第十話
「パパおはよ~」
土曜日である今日は保育園はあるが、神也の仕事は休みだ。
五時に目覚めたため、早めに朝食を作っていたところ、愛が起きたばかりの目をごしごしとこすりながらリビングに入ってきた。
「おはよ。ご飯もうすぐで出来るから先にうがいしておいで」
すると愛ははーいとまだ眠そうな表情と気だるそうな足取りで洗面所に向かっていく。
神也の今日の予定はまず武林世界に行くことだった。
チュートリアルで行った武林世界では数千年居たが、地球では数日程度しか経過していなかった。
故に世界ごとに時間の流れが違うことが分かる。
それを踏まえて、「天魔王」としていくのではなく、変装とまでは行かないが、武林世界の衣装はまだ虚空収納に入っているため、農民が来ていそうな服を着て行くつもりだった。
そして時間の相対性が不明な為、念のために三笠肇に少し出かける旨を伝えるつもりだった。
いきなり武林世界に行くと言っても『頭がおかしくなった』と言われてしまう。
それに本当に武林世界に行けるかもまだ不明だ。
世界の意思は行けるとは言っていたが、実際に自分が確かめないと気が済まない。
そして武林世界でどれくらいの時が経ったのかも不明な為、いきなり義父や愛娘を連れていくことも出来ない。
一応武林世界の武人はかなりの長生きで、健康なまま年を取ってき、老衰で死ぬのはおよそ三百歳。
更に一定以上の水準を持つ武人ならば数千歳は生きる。
それが武功なのだ。
それでも念のためである。
記憶にある武林世界は異界からの侵略は起きていなかった。
ゲートはあったし、ゲート内に地球と同じようなモンスターも居た。
しかし、強者ばかりの武林世界では氾濫など滅多に起こらないし、起ったとしても即座に対応していた。
神也が羽化登仙してからどのくらいの時が経っているかは不明だが、まだ侵略されていない事を祈るしか出来ない。
親子二人での朝食が終わり、愛の準備も完了する。
神也は愛を保育園に毎日送迎していて、その方法は自転車だ。
電動自転車でもなく、普通のママチャリである。
神也の体力、パワー、スタミナからすれば余裕だ。
そして神也の自転車を漕ぐスピードが常軌を逸している為、愛は最初こそ怖がっていたが、今はすっかり慣れて毎日の送迎を楽しみの一つにしている。
「では、お願いします」
保育園に愛を送り届けた神也は保育士の女性に毎日の愛の保育園での行動を担当保育士が記入した手帳を手渡す。
手帳は神也も記入する欄があり、愛の家での様子や神也が気になっている事などを書く。
最近愛が神也の聞いたことのない童謡のような歌ばかり歌う事を冗談交じりに記入し、それを保育士も面白がって更に別の童謡を教えている。
正直勘弁してほしいと思う神也だが、愛が楽しそうにしているならそれで良いと思っていた。
自宅に戻った神也は虚空収納から取り出した農民服を着て、スマホや財布などを虚空収納にしまう。
三笠には『用事が合って、十七時までに俺から連絡がない場合は悪いんだけど、愛のお迎えお願い!』とだけメールで送った。
そして武林世界を念じ、ゲートスキルを発動する。
今朝と同じ黒いゲートが現れ、今度は踏みとどまる事無く足を踏み入れる。
【時間同期が完了しました】
ゲートをくぐると突然ポップアップが表示された。
時間同期とは地球と武林世界の時間なのかは不明だが、一応頭に入れておくことにし、神也は周囲を見渡す。
ゲートから出た場所は初めてチュートリアルで飛ばされた平原だった。
周囲には家族連れでお花見をしているのが数家族見受けられる。
そしてその家族は笑顔だ。
その様子を見て武林世界はまだ平和なんだと感じる神也は少しだけ救われたような気がしていた。
自分が去った後の世界がどうなっているのかがずっと不安であった神也にとって、些細な事でも小さな幸せを見つけられたのは救いだ。
そして天魔神教の本部がある首都へ向かうことにした。
今も本部が首都にあるのかは不明だし、そもそもまだ国があるのかも分からないが、とりあえず向かう事となった。
飛空術であれば数十秒で着くが、今はゆっくり景色や人々を見ながら歩きたい気分だった神也はのんびりと行くことにした。
すれ違う人々は笑顔で満ちていて、階級社会の最下層であるはずの百姓までもが笑顔だったことが嬉しく、自然と神也も笑顔になる。
神也が施した政策は幾つもあり、その一つが階級社会を維持しながらも『生きる権利』を保証する物だ。
最下層の百姓から最上層の皇族、教主までもが生きる権利があり、何人たりとも侵してはならない。
しかし、重大犯罪を犯した場合はその限りではなく、自らの潔白を主張する場合は自ら出頭する。
潔白だと主張するのに出頭しない場合は出会い次第斬り捨てられることもある。
普通こんな政策をしても誰もついてこない。
しかし、その政策を掲げたのが英雄であり、人民の救世主である天魔神教教主、天魔王の天道神也だった事で、天魔王が言う事ならば破られることはないと民は信じ、すべての罪人が平等に裁判を受ける権利を得た。
当然国の権力者から反発はあったが、神也はそれを実力で黙らせた。
『民なくして国はなし。民なくして王はなし』
この言葉が人民に広く伝わり、天魔神教の座を更に後押しした。
その成果が今も出ている事が嬉しかったのだ。
歩くこと数十分、首都入都審査の列に到着した神也は最後尾に並んだ。
この入都審査は初めて武林世界に来た時にもあったもので、首都には国の超重要人物が多数いる為、民であっても審査を受けないといけない。
現在入都審査を行っているのは皇国の守護隊と武林世界の実力者集団である天魔神教の守護隊だ。
神也が居た頃は天下泰平の第一人者である神也と天魔神教は皇国との関係性は非常に良く、皇子の弟子も多く取っていたりもした。
それだけ皇国は天魔神教を信頼し、信用していた。
それは今も変わっていないようで、更に嬉しくなる神也は、知らずの内に頬が緩んでいた。
列が少しずつ進む中、神也は見知った顔を見つけ、固まる。
その見知った顔の男は見た感じ三十代中盤で、高級そうな衣服を身に着けている。
神也は列が進む中、神也はそれに気づかず、その顔を見続けていた。
「あんちゃん。前進んでるぞ」
神也の後ろにいるガタイの良い男性が声をかける。
「あ、すみません」
慌てて前に進み、再び見知った顔を見る。
信じられないのだ。
『彼』がまだ生きていて、しかも全く姿が変わっていない。
その彼とは――。
「入都目的は?」
皇国守護隊の審査官が神也に聞く。
恐る恐る神也は答える。
「天魔神教に用があってね」
審査官は神也の答えを聞くと、天魔神教の守護隊の者に審査官を務めるように告げ、その場を離れた。
これは通常運転である。
天魔神教に用事がある場合などは天魔神教の守護隊の審査官が担当をする。
ルールではないが、物事が円滑に進むように考えた末の暗黙の了解だ。
「それで、天魔神教に用があるってことだが、どんな用事だ?」
担当する天魔神教の者は別に威圧している訳ではない。
表情は柔らかいし、色々手元の紙に書き込みながらも度々神也の顔を見ている。
本来今日は自分の正体を明かすつもりなど微塵もなかった。
しかし、『彼』を見てしまったため、居てもたってもいられなくなった。
「あそこにいる宝生を呼んでくれるか?」
後方で雑談をしている男を指さした神也に、その方向を見もせず、天魔神教の者たちは一斉に立ち上がり、武器を構える。
「貴様、武体極・宝生様を呼び捨てにするとは……」
神也は武器を向けられているのに笑顔になってしまった。
嬉しいのだ。
しかし、その笑みを見て更に殺気立つ一同。そして少し離れた場所に避難した入都審査を待つ民たち。
「何事だ!」
神教の者たちの後方で大声が響く。
その声の主は宝生。武体極の称号を得た天魔神教の重要人物の一人だ。
武体極とは【武器】【体術】を極めたという意味を持つ。
しかしそれを神也は知らない。
「宝生様! この男が宝生様を呼び捨てにし、我々を嘲笑っている為、敵対組織の諜報――」
「天魔王様……」
審査官が現状の説明をしていたが、宝生の目がその男に移った瞬間、宝生がポツリと呟く。
宝生の呟きに戸惑う神教の者たちだが、民たちは更に混乱していた。
しかし、神也だけは優しく温かい笑顔を宝生に向けていた。
「久しぶりだな。宝生」
神也の言葉に宝生は涙を浮かべながら稽首を行う。
宝生のその様子を見てこの場の天魔神教の者たちが一斉に稽首を行った。
「天魔神教不肖の弟子一同!天魔神教教主大天魔王様のご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じ奉ります!」
それは農民にしか見えない男が神の天魔教主であり、唯一の【天魔王】の称号を得た人物なのだ。
周囲の民はおろか、皇国の守護隊の者たちですら理解が出来ていなかった。
それもそう。
神也は知らぬことだが、天魔王の羽化登仙から既に数百年が経っているのだ。
武人ではない一般人が人口の大半を占める世界で数千歳などと言っても笑い飛ばされるだけである。
しかし、知識ある者であれば、武人は長生きという事も知っている。
それでも目の前の男が伝説と呼ばれ、すべての人から崇められ、崇拝の対象であり、世界の英雄と呼ばれた人物だとは思えない。
それが周囲の者たちの率直な思いだが、宝生は知っている。
目の前の男が真の教主であり、神也の羽化登仙後に【永世教主】の座を得た偉大なる存在だと。
何よりも宝生が見違えるはずがない。
何故なら宝生は神也の弟子なのだから。
武器の扱い、素手での格闘術、そして部隊を率いる術も師である神也から教わった。
そして【番外席次】と呼ばれる天魔神教の教主の次に高位である地位についた。
しかし、同時に理解する。宝生は強くなったが、それでも天魔王には遠く及ばない。
恐らく殺気を飛ばされただけで死んでしまう。
それほどまでの差がある。
だが何も悲観する事はなかった。
昔は師匠と自分の差すら理解できなかったのに、今では差を理解できている。
これも成長だと感じる宝生であった。
「気にするな。お前は自分の職責を全うしただけだ。俺は何も気にしていない。楽にしろ」
宝生の後方最前列で稽首をしていた審査官は恐怖に震えていた。
天魔神教の長い長い歴史の中で唯一の【天魔王】の称号を得て更に羽化登仙後も【永世教主】となった偉大な存在に対してとんでもない態度を取ってしまった。
それは『殺される』という恐怖ではなく、『偉大なる神を穢してしまった』という自責による恐怖だ。
それを察していた神也からの暖かすぎる言葉に審査官は涙を流す。
そして宝生の案内の下、天魔神教本部へと向かう。
「ところで今番外席次は俺の教主時代と変わっているのか?」
神也の問いに宝生は頷き、答える。
「はい。番外席次第一席が私で、他に天魔王様がご存じの者は二名居ります。安寿と司馬です」
神也は答えを聞いて思わず笑ってしまった。
安寿と司馬も神也の弟子であり、神也自身に数多の弟子が居たものの、特に印象に残っているのが宝生、安寿、司馬の三名だ。
「そうか……。あいつらも良くやっているのだな。元の番外席次はどうなった」
薄々分かっていた。
それでも聞いておきたい。
そんな思いで神也は宝生に聞いた。
そして返って来た答えは――。




