
「アナタは、相手のことを考え、傷つくことができる人だ。しかし、それが空回りしてしまっている。心の底から相手を思うが故に、自分が傷つくことで相手がどんなに辛いかを考えることができない。それさえも、アナタの優しさ故だ。それを悪というのは、おかしいと感じてしまいますよ。かと言って、根っからの善と言うわけではありませんが……。少なくとも、悪ではない」
雨帝はすっと立ち上がると、ふとどこか遠くを見上げた。こちらからでは髪に隠れて表情は分からない。しかし、その背中はあまりにも切なげで、泣きたくなった。
何かが、引っかかる。
しかしその違和感以上に、僕は自分の情けなさをもどかしく思った。僕はなんて臆病者なんだと、恥ずかしくなった。そして同時に、話せてすっきりした感覚もあった。雨帝が「悪ではない」と言ってくれたこと、だからと言って善ではないのだと指摘したこと。そのどちらもが僕にとって心強い断定だった。
「……ありがとう、雨帝。君のおかげで、少しすっきりしたよ。確かに僕は——怖かったんだと思う。素直になることも、対等になることも、ね」
そう、僕はずっと怖かった。素直な意見を述べて嫌われることも、対等になって意思表示を強要されることも。しかしそれ以上に、何となく生きようとする僕を嫌いになるのが怖かった。そうなってしまえばもう自己嫌悪しかなくなる気がして、どうにかして僕は悪くないんだと自己暗示しようとした。しかし、思い込めば思い込むほどに僕は僕を嫌いになっていく。それに諦めを感じる僕も苛立ちを隠せない僕も嫌だった。
だから、その僕を悪ではないと言い切ってくれたことが、僕は何より嬉しかった。
「アナタにお礼を言われるようなことはしておりません。私はただアナタに寄りかかっていただけです」
それでも、と思った。きっと雨帝は、かなり遠慮してくれている。本当だったら悪だと言われても、最低だと罵られても仕方ないところだ。にもかかわらず、雨帝はそれを悪だと言うのは違う、と、そう言ってくれた。しかし善でもない、と。その評価はおそらく、僕たちを閏年計画に導くものとして以前に、僕らの保護者として導きだされたものだろう。あの黒いもやのようなものから守ってくれた時も、雨帝は迷わず僕たちとあれの間に割って入った。正体不明の相手を前にしても、雨帝はずっと余裕の表情を崩さなかった。それもこれも、僕たちに心配させないためだ。そういった配慮が、僕は圧倒的に欠如していた。
「僕も、君のように、自分のリスクを顧みずに誰かを守れる人になりたいな」
僕が言うと、雨帝は晴れやかな笑顔を浮かべて振り向いた。
「それは過大評価と言うものです」
「そんなことないよ」
そんなつまらないやりとりがずっと続いた。その度に雨帝は過大評価だとか言い過ぎだとか買いかぶりだと否定していた。その様子は謙虚というよりは心の底から自分をどうでもいいものだと思っているみたいだった。だからこそ、僕は同じことを繰り返した。
「やっぱり、君みたいな人が理想だな」
すると雨帝は、今度はちょっと呆れ混じりに返した。
「聖人君子にでもなるおつもりですか?」
ほんの少し。本当に少しだけ、照れているように見えた。
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