第二章 灰の王国の影 1
夜明け前の森は、血のように冷たかった。
月明かりに照らされ、霧がうっすらと漂っている。
「……はぁ、はぁ……」
足を止めると、心臓が爆発しそうなほど脈打っていた。
リシアが俺の腕を掴みながら、必死に呼吸を整える。
彼女の頬には泥がつき、銀髪は汗で濡れていた。
「隼人……もう少し、走れる?」
「走れるかどうかは……分からねぇ。でも、捕まるのはごめんだ」
「ありがとう……」
小さく呟いたリシアの手が、俺の腕を強く握った。
その手の震えが、俺の胸に不思議な焦燥を残す。
――“追跡者”。
廃墟を脱出したあと、何者かの気配がずっと俺たちを追ってきている。
あのアンデッドどもとは違う、生きている人間……いや、もっと別の何か。
「……来るぞ」
グラディアが低く告げた。
「隼人、背後だ」
振り向いた瞬間、空気が切り裂かれた。
黒い刃が俺の首をかすめ、背後の木に突き刺さる。
「――っ!」
「動くな。次は外さない」
月明かりの下に現れたのは、全身を黒い外套で覆った男だった。
顔は仮面で隠され、赤く光る目だけが見える。
「“鍵”はどこだ、少女」
リシアが息を呑む。
「……来ないで……!」
彼女の声は震えていたが、瞳の奥には怯えだけではなく、怒りの光が見えた。
「隼人……」
俺はリシアの前に立ち、グラディアを構える。
「誰だ、お前は。何者だ?」
「俺は“影の狩人”。お前たちの命と、その剣を奪いに来た者だ」
その声に、グラディアが不快そうに嗤った。
「……やはり“奴ら”か。面倒なことになったな、隼人」
「説明しろ、グラディア!」
「今は戦え。でなければお前も、少女も死ぬ」
男が地面を蹴った。
闇が爆ぜるような音とともに、目の前に迫る黒い刃。
俺はグラディアを横薙ぎに振った。
火花が散り、男の外套が裂ける――が、すぐに霧のように消えた。
「……分身!?」
「気をつけて、隼人!」
リシアが叫ぶ。
彼女の手のひらに淡い魔法陣が浮かび、周囲の空気が震え始めた。
「……お願い、離れないで」
その声に俺は一瞬だけリシアを見る。
――その表情は、涙を堪えるように歪んでいた。
「もう、大切な人を失いたくないの……!」
次の瞬間、森全体が白い光に包まれた――。
森全体を覆った光は、まるで世界そのものを弾き飛ばすような衝撃を伴って広がった。
耳が痛くなるほどの轟音。
俺は思わずリシアの身体を抱き寄せ、目を閉じた。
……気が付くと、森の景色が消えていた。
代わりに、見覚えのない洞窟の中。
「……ここは?」
「転移魔法よ……」
リシアは膝をつき、肩で息をしていた。
顔色は青白く、汗が頬を伝っている。
「大丈夫か!?」
「……少しだけ魔力を使いすぎただけ。時間を稼いだつもりだけど……長くはもたないわ」
彼女の手が小刻みに震えていた。
俺は慌てて支えたが、その細い体は信じられないほど軽かった。
「無理するな。あんな魔法……命が削れてるんじゃないのか?」
「……そうね。でも、あの人に捕まったらすべて終わりなの」
リシアはそう言い切ったが、その瞳の奥には恐怖よりも強い意志が宿っていた。
その表情が妙に胸を締め付ける。
「……さっきの男が言ってた、“鍵”ってなんだ?」
問いかけると、リシアは一瞬だけ目を伏せた。
そして小さく首を振る。
「……まだ言えない。言えば、あなたを巻き込むことになる」
「もう十分巻き込まれてるだろ」
俺の言葉に、リシアははっと顔を上げた。
碧眼が揺れ、言葉を探すように唇を震わせる。
「……ごめんなさい。でも、信じて。私……あなたを失いたくないの」
その言葉に、胸の奥がざわめいた。
“失いたくない”――まるで俺のことを、大切な何かに重ねているような。
「……おい、俺はまだ死ぬつもりはないぞ」
「……そう、ならいいわ」
リシアはかすかに笑った。その笑顔は、どこか儚げだった。
その時――グラディアが低く囁いた。
「隼人、油断するな。追跡者は生きている。ここに来るのも時間の問題だ」
「……わかってる」
俺は剣を握り直し、洞窟の奥を睨んだ。
追跡者、リシアの秘密、“鍵”……。
この世界のすべてが俺を取り巻き、少しずつ逃げ場を奪っていく。
「……隼人」
リシアが俺の服の裾をそっと掴んだ。
その手はまだ震えていた。
「お願い、私のそばにいて」
――その願いが、俺の胸に重く響いた。
そして、俺は静かに頷いた。
「……当たり前だ。俺はお前を置いて行かない」
リシアが小さく微笑んだ、その瞬間。
洞窟の入口から冷たい風が吹き込んだ。
まるで、闇そのものが侵入してくるような気配とともに。
「来たか……」
グラディアが鋭く告げる。
「“影の狩人”が近いぞ」
俺は立ち上がり、剣を構えた。
もう、迷っている暇はない。
洞窟の奥に、冷たい足音が近づいてきた。
まるで暗闇そのものが人の形をとったように――影の狩人が現れた。
「……逃げ場はない」
低い声とともに、外套の奥から黒い刃がゆっくりと現れる。
その刃先が、俺とリシアを同時に指した。
「少女を渡せ。でなければ――」
「断る!」
俺は言葉を遮り、グラディアを構える。
全身がまだ第一章の戦いの疲労で軋んでいるが、もう後ろには下がれなかった。
「お前が何者だろうが、リシアは渡さない!」
「愚かだな」
影の狩人の刃が閃いた。
目にも止まらぬ速さで俺の懐に入り込み、グラディアで受け止めるも、衝撃で腕が痺れる。
「っ……くそ……!」
「隼人!」リシアが叫んだ瞬間、影の狩人の姿がかき消えた。
次に現れたのは、リシアの背後。
「やめろ!」
間に合わない――そう思ったその瞬間。
轟音とともに、洞窟の天井が崩れた。
瓦礫と砂埃が舞い、影の狩人が跳んで距離を取る。
「……何だ?」
土煙の中から、重厚な鎧をまとった長身の人影が現れた。
その背中には巨大な斧、そしてマントには見覚えのない紋章。
「……リシア・ヴァルシュタインか」
「……っ!」リシアの肩が跳ねる。
その反応を見た鎧の人物は、低くため息をついた。
「お前を連れ戻すよう、王都から命令を受けている」
「王都……?」俺は思わず呟いた。
リシアは青ざめた表情で、ゆっくりと首を振る。
「……いや。私は……戻らない」
「ならば力ずくでも――」
鎧の人物が斧を引き抜いた、その瞬間。
影の狩人が間に割って入るように動いた。
「こいつは俺の獲物だ。邪魔をするな」
「俺は王都の騎士、獲物の取り合いをするつもりはない」
二人の殺気が洞窟を満たし、空気が重くなる。
俺はリシアを守るように立ち、グラディアが低く囁いた。
「隼人……この状況、最悪だな。敵が二人に増えたぞ」
「……分かってる」
だが、鎧の騎士が敵とは限らない。
だが、リシアの表情がその考えを否定する。
「……あの人も、私を連れて帰れば……殺される」
その一言が、決定的だった。
「……俺はもう迷わない」
俺はグラディアを強く握り直し、騎士と影の狩人の間に踏み出した。
「リシアを狙う奴は、まとめて叩き潰す!」
洞窟の空気が一気に張り詰める。
次の瞬間、影の狩人が動き、鎧の騎士も斧を構えた――。