亀裂
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体が勝手に動いた。とりあえず今は彼女に謝らなければいけないと思った。しかし、なんと言えばいいだろう。今何を言おうが、許してくれるはずもない。彼女は、泣いていた。僕のために、泣いてくれた。初めてだったのだ。僕のことをそこまで大切に思ってくれている人に、僕はこれまで出会ってこなかった。だから、少し距離を置かれるだけだと思ったのだ。辛いのは自分だけで、耐えればすぐに終わる。そう思っていた。でも、違った。彼女は僕には理解できない部類の人だった。それを理解していなかったわけではない。ただ、僕といてはどちらも辛い思いをするだろうと思った。だから、把握した上で言ったのだ。一番直情径行で、素直で、子供じみた僕は。
すれ違っている。そう思った。
「待ってっ……藍華!」
僕の声に、少し先を歩く藍華が静止する。拳が固く握りしめられ、小刻みに震えているようだ。
ほんの少しの沈黙。
彼女が背を向けていたのはほんの短い時間だった。勢いよく振り向き、髪を振り乱す。空中には涙が散り、目元を赤く泣き腫らしていた。
どうして。
僕のことをそんな風に思うなんておかしい。僕は、君に思われていいような人間ではない。僕は君が思っている以上に建前でしか生きられない人間なんだよ。そう、教えてあげたい。
これ以上、僕のために君の時間を無駄にしたくないんだ。
「藍華……」
「ふんっ!」
彼女は唇を尖らせると、すぐそっぽを向いてしまった。唇を噛み締め、顔を悲哀に歪ませる。見ているだけで痛々しい。胸が苦しくなる。
なるほど、僕は。
「……許してとか、言うつもりはないよ。僕はただ、謝りたいだけなんだ」
「……」
藍華は黙っている。僕は気にせずに続けた。
「僕は不器用だから、君にきちんと伝えられるかは分からない。けれど、ここで謝らないのは僕の気が収まらないんだ。だから——ごめん、藍華」
「……なん、で、あやまる、の? 藍華が、ワガママで……潤は! 藍華が、きらい、なん、で、しょ?」
藍華が鼻をすすりながらしどろもどろに言葉を紡ぐ。何度もしゃくり上げて、何度も涙をこらえて彼女はそれでも問いかける。
僕は迷わずに答えた。
「君のことが大切だから。傷ついて欲しくないから。君が傷つくぐらいなら——僕が傷ついた方が、ずっといいと思うからだよ」
「——ッ……」
僕の言葉に藍華が息を呑む。顔を俯け、声を殺し、それでもこらえ切れずに息が漏れる。
「ウソだよ、そんなの。だって藍華、きずついたよ? こんなにいたいのに、どうして潤にはわからないの?」
懇願するような声。それはまるで僕を責めているようで胸が締め付けられた。途端、諦めの悪い僕は言い訳をしようとする。
「違うよ、藍華。僕は……」
「ちがわない!」
彼女の強い否定に、僕は一瞬たじろぐ。それでも必死に、取り繕う言葉を考える。
「なんで、なんでなんで? なんでわかんないの? 潤はあたしよりずっとオトナで、なのになんであたしにわかるのにわからないの?」
勢いに任せて捲し立てる藍華に、僕は失望した。彼女にでは断じてない。僕自身にだ。
あ。
そう。答えは最初から目に見えているんだ。僕が、素直じゃないだけで。
「潤なんて、だいっっっきらいだよ!」
「藍華!」
駆け出す彼女の背を、僕は呆然と見つめていた。この世界でただ一人、僕のために泣いてくれた人。その彼女に嫌われることがどんなに辛いことが、僕はようやく理解できた。僕に嫌いだと言われたとき、彼女はこんな気持ちだったのかと思案する。それはとても辛いこと。痛いこと。そして、怖いこと。
彼女の姿が遠く見えなくなってもなお、僕は彼女の走っていった方向を見つめていた。
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