星見
世界が終わりに向かっているのだと、人々が本気で信じ始めたのは、最後の星が消えた夜からだった。
かつて夜空を彩っていた無数の星々は、一つ、また一つと消えていった。まるで誰かが天上で灯火を吹き消すように。魔術師たちは警告を発し、神官たちは祈りを捧げたが、星の消滅は止まらなかった。そして三年前、最後の一つが闇に沈んだ時、人々は悟った。この世界そのものが、ゆっくりと死につつあるのだと。
アルディン・クロウは二十三歳の時、故郷を離れた。
彼が生まれ育ったのは北方の辺境、フロストヘルムという小さな街だった。かつては交易で栄えた街も、星が消え始めてからは衰退の一途を辿っていた。商人は去り、職人は店を閉じ、若者たちは希望を求めて街を出て行った。
アルディンが旅立ちを決意したのは、父が病で倒れた冬の朝だった。
「……行け」
病床の父は、痩せ細った手でアルディンの腕を掴んだ。
「お前には、ここで朽ちる人生は似合わない。お前の母は……お前が生まれる時、こう言ったんだ。『この子は遠くへ行く。誰も見たことのない場所へ』とな」
母のことは覚えていない。アルディンが二歳の時、謎の熱病で亡くなったと聞いている。だが父の言葉には、抗いがたい重みがあった。
「世界が終わるなら、終わりを見届けてこい。そして……もし奇跡があるなら、それを見つけてこい」
父は三日後、静かに息を引き取った。
葬儀を終えたアルディンは、父の形見である古びた剣と、母が遺したという青い石のペンダントだけを持って、フロストヘルムを後にした。行き先も目的も定かではなかった。ただ、じっとしていられなかった。
旅の最初の一ヶ月は、ただ南へ向かって歩き続けた。街道を行く旅人は少なく、時折すれ違う商人たちの顔には疲労と諦めが刻まれていた。宿場町に立ち寄っても、活気はなく、人々は小声で世界の終わりについて語り合っていた。
そんな旅の途中、アルディンは最初の出会いを経験することになる。
## 第一章 ― 火を灯す者
エルドラの街に着いたのは、雨の降る夕暮れ時だった。
街の門は半ば開け放たれ、衛兵の姿もなかった。石畳の道は泥に汚れ、家々の窓からは弱々しい灯りが漏れている。アルディンは宿を探して街を歩いたが、どの建物も荒廃の気配を漂わせていた。
ようやく見つけた宿屋「銀の鈴亭」は、外観こそ古びていたが、中からは暖かな光と、食事の匂いが漂っていた。扉を開けると、カウンターの向こうから若い女性が顔を上げた。
「いらっしゃい。……旅人さん?」
彼女の名はリィナといった。二十歳前後だろうか、赤みを帯びた茶髪を後ろで束ね、エプロン姿で立っていた。印象的だったのは、その瞳だった。暗い時代にあって、彼女の目には不思議な明るさがあった。
「部屋と食事を」
アルディンが答えると、リィナは微笑んだ。
「あいにく客はあなただけよ。でも、だからこそゆっくりできるわ。上がって」
その夜、アルディンは宿の食堂で、リィナが作った温かいシチューとパンを食べた。久しぶりの まともな食事だった。食後、暖炉の前で温まっていると、リィナが紅茶を持ってやってきた。
「どこから来たの?」
「北のフロストヘルム。知らないだろうが」
「聞いたことはあるわ。雪深い街でしょう? そこからこんな南まで、随分な距離ね」
リィナは隣の椅子に腰を下ろした。
「何を探しているの? 旅人はみんな、何かを探しているものよ」
アルディンは少し考えてから答えた。
「わからない。ただ……世界が終わるなら、その前に何かを見つけたいと思っている」
「何かって?」
「それがわからないから、探しているんだ」
リィナは笑った。透明感のある、鈴を鳴らすような笑い声だった。
「正直ね。でも、それでいいと思うわ。探すものなんて、探しながら見つけるものだもの」
彼女は暖炉の火を見つめながら続けた。
「私はね、ここでずっと火を灯し続けているの。この宿の火を。客が来なくても、世界が終わろうとしても、毎日火を灯して、料理を作って、掃除をして。それが私のやり方」
「なぜ?」
「誰かが来るかもしれないから。あなたみたいに、疲れて、迷って、温かいものを求めている人が。そういう人のために、火は灯し続けなきゃいけないの」
その言葉には、静かな強さがあった。アルディンは初めて、諦めていない人間に出会った気がした。
アルディンはエルドラの街に三日間滞在した。
本当は一泊の予定だったが、リィナに頼まれて、宿の修繕を手伝うことになった。壊れた屋根を直し、軋む床板を張り替え、詰まった煙突を掃除した。作業をしながら、リィナは様々な話をしてくれた。
彼女の両親は五年前、流行病で亡くなった。一人娘のリィナは、両親が遺した宿を守ると決めた。最初の頃は常連客もいたが、星が消え始めてから旅人は激減し、街自体が寂れていった。
「それでも続けるのか?」
屋根の上で作業しながら、アルディンは尋ねた。
「続けるわ」
地上からリィナが答えた。
「誰も来なくなっても、私はここにいる。それが私の場所だから。みんながみんな、旅に出られるわけじゃないでしょう? 誰かは残って、帰る場所を守らなきゃいけない」
三日目の夜、修繕を終えたアルディンは出発を告げた。
「明日の朝、出る」
「そう……」
リィナは少し寂しそうに微笑んだ。
「ねえ、一つだけお願いがあるの」
彼女は暖炉の前に立ち、その火を見つめた。
「もし、旅の先で何か美しいものを見つけたら、いつか教えて。手紙でもいいから。私、ここを離れられないけれど、あなたの目を通して世界を見たいの」
「約束する」
アルディンは頷いた。
「必ず、美しいものを見つけて、知らせる」
翌朝、夜明け前に宿を発つアルディンを、リィナは門まで見送った。
「またいつか」
「ああ。その時はもっと良い客として来る」
「楽しみにしてるわ。それまで、火は消さずにいるから」
振り返らずに歩き始めたアルディンの背中に、リィナの声が届いた。
「あなたはきっと、何か大きなものを見つけるわ。そんな気がするの」
その予感が正しかったことを、アルディンはまだ知らなかった。
## 第二章 ― 影と歩む者
エルドラから南へ二週間、アルディンは古代森林の入口に辿り着いた。
「嘆きの森」と呼ばれるその場所は、かつて精霊たちが住まう聖域だったという。だが今では、光を失った木々が立ち枯れ、霧が立ち込める不気味な場所になっていた。街道は森を迂回しているが、地図を見る限り、森を抜ければ三日は短縮できる。
アルディンが森に足を踏み入れた時、背後で声がした。
「北の者か」
振り向くと、黒いフード付きのローブを纏った人影が立っていた。背丈はアルディンよりやや低く、細身の体躯。フードの影から覗く顔は若く、中性的な美貌を持っていた。
「森を抜けるつもりなら、やめておけ。この森は生者の通る場所ではない」
「あなたは?」
「……ヴェイン」
男はそれだけ答えた。
「森の案内人、とでも言っておこう。金を払えば、安全に案内してやる」
普通なら怪しい申し出だったが、アルディンには断る理由がなかった。持っている金も少なく、危険な森で道に迷うよりは、案内人をつける方が賢明だ。
こうして、アルディンとヴェインの奇妙な道行きが始まった。
ヴェインは無口だった。
森の中を歩きながら、彼はほとんど口を開かなかった。ただ的確に道を選び、危険な場所を避け、野営の場所を見つけた。その動きには無駄がなく、まるで影のように静かだった。
最初の夜、焚き火を囲んで座った時、アルディンは尋ねた。
「なぜこんな森で案内人をしている?」
ヴェインは炎を見つめたまま答えた。
「……それしかできないからだ」
「どういう意味だ?」
「俺は、生まれつき影の中でしか生きられない。光の下では、体が持たない。だからこの森が、俺の居場所だ」
それは奇妙な告白だった。だがヴェインの言葉には嘘がないように感じられた。
「珍しい体質だな」
「呪いだと言われたこともある。だが、これが俺だ。変えようがない」
ヴェインはフードを少し下げた。月光に照らされた彼の肌は、異様なほど白かった。
「子供の頃、村を追われた。化け物だと。それから一人で生きてきた。森の中で、影の中で」
「孤独だったろう」
「孤独には慣れた」
ヴェインは淡々と言った。
「だが……お前のような旅人を案内している時だけは、少しだけ孤独じゃない気がする」
その言葉に、アルディンは何も返せなかった。
二日目、森の奥深くで、彼らは異形の獣に襲われた。
それは熊とも狼とも違う、闇から生まれたような黒い生き物だった。目は赤く光り、牙からは毒液が滴っている。アルディンが剣を抜く間もなく、獣が飛びかかってきた。
その瞬間、ヴェインが動いた。
彼の手から黒い霧のようなものが噴き出し、獣を包み込んだ。獣は苦しげに吠え、その場に倒れた。霧が晴れた時、獣は動かなくなっていた。
「……影魔法か」
アルディンが呟くと、ヴェインは頷いた。
「俺の呪いは、同時に武器でもある。闇を操る力。だが、これを使うたびに、自分もまた闇に呑まれていく気がする」
「それでも使うのか?」
「守るべきものがある時は、使う」
ヴェインはアルディンを見た。
「お前を案内すると決めた以上、お前は俺の守るべき者だ。それだけのことだ」
三日目、森を抜ける直前、彼らは森の最深部に辿り着いた。
そこには巨大な枯れ木が立っていた。幹は太く、天に向かって伸びた枝は全て葉を落としていた。だがその根元には、小さな光が灯っていた。
「精霊の灯火だ」
ヴェインが囁いた。
「この森に残された、最後の光。もうすぐこれも消える」
アルディンはその光に近づいた。それは青白く、儚く揺れていた。まるで今にも消えそうな、小さな命のように。
「美しいな」
「……そうか? 俺には眩しすぎて、よく見えない」
ヴェインは距離を置いたまま言った。
「だが、お前がそう言うなら、きっと美しいのだろう」
アルディンは母の形見である青い石のペンダントを取り出した。不思議なことに、ペンダントの石が精霊の灯火に反応するように、淡く光り始めた。
「これは……」
「その石、ただの石じゃないな」
ヴェインが近づいてきた。
「精霊の欠片、だと思う。お前の母親は、どんな人だった?」
「知らない。俺が幼い頃に死んだ」
「……そうか」
ヴェインは何か言いかけて、口を閉じた。
森を抜けた時、二人は小さな泉のほとりで別れることになった。
「ここからは街道だ。もう案内は必要ないだろう」
「一緒に来ないか?」
アルディンの問いに、ヴェインは首を横に振った。
「俺は森の者だ。光の世界では生きられない。それに……」
彼は空を見上げた。曇り空の向こう、もはや星はない。
「俺は、影の中で影として消えていく。それが俺の運命だ」
「運命なんて、変えられる」
「お前は優しいな」
ヴェインは微笑んだ。彼が笑うのを見たのは、それが初めてだった。
「だが、全ての運命が変えられるわけじゃない。俺は自分の場所で、自分のやり方で生きる。お前は お前の道を行け」
ヴェインは懐から小さな黒い石を取り出し、アルディンに渡した。
「影石だ。危険が迫った時、これを握れ。一度だけ、影の加護がお前を守る」
「ヴェイン……」
「礼はいらない。これは、友への贈り物だ」
友、という言葉にアルディンは胸が熱くなった。
「またいつか、会えるか?」
「世界が終わる前にな」
ヴェインは森の暗がりに消えていった。まるで最初からそこにいなかったかのように。ただ手の中の影石だけが、彼の実在を証明していた。
## 第三章 ― 歌を紡ぐ者
街道を南へ進むこと一週間、アルディンは大きな川に辿り着いた。
ルナリア河と呼ばれるその川は、大陸を東西に分ける巨大な水脈だった。川を渡るには渡し船を使うしかなく、船着き場のある町リバーサイドに向かった。
リバーサイドは川沿いの交易町として栄えていたが、今では往時の賑わいはなかった。それでも他の街よりは活気があり、酒場や宿屋も営業していた。
アルディンが宿を取った夜、広場で人だかりができていた。中心には一人の女性が立ち、リュートを抱えて歌っていた。
彼女の歌声は、驚くほど透明だった。
歌詞は古い言葉で、意味は完全には理解できなかったが、旋律は胸に染み入った。喜びと悲しみが混ざり合ったような、不思議な歌だった。周囲の人々は静かに聴き入り、歌が終わると拍手が起こった。
女性は深く一礼し、帽子にいくらかの銅貨が投げ込まれるのを受け取った。人々が散り始めた頃、アルディンは彼女に近づいた。
「素晴らしい歌だった」
「ありがとう」
彼女は微笑んだ。二十代半ばだろうか、長い黒髪を編み込み、旅装束を身につけていた。目は深い緑色で、どこか遠くを見つめているようだった。
「私はセレナ。吟遊詩人よ」
「アルディンだ。俺も旅人だ」
「旅人同士ね。今夜、良ければ話さない? あの酒場で」
セレナが指差した先には、「笑う魚亭」という看板の酒場があった。
その夜、二人は酒場の隅のテーブルで向かい合った。
セレナは果実酒を飲みながら、自分のことを語り始めた。彼女は東の島国、ミズハの出身だった。幼い頃から歌が好きで、十八歳の時に吟遊詩人として旅立った。それから七年、各地を巡りながら歌い続けている。
「なぜ歌うんだ?」
アルディンの問いに、セレナは少し考えてから答えた。
「歌は記憶だから。人々の記憶、世界の記憶。私が歌い続ける限り、忘れ去られたものも存在し続ける」
「世界が終わろうとしているのに?」
「だからこそよ」
セレナは真剣な目でアルディンを見た。
「世界が終わるなら、せめて美しかったものを覚えていたい。誰かが覚えていれば、それは完全には消えない。歌は、そのための器なの」
彼女はリュートを取り、小さく爪弾いた。
「この楽器も、もう作れる職人はいないわ。でも私が弾き続ける限り、その音色は生き続ける」
その言葉に、アルディンは深く頷いた。
「俺と一緒に来ないか?」
思わず口から出た言葉だった。
「俺は、何かを探して旅をしている。それが何かはまだわからない。でも……お前の歌があれば、その何かを見つけた時、それを正しく記憶できる気がする」
セレナは驚いたように目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
「面白い誘い方ね。でも……いいわ。あなたと一緒に行く。あなたの旅の証人になる」
こうして、アルディンの旅に最初の同行者ができた。
二人は翌朝、渡し船でルナリア河を渡った。
船頭は老人で、無口に櫂を漕いでいた。川面は静かで、灰色の空を映していた。船が川の中ほどに差し掛かった時、セレナが歌い始めた。
それは船乗りの歌だった。遠い昔、船乗りたちが航海の安全を祈って歌ったという古い歌。セレナの声が水面に響き、不思議な残響を生んだ。
歌い終わった時、船頭が初めて口を開いた。
「……その歌を聴いたのは、五十年ぶりだ」
老人の目には涙が浮かんでいた。
「わしの父が、よく歌っていた。この川で船を出す時、必ず。懐かしい……」
「覚えていてくれてありがとう」
セレナは優しく言った。
「歌は、覚えている人がいる限り死なないの」
対岸に着いた時、船頭は渡し賃を受け取らなかった。
「歌の礼だ。良い旅を」
二人が岸辺を歩き始めた時、セレナがアルディンに言った。
「ねえ、あなたの母親のペンダント、見せて」
アルディンが青い石のペンダントを取り出すと、セレナは目を細めた。
「やっぱり。これ、セレスティアルストーンよ」
「セレスティアルストーン?」
「天の石。伝説では、かつて星の光を宿した石だと言われている。今ではほとんど残っていないはずだけど……」
セレナは石を優しく指でなぞった。
「あなたの母親は、何者だったの?」
「わからない。父も多くを語らなかった」
「……そう」
セレナは考え込むように眉を寄せた。
「でも、この石があなたを導いているような気がする。きっと、あなたが行くべき場所へ」
その予感は、やがて現実になる。
対岸から三日歩いた先に、小さな村があった。村の名はスターフォール。かつて流れ星がよく見えた場所だったことから、その名がついたという。
村に着いた二人を迎えたのは、子供たちだった。十人ほどの子供たちが、好奇心に満ちた目で二人を見つめた。
「旅の人?」
「吟遊詩人? 歌って!」
子供たちにせがまれ、セレナは村の広場で歌うことになった。集まったのは子供たちだけでなく、大人たちも仕事の手を止めてやってきた。
セレナは子供たちのために、明るい歌を選んだ。動物たちの冒険を歌った楽しい歌、恋人たちの物語を歌った甘い歌。子供たちは手拍子をし、笑顔で聴き入った。
その光景を見ながら、アルディンは思った。この暗い時代でも、こうして笑い合える場所がまだあるのだと。
歌が終わった後、村長が二人を食事に招いた。村長の家で出されたのは、質素だが温かい食事だった。パンとスープ、それに少しの野菜。
「すまんな、こんなものしか出せなくて」
村長は白髭を撫でながら言った。
「収穫が年々減っておる。だが、まだ我々には希望がある」
「希望?」
アルディンが尋ねると、村長は頷いた。
「この村には、古い言い伝えがある。世界が終わる時、星を継ぐ者が現れる、と。その者は青い光を纏い、失われた星々を再び空に戻すという」
「伝説ですか」
セレナが言った。
「ああ、伝説だ。だが……信じることは、自由だろう? 我々は信じている。いつか、その者が現れることを」
その夜、村の外れの宿舎で休んでいた時、セレナがアルディンに言った。
「あなた、自分が何者か、考えたことある?」
「何者って?」
「その石を持ち、精霊の灯火に反応し、影の者に認められた。普通の旅人じゃないわ」
アルディンは天井を見つめた。
「わからない。ただの、居場所のない男だと思っていた。でも……」
彼は母の石を握りしめた。
「もしかしたら、俺には何か、すべきことがあるのかもしれない。それが何かはわからないけど」
「見つけましょう」
セレナは言った。
「一緒に。そして私は、それを歌にする」
## 第四章 ― 剣と誓いの者
スターフォールの村を出て一週間後、二人は山岳地帯に差し掛かった。
「竜牙山脈」と呼ばれるその山々は、かつて竜が住んでいたという伝説が残る険しい土地だった。山道は狭く、時折崖崩れの跡が見られた。
三日目、山道で野盗に襲われた。
五人組の荒くれ者たちは、剣と斧を手に二人の行く手を阻んだ。
「置いていけ、荷物を全部」
リーダー格の男が凄んだ。
「女も置いていきな。楽しませてもらうぜ」
アルディンは静かに剣を抜いた。父の形見である古い剣だが、手入れはしてある。
「断る」
「なら死ね!」
野盗たちが襲いかかってきた。
アルディンは父から剣を習ったことがあった。基本的な型だけだったが、体が覚えていた。最初の一人の剣を受け流し、体を捻って反撃する。刃が男の腕を浅く切り、男は悲鳴を上げて後退した。
だが多勢に無勢だった。二人、三人と同時に襲いかかってくる野盗たちに、アルディンは徐々に押されていった。背中にセレナを庇いながら、必死に剣を振るったが、限界が近づいていた。
その時、どこからか声が響いた。
「下がれ!」
轟音とともに、野盗たちの足元に何かが落ちた。それは小さな爆発を起こし、煙が立ち込めた。野盗たちが混乱する中、煙の向こうから人影が飛び出してきた。
それは一人の女騎士だった。
銀色の鎧を身につけ、長剣を手にした彼女は、見事な剣技で野盗たちを圧倒した。一撃、二撃、三撃。無駄のない動きで次々と野盗たちを打ち倒していく。残った野盗たちは恐れをなして逃げ出した。
煙が晴れた時、女騎士はアルディンたちの前に立っていた。
「怪我は?」
低く、凛とした声だった。
「ない。助かった」
女騎士は兜を脱いだ。現れたのは、三十代前半と思われる女性の顔だった。短く切った銀髪、鋭い青い目、強い意志を感じさせる表情。
「私はカーラ。元王国騎士団の隊長だ」
「元、というのは?」
「もう王国は存在しない」
カーラは剣を鞘に収めた。
「三年前、星が消えた後、王都は崩壊した。王は死に、騎士団は解散した。私は……ただの流浪の騎士だ」
その言葉には、深い悲しみと疲労が滲んでいた。
三人は近くの洞窟で野営することにした。
焚き火を囲んで、カーラは自分の物語を語った。彼女は貧しい農民の娘として生まれ、幼い頃から剣の才能を示した。十六歳で王国騎士団に入り、功績を重ねて隊長にまで昇進した。
「騎士として、私は国と民を守ると誓った」
カーラは炎を見つめて言った。
「だが、守るべき国は滅んだ。民は散り散りになった。私の誓いは、何の意味もなくなった」
「それでも剣を握っている」
アルディンが言った。
「それでも、だ」
カーラは自分の手を見つめた。
「剣しか知らない。戦うことしかできない。だから、せめて弱い者を守りながら、死に場所を探している」
「死に場所なんて探すな」
セレナが強い口調で言った。
「あなたはまだ生きている。生きているなら、新しい誓いを立てればいい」
「新しい誓い……」
カーラは苦笑した。
「何に誓えばいい? もう守るべきものは何もない」
アルディンは考えてから言った。
「俺たちと来ないか? 俺は、何かを探して旅をしている。何かはわからないが、きっと大事なものだ。お前の剣が必要だ」
「私の剣が?」
「ああ。そして……もしかしたら、旅の先に、お前の新しい誓いも見つかるかもしれない」
カーラは長い間黙っていた。炎が揺れ、影が踊る。やがて彼女は顔を上げた。
「わかった。ついていこう。ただし条件がある」
「何だ?」
「お前が見つけるものが、守るに値するものだと証明しろ。それができたら、私はお前に剣を捧げる」
「約束する」
こうして、アルディンの旅に二人目の仲間が加わった。
山脈を越える道のりは厳しかった。急な崖、吹雪、そして時折現れる魔獣。だがカーラの剣技と判断力のおかげで、三人は無事に難所を乗り越えていった。
ある夜、峠の小屋で休んでいた時、アルディンは不思議な夢を見た。
夢の中で、彼は星々が輝く空の下に立っていた。だが星は一つずつ消えていき、やがて闇だけが残った。その時、誰かの声が聞こえた。
「光を継ぐ者よ」
それは女性の声だった。優しく、懐かしい声。
「あなたは選ばれた。世界の最後の希望として。北の果て、忘れられた神殿に向かいなさい。そこに、すべての答えがある」
「誰だ?」
アルディンが尋ねると、声は答えた。
「あなたを愛した者。そして、あなたに未来を託した者」
目が覚めると、夜明け前だった。アルディンは汗をかいていた。
「どうした?」
隣で寝ていたカーラが目を覚ました。
「……夢を見た。北に行けと」
「北?」
「ああ。忘れられた神殿がある、と」
カーラは眉をひそめた。
「北の果てといえば……『氷結の神殿』か。伝説では、かつて星の女神を祀った場所だと言われている。だが、もう何百年も前に封印されたはずだ」
「それでも、行かなければならない気がする」
アルディンは青い石のペンダントを取り出した。石は微かに光っていた。
「この石が、導いている」
セレナが起き上がり、二人を見た。
「なら行きましょう。私たちも一緒に」
「危険だぞ」
「危険なら、なおさら一人にはできないわ」
カーラも頷いた。
「私も行く。守るべきものを、まだ見つけていないからな」
三人は山脈を越え、北への道を進むことを決めた。
## 第五章 ― 知を求める者
山脈を越えた先には、広大な平原が広がっていた。
かつては緑豊かな大地だったというが、今では枯れ草が風に揺れるだけの荒涼とした景色だった。平原を三日歩いた先に、古い都市の遺跡が見えてきた。
「アークライト」
カーラが呟いた。
「かつての学術都市だ。大陸中から学者や魔術師が集まり、知識を追求した場所。だが二十年前、謎の災害で崩壊した」
遺跡に近づくと、確かに崩れた塔や壊れた建物が見えた。だが完全な廃墟ではなかった。いくつかの建物には明かりが灯り、人の気配があった。
「まだ人が住んでいるのか」
三人が遺跡の中心部に入ると、一人の老人が現れた。白い長い髭、深い皺の刻まれた顔、だが目は鋭く輝いていた。
「ほう、訪問者とは珍しい」
老人は杖をついて近づいてきた。
「私はレオナルド。この遺跡の管理人、いや、最後の住人と言うべきか」
「ここで何を?」
セレナが尋ねた。
「知識の保存さ」
レオナルドは誇らしげに言った。
「この都市には、何千年もの知識が蓄えられている。歴史、魔術、科学、芸術。世界が滅びようとも、知識だけは残さねばならん」
老人は三人を、まだ崩れていない大図書館へと案内した。中には無数の本が並び、巻物が積まれていた。天井までそびえる書架の間を、レオナルドは慣れた足取りで歩いた。
「さて、お前たちは何を求めてここに来た?」
「北の果て、氷結の神殿について知りたい」
アルディンが答えると、レオナルドは驚いたように目を見開いた。
「氷結の神殿……それは禁断の場所だ。なぜそこへ?」
「導かれた。この石に」
アルディンがペンダントを見せると、レオナルドは息を呑んだ。
「セレスティアルストーン! しかもこれほど純度の高いものは……」
老人は震える手で石を見つめた。
「お前は何者だ?」
「ただの旅人だ」
「嘘をつくな」
レオナルドは鋭い目でアルディンを見た。
「その石を持つ者は、星の血を引く者だけだ。お前の母は……もしや」
老人は図書館の奥へと歩き始めた。
「ついて来い。見せたいものがある」
レオナルドが案内したのは、特別な部屋だった。壁一面に古い絵画や地図が飾られている。その中の一枚、大きな肖像画の前で老人は立ち止まった。
「これを見ろ」
それは一人の女性の肖像画だった。長い黒髪、優しい目、そして首には青い石のペンダント。
「セレスティア・エルナ。最後の星の巫女だ」
レオナルドは静かに語り始めた。
「二十五年前、彼女はこの都市で学んでいた。星の魔術の最後の継承者として。だが星が消え始めた時、彼女は姿を消した。どこへ行ったのか、誰も知らない」
アルディンは肖像画を見つめた。その顔は……父が持っていた、母の小さな肖像と似ていた。
「これが……母なのか?」
「もしお前が彼女の息子なら、お前には使命がある」
レオナルドは深刻な表情で続けた。
「星の巫女の一族は、代々世界の均衡を保つ役割を担ってきた。だが星が消え、その力も失われた。彼女はおそらく、最後の希望をお前に託したのだ」
「何の希望を?」
「星を取り戻す希望だ」
老人は古い書物を取り出した。
「伝説によれば、氷結の神殿には『星の器』が眠っている。それは世界中の星の光を集め、再び空に放つことができる装置だという。だが、それを起動できるのは星の血を引く者だけだ」
カーラが口を開いた。
「つまり、アルディンが星を取り戻せる、と?」
「可能性はある。だが……」
レオナルドは厳しい顔をした。
「神殿に至る道は危険だ。そして、星の器を起動するには大きな犠牲が必要かもしれない。過去の記録では……」
老人は言葉を濁した。
「命と引き換えになると書かれている」
沈黙が部屋を支配した。
やがてアルディンが口を開いた。
「それでも行く」
「アルディン……」
セレナが心配そうに見る。
「母が俺に託したものがあるなら、それを果たさなければ。それに……」
彼は二人の仲間を見た。
「この旅で出会った人たち、リィナも、ヴェインも、そしてお前たちも。みんな、終わりゆく世界で必死に生きている。その人たちのために、何かできるなら、やりたい」
カーラは剣の柄に手を置いた。
「なら、私はお前を守る。それが私の新しい誓いだ」
「私は歌う」
セレナも言った。
「あなたの物語を。そして、もし星が戻るなら、その奇跡を」
レオナルドは深く頷いた。
「わかった。ならば、できる限りの支援をしよう」
老人はその夜、三人に様々な知識を授けた。氷結の神殿への道、そこに潜む危険、そして星の器について知られていること。また、魔除けの護符や、寒さに耐えるための魔法の外套も用意してくれた。
翌朝、出発の時、レオナルドは言った。
「もし成功したら、また来い。その時は、新しい知識でこの図書館を満たそう。希望の知識でな」
「必ず」
三人は遺跡を後にした。背負うものは重くなったが、同時に目的も明確になった。
## 第六章 ― 氷の試練
アークライトから北へ向かう道は、日を追うごとに寒さを増していった。
一週間後、三人は雪に覆われた土地に入った。空は常に灰色で、冷たい風が吹き荒れていた。レオナルドから受け取った魔法の外套がなければ、凍死していたかもしれない。
「もうすぐ氷結の森だ」
カーラが地図を確認しながら言った。
「そこを抜ければ、神殿がある」
氷結の森は、その名の通り全てが凍りついた森だった。木々は氷の柱となり、地面は鏡のように滑らかな氷で覆われていた。足を踏み入れた瞬間、空気が違うことがわかった。息をするたびに肺が痛む。
森の中を進むこと数時間、彼らは異変に気づいた。
「誰かいる」
カーラが剣に手をかけた。
氷の木々の間から、人影が現れた。いや、人ではなかった。それは氷でできた人型の存在だった。透明な体、青白く光る目。
「氷の守護者……」
セレナが囁いた。
「神殿を守る番人よ」
守護者は無言で近づいてきた。そして、アルディンを指差した。
「星の血を持つ者」
声は氷が砕けるような音だった。
「証明せよ。汝が真に選ばれし者であることを」
「どうやって?」
アルディンが尋ねると、守護者は森の奥を指した。
「三つの試練を乗り越えよ。力の試練、心の試練、そして魂の試練を」
守護者は氷の中に溶けるように消えた。
「試練か……」
カーラが呟いた。
「行くしかないな」
森を奥へ進むと、最初の試練の場所に辿り着いた。
それは広い氷の広場だった。中央には巨大な氷の像が立っていた。戦士の姿をしたその像が、突然動き出した。
「力の試練だ!」
カーラが叫び、剣を抜いた。
「私が相手をする!」
氷の戦士とカーラの戦いが始まった。カーラの剣技は見事だったが、氷の戦士は強大だった。剣を振るうたびに、氷の破片が飛び散る。だが戦士は何度斬られても再生する。
「くそ……きりがない」
カーラが息を荒げる。
「待て」
アルディンが前に出た。
「これは力だけの試練じゃない」
彼はペンダントを握りしめた。石が光り始める。アルディンは氷の戦士に向かって歩いた。
「俺は戦いに来たんじゃない。守るために来た」
戦士の剣がアルディンに振り下ろされる。だが、ペンダントの光が盾となり、剣を止めた。光が広がり、氷の戦士を包み込む。
戦士は動きを止め、やがて光に溶けていった。
「力とは、破壊するためではなく、守るためのもの……」
どこからか声が響いた。
「汝、一つ目の試練を越えた」
二つ目の試練は、迷宮だった。
氷の壁で作られた複雑な迷路。入口に立つと、守護者の声が聞こえた。
「心の試練。汝の心の迷いが、道を阻む」
三人は迷宮に入った。だがすぐに、奇妙なことが起こり始めた。壁に映る影が、形を変えていく。そして、それぞれに幻が見え始めた。
カーラには、死んだ仲間たちが見えた。かつての騎士団の仲間たちが、彼女を責める。
「お前は我々を見捨てた」
「お前のせいで、王国は滅んだ」
カーラは剣を握りしめ、歯を食いしばった。だが、彼女は幻に向かって言った。
「違う。私は全力で戦った。だが、運命には抗えなかった。でも……今、私は新しい戦いをしている。過去を背負いながら、未来のために」
幻は消えた。
セレナには、歌を奪われる幻が見えた。リュートが壊れ、声が出なくなる。
「お前の歌に意味はない」
「誰も覚えていない」
だがセレナは微笑んだ。
「たとえ一人しか聞いていなくても、私は歌う。歌は、歌う者がいる限り存在する」
彼女は声を上げて歌い始めた。幻は歌声に押し流され、消えていった。
アルディンには、母の幻が見えた。
「なぜ来た?」
母の姿をした幻が問う。
「お前は、ただ生きればよかった。この重荷を背負う必要はなかった」
「でも……」
アルディンは震える声で答えた。
「母さんが託したものがあるなら、それを果たしたい。そして、母さんが愛したこの世界を、守りたい」
幻は優しく微笑んだ。
「ならば行きなさい。私の息子」
迷宮が崩れ、出口が現れた。
「心の迷いを越えた者よ。進め」
三つ目の試練は、最も静かなものだった。
それは小さな氷の部屋だった。中央には鏡があり、その前に立つよう促された。
「魂の試練。汝の真実を見よ」
アルディンが鏡を見ると、そこには自分の姿が映っていた。だが、背景が違った。鏡の中の世界には、星が輝いていた。無数の星が夜空を彩り、その下で多くの人々が笑顔で暮らしていた。
リィナが宿で客を迎えている。ヴェインが森で、今度は光の中を歩いている。カーラとセレナが、子供たちに剣と歌を教えている。
「これが……俺が取り戻すべき未来?」
「汝が選ぶ未来だ」
守護者の声。
「だが知れ。この未来には代償がある。星を取り戻すには、星の血を持つ者の命が必要だ」
アルディンは静かに頷いた。
「わかっている」
「それでも進むか?」
「ああ」
鏡が光に包まれ、砕け散った。その破片が舞い上がり、道を示す。
「汝、全ての試練を越えた。氷結の神殿へ進むがよい」
三人は最後の道を歩き始めた。
## 第七章 ― 星の器
氷結の神殿は、山の頂に建っていた。
白い石で作られた荘厳な建築物。時が止まったように、完璧な姿で存在していた。大きな扉には、星の紋章が刻まれている。
アルディンがペンダントを扉にかざすと、扉はゆっくりと開いた。
内部は広大だった。高い天井、並ぶ柱、そして最も奥に、祭壇があった。祭壇の上には、球体の装置が置かれていた。それは透明で、中に無数の光の粒が閉じ込められているように見えた。
「星の器……」
アルディンが近づくと、装置が反応した。光の粒が活発に動き始める。
その時、背後で声がした。
「よく来たな、我が息子よ」
振り向くと、女性の姿があった。半透明で、実体はない。だがその顔は、肖像画で見た母、セレスティアの顔だった。
「母さん……?」
「私の残留思念だ。お前が来るのを、ずっと待っていた」
セレスティアの幻影は、優しく微笑んだ。
「お前に全てを説明する時間はない。だが、知っておいてほしい。私は、お前を愛していた。そして、お前に未来を託した」
「なぜ俺に? なぜこんな重荷を?」
アルディンの声は震えていた。
「重荷ではない。希望だ」
セレスティアは言った。
「世界は終わろうとしている。だが、完全には終わらせたくなかった。だから、最後の可能性として、お前を産んだ。星の血を継ぐ者として」
彼女は星の器を指した。
「この器を起動すれば、失われた星々が戻る。世界は再び光を取り戻す。だが……」
「命と引き換えなんだろう?」
「そうだ。星の血を持つ者が、自らの命を器に捧げることで、星は蘇る」
セレスティアの目に涙が浮かぶ。
「だが、お前に強制はしない。これはお前の選択だ。生きて、平凡な人生を送ってもいい。誰も、お前を責めない」
アルディンは長い間、黙っていた。
やがて彼は、後ろに立つ二人の仲間を見た。カーラとセレナは、何も言わず、ただ見つめていた。
「お前たちは……どう思う?」
カーラが一歩前に出た。
「私は、お前の選択を尊重する。だが……もし星が戻らなくても、世界が終わっても、お前が生きる道を選んだことを、私は責めない」
セレナも頷いた。
「あなたはもう、十分に多くを背負った。もう休んでもいい」
アルディンは二人に微笑んだ。
「ありがとう。でも……俺は決めている」
彼は星の器に近づいた。
「この旅で、俺は多くの人に出会った。リィナは、誰も来なくても火を灯し続けると言った。ヴェインは、影の中でも誰かを守ると決めた。村長は、伝説を信じ続けた。レオナルドは、知識を守り続けた。みんな、終わりゆく世界で、それでも何かを守ろうとしている」
彼はペンダントを外した。
「なら、俺は星を守る。いや、取り戻す。それが俺の役目なら、喜んで果たす」
「アルディン……!」
セレナが叫んだ。
「まだ他の方法が!」
「ない」
アルディンは穏やかに首を振った。
「レオナルドの本にも書いてあった。これしか方法はない。でも……」
彼は二人を見た。
「お前たちに頼みたいことがある」
カーラが剣を抜いた。
「何でも言え」
「星が戻った後の世界を、見届けてほしい。そして、生きてほしい。俺の分まで」
「……約束する」
カーラの目から、涙が流れた。
セレナはリュートを抱きしめた。
「あなたの物語を、必ず歌にする。千年後まで、語り継がれる歌にする」
「頼む」
アルディンは星の器に手を置いた。
「母さん、見ていて。俺は、母さんの息子として、誇りを持ってこれをやる」
セレスティアの幻影が微笑む。
「私の誇りだ、アルディン」
アルディンはペンダントを器に押し当てた。
瞬間、眩い光が神殿を満たした。
器の中の光の粒が激しく回転し始める。そして、器からアルディンの体へ、光が流れ込んでいく。いや、逆だった。アルディンの生命力が、器へと吸い込まれていく。
痛みはなかった。ただ、体が軽くなっていくのを感じた。まるで、重荷を下ろしていくように。
アルディンの体が光に変わり始める。
「カーラ、セレナ」
彼の声が響く。
「みんなによろしく。リィナには、美しいものを見つけたと伝えて。ヴェインには、光の中を歩けるようになると教えて。レオナルドには、新しい知識が生まれると約束して」
「アルディン……!」
二人の叫びが交錯する。
「そして……」
アルディンの姿が完全に光になる直前、彼は微笑んだ。
「この旅は、最高だった。お前たちに出会えて、本当に良かった」
光が爆発的に広がった。
神殿全体が震え、器から無数の光の筋が天へ向かって放たれた。それは空を突き抜け、雲を裂き、遥か宇宙へと届いた。
やがて、世界中で奇跡が起こり始めた。
フロストヘルムでは、人々が空を見上げて驚いた。夜空に、一つの星が現れたのだ。
エルドラでは、リィナが宿の窓から空を見て、涙を流した。星が輝いている。まるで、誰かが約束を果たしたように。
嘆きの森では、ヴェインが空を見上げた。星明かりが森に差し込み、彼の体は痛まなかった。影の呪いが、薄れていく。
スターフォールの村では、子供たちが歓声を上げた。何十年ぶりかの、星空だった。
アークライトでは、レオナルドが図書館の窓から空を見て、笑みを浮かべた。そして、新しい本に書き始めた。『星を取り戻した勇者の記録』と。
世界中で、星が一つ、また一つと現れていった。
氷結の神殿で、カーラとセレナは呆然と空を見上げていた。
星々が輝く夜空。何百年ぶりの、完全な星空。それは息を呑むほど美しかった。
だが、アルディンの姿はどこにもなかった。
祭壇の上には、青い石のペンダントだけが残されていた。それは今も、淡く光を放っている。
セレナがペンダントを拾い上げ、胸に抱いた。涙が止まらなかった。
「馬鹿……馬鹿よ……」
カーラも膝をついた。
「守ると誓ったのに……守れなかった……」
二人は長い間、そこで泣き続けた。
やがて夜が明けた。
星が消え、朝日が昇る。だが、それは以前とは違う朝日だった。世界が、色を取り戻し始めていた。空は青く、雲は白く、雪は輝いている。
「行こう」
カーラが立ち上がった。
「アルディンとの約束を果たすために。星が戻った世界を、見届けるために」
セレナも頷いた。
「そして、彼の物語を、世界中に伝えるために」
二人は神殿を後にした。手には、アルディンの形見のペンダント。
## 第八章 ― その後の世界
星が戻ってから、世界は急速に変化していった。
まず、植物が蘇り始めた。枯れていた森に緑が戻り、畑は実りを取り戻した。動物たちも活気を取り戻し、川には魚が泳ぐようになった。
人々の心にも、希望が戻った。
カーラとセレナは、約束通り、世界を巡った。
最初に訪れたのは、エルドラの街だった。
「銀の鈴亭」の扉を開けると、リィナが驚いて迎えた。
「お二人とも! アルディンは?」
セレナが静かに首を振ると、リィナは全てを理解した。
その夜、三人は暖炉の前で、アルディンの物語を語り合った。リィナは涙を流しながら聞いた。
「彼は……約束を守ってくれたのね。美しいものを見つけたと」
「ええ。最も美しいもの。星空を」
翌朝、リィナは宿の看板を新しくした。「星の鈴亭」と。
「これから、この宿は星を見上げる人々の場所にするわ。彼が取り戻してくれた星を、みんなで見る場所に」
次に訪れたのは、嘆きの森だった。
森はもう「嘆き」の森ではなくなっていた。木々に緑が戻り、精霊の灯火も強く輝いていた。
ヴェインは、森の入口で待っていた。彼の肌は以前ほど白くなく、目には生気があった。
「……聞いた。アルディンのことを」
ヴェインは空を見上げた。
「あいつのおかげで、俺は光の下を歩けるようになった。もう影に隠れる必要はない」
「これからどうするの?」
セレナが尋ねると、ヴェインは微笑んだ。
「森を守る。だが、今度は影の守護者としてじゃなく、光の守護者として。精霊たちと共に」
彼は二人に小さな木の実を渡した。
「これを植えてくれ。旅の先々で。そうすれば、アルディンの思いが広がっていく」
スターフォールの村では、盛大な星祭りが開かれていた。
何十年ぶりかの祭りに、村中が沸き立っていた。子供たちが笑い、大人たちが踊り、老人たちが涙を流した。
村長は二人を見つけ、広場の中央に連れて行った。
「皆! この方々の話を聞いてくれ!」
セレナはリュートを取り、語り始めた。星を取り戻した勇者の物語を。彼の旅を、出会いを、別れを、そして最後の選択を。
村人たちは静かに聞き入り、やがて涙を流した。物語が終わった時、村長が言った。
「我々は忘れない。星を継いだ勇者を。そして、この星空を」
村人たちは空を見上げ、一斉に歌い始めた。星への感謝の歌を。
アークライトでは、レオナルドが二人を歓迎した。
図書館には新しい書架が増えていた。そこには『星の勇者の記録』という本が何冊も並んでいた。
「書き終えたよ」
老人は誇らしげに言った。
「アルディンの物語を。これで、何千年後の人々も、彼のことを知ることができる」
「ありがとう」
セレナが言った。
「でも、私たちも歌で伝え続ける。生きている言葉で」
「それがいい」
レオナルドは頷いた。
「知識は、書物と歌と、人々の記憶の中で生き続けるものだ」
一年後、カーラとセレナは新しい王国の建設を手伝っていた。
星が戻ったことで、人々は希望を取り戻し、新しい国を作ろうという動きが起こっていた。カーラはその護衛隊長として、セレナは宮廷詩人として招かれた。
だが二人は、定住することを選ばなかった。
「私たちは旅を続ける」
カーラが王に告げた。
「アルディンの物語を、まだ知らない人々に伝えるために」
王は理解を示し、二人を送り出した。
こうして、二人の新しい旅が始まった。
彼女たちは大陸中を巡り、アルディンの物語を語り続けた。街で、村で、荒野で。人々は彼女たちの歌を聞き、涙を流し、そして星を見上げた。
五年後、二人は再び北へ向かった。
氷結の神殿を訪れるために。
神殿は変わらず、そこにあった。祭壇の上では、星の器が静かに光を放っていた。もう稼働はしていないが、その輝きは消えていなかった。
「アルディン」
セレナが祭壇の前で語りかけた。
「あなたの物語は、今も世界中で歌われているわ。子供たちは、あなたの名を聞いて育っている。老人たちは、あなたに感謝している」
カーラが剣を祭壇の前に置いた。
「お前は、守るべきものを教えてくれた。だから今、私は多くのものを守れている」
二人は長い時間、そこに佇んでいた。
やがて、不思議なことが起こった。
祭壇の上、器の隣に、淡い光が現れた。それは人の形を取り、アルディンの姿になった。ただし、実体はない。幻のような、優しい光。
「カーラ、セレナ」
アルディンの声が聞こえた。
「ありがとう。お前たちは約束を守ってくれた」
「アルディン……!」
二人は涙を流した。
「俺は、ここにいる。星の一部として。世界を見守っている」
アルディンの幻影は微笑んだ。
「お前たちの旅も、俺は全部見ていた。誇りに思う。そして……」
彼は夜空を見上げた。
「みんなに伝えてほしい。出会いは、決して無駄にはならない。そして別れは、終わりじゃない。俺たちは、いつも星の下で繋がっている」
光が薄れていく。
「またいつか。星の下で」
アルディンの姿が消えた。
だが二人は、もう悲しくはなかった。彼は確かに、そこにいる。星となって、永遠に。
## 終章 ― 星の下で
それから二十年が経った。
世界は完全に蘇っていた。森は深い緑に覆われ、街は活気に満ち、人々は笑顔で暮らしていた。新しい王国が建ち、新しい技術が生まれ、新しい芸術が花開いた。
だが、人々は決して忘れなかった。この世界を取り戻してくれた勇者のことを。
毎年、星が最も美しく輝く夜、大陸中で「星の祭り」が開かれる。人々は星を見上げ、アルディンの物語を語り合い、歌を歌う。
エルドラでは、リィナの娘が「星の鈴亭」を継いでいた。宿は繁盛し、世界中から旅人が訪れる。リィナ自身は年を取ったが、今も毎晩、暖炉に火を灯している。
嘆きの森は「希望の森」と呼ばれるようになった。ヴェインは森の長老となり、若い者たちに森の守り方を教えている。彼の肌は健康的な色を取り戻し、笑顔が絶えない。
スターフォールの村は、星の聖地として知られるようになった。村の中心には、アルディンの像が立っている。若者の姿で、空を見上げ、微笑んでいる。
アークライトは学術都市として再建された。レオナルドはすでに亡くなったが、彼の図書館は今も残り、『星の勇者の記録』は最も読まれる本の一つとなっている。
カーラは騎士学校を設立した。そこでは、剣術だけでなく、「何のために戦うか」を教えている。彼女の生徒たちは、アルディンの物語を聞いて育ち、皆が正義の騎士となっている。
セレナは老いた。もう若くはないが、歌声は今も透明だ。彼女は各地を巡り、子供たちに歌を教えている。彼女の歌う「星の勇者の歌」は、大陸中で愛される名曲となった。
ある秋の夜、セレナはエルドラの「星の鈴亭」を訪れた。
リィナは今や老婆だったが、二人は旧友のように抱き合った。
「久しぶりね」
「本当に」
二人は暖炉の前に座った。外では星が輝いている。
「ねえ、セレナ。あの子は……アルディンは、幸せだったと思う?」
リィナが尋ねた。
「ええ」
セレナは確信を持って答えた。
「彼は、自分の人生を選んだ。そして、多くの人を幸せにした。それが、彼の幸せだったと思う」
「そうね」
リィナは微笑んだ。
「私たちは、彼から多くをもらった。だから、私たちも次の世代に渡していかなきゃ」
その夜、宿には多くの旅人が集まった。そして皆で、星を見上げた。
空には無数の星が輝いていた。その中の一つが、特に明るく輝いているように見えた。
「アルディンね」
誰かが囁いた。
「ええ、きっと」
セレナがリュートを爪弾き、歌い始めた。
「遠い昔、一人の勇者がいた。彼は星を探し、世界を巡り、そして星となった……」
人々は静かに聴き入り、やがて一緒に歌い始めた。
歌声が夜空に響き、星々に届く。
そして、星の一つが、答えるように瞬いた。
---
物語は終わらない。
アルディンの旅は終わったが、彼が残したものは続いている。出会いの記憶、別れの痛み、そして希望。
人々は今日も、星の下で生きている。笑い、泣き、愛し、別れ、そしてまた出会う。
それが人生だ。
そして星は、いつもそれを見守っている。
かつて一人の若者が、命と引き換えに取り戻した星々が。
空を見上げよ。
そこに、彼がいる。
私たちの勇者が。
星を継いだ者が。
永遠に。
---
# エピローグ ― 百年後
百年の時が流れた。
アルディンを直接知る者は、もう誰もいない。だが彼の物語は、今も語り継がれている。
ある少年が、祖母に尋ねた。
「ねえ、おばあちゃん。星の勇者って、本当にいたの?」
老婆は微笑んだ。
「ええ、いたわ。私のおばあちゃんのおばあちゃんが、直接会ったって言っていた」
「どんな人だった?」
「優しくて、強くて、そして……寂しがりやだったって。だからこそ、出会いを大切にしたの。そして、別れることを恐れなかった」
少年は空を見上げた。星が輝いている。
「僕も、あの人みたいになりたいな」
「なれるわ」
老婆は少年の頭を撫でた。
「あの人も、最初はただの少年だった。でも、旅をして、人と出会って、成長した。あなたも、そうなれる」
「本当?」
「ええ。だって……」
老婆は星を指差した。
「あの星が、いつも見守ってくれているから」
少年は決意した。いつか、自分も旅に出よう。人と出会い、世界を見て、何かを成し遂げよう。
星の勇者のように。
その夜、星は特別明るく輝いた。
まるで、新しい旅立ちを祝福するように。
そして物語は、また新しく始まる。
出会いと、別れと、希望の物語が。
星の下で、永遠に。




