余念
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埋まらない溝にため息を吐く僕の後ろで、雨帝が静かに息を吐いた。ため息ではない。何かを言おうとして止めたような、そんな吐息だった。
「あぁもう、情けないなぁ……」
独り言のように呟く。膝を抱えて座り込み、顔を埋めている姿は何とも情けない。それでも、何が何でも雨帝に顔を見られたくなかった。
「……はぁ。定数、いい加減素直になってはどうですか? このままではアナタも奇数も辛いままですよ?」
「そんなこと、分かってるよ」
静かに追い討ちをかけてくる雨帝に、僕は精一杯の声を振り絞る。雨帝はどんな表情をしているだろうか。きっと、呆れているだろう。仕方ない。藍華にあれほど思われるなんてとんだ果報者だ。にもかかわらず、僕はその彼女を傷つけた。呆れられて当然だろう。
「にしても、定数。どうしてアナタはそう人間関係が歪んでいるのですか?」
雨帝が心底不思議そうに問いかける。わざとそういう風に演じているのか、それとも心の底から不思議に思ってるのか。つくづく分からない人だ。
「僕にとって、他人っていうのは、なんていうか、こう……遠い存在って言うか……」
額を膝にすりつけながら、僕は必死に言葉を選ぶ。この感情に一番近い感情が何なのかはもうとっくの昔に分かっている。
「怖かったんだ」
嫌われることが、怖かった。だから、誰にでもいい顔をして、悪意を隠してきた。僕は、そんな僕が誰より嫌いだった。
「少し、昔話をしてもいいかな?」
「ええ、もちろん」
雨帝は穏やかに言うと、僕と背中合わせになるように座り込んだ。お互いにもたれかかるように体重をかける。僕には雨帝の顔が見えず、雨帝には僕の顔が見えない。そこでようやく僕は雨帝が気を遣ってくれたことに気づいた。自然と笑みが漏れる。
「今から——どれぐらい前だったかなぁ……。八方美人で、相手に合わせて生きている少年がいたんだ」
雨帝は黙って聞いている。二つの呼吸音と一つの心音しか聞こえない。それがどういうことなのか、僕はすぐに分かった。それでも気にせずに話を続ける。
「ある日、少年は初めて自分の意見を口にした。周りの人は彼に優しく接してくれたし、合わせていれば仲良くしてくれた。だから、たまに意見してみてもいいなんて思ってしまったんだ。まぁ、それは驕りでしかなかったんだけど」
雨帝が息を呑む気配。きっと雨帝はこれから起こりうる最悪にしてたった一つの末路に気づいたのだ。
「結果、少年は周りの人たちから非難されて、独りぼっちになった。そこで、少年は思ったんだ。やっぱり、平穏無事に暮らすために、個人なんて邪魔でしかないんだ、ってね。だから少年はそれから、部屋に籠って、外では嫌われないことだけを考えて生きるようになった。自分の意見は押し殺すのが最善なんだと思うようになったんだ」
それはあの時の僕にとって、最後の手段であったに違いない。もうそれしか道は残されていないのだと思い詰めて、僕は間違えてしまった。それを打ち明けることでどうにかなるとは思っていない。おそらくそれで気が済むのは僕一人だろう。しかし、文句も言わずに聞いてくれた雨帝のことを考えると、自己満足では済ませない。僕は多分、僕自身と向き合わなければいけないのだと思う。それこそ、自分との戦いなどと言うゲームの世界のようなイベントが起きるに違いない。そのときのためにも、僕は変わらなければいけなかった。
「でも、少年は後悔した。自分のしてきたことはただの自己満足だったと気づいた。なのに今、情けないなって落ち込んでる。もう……本当にしょうもない……」
本来なら、こんなことをしている場合ではないはずだ。相談のようなことをしなくても僕のしなければいけないことは決まっている。藍華に謝る以外の選択肢を選んでいる場合ではない。と言うより、それ以外の選択肢などないはずだ。
「なるほど……」
雨帝は小さく呟くと瞳を俯けた。その瞳は憂いを帯び、小さな声は吐息混じりだった。かろうじて言葉が分かるぐらいで、語尾はほとんど消えかかっていた。
「それは、問題ですね」
今度はかなりしっかりした発音だった。
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