アポリアの彼方外伝【アポリアの群青】――魂を救えなかった者への愛
第一節:選ばれなかった祈り
アポリアには、かつて一人の"レバーを引かなかった者"がいた。
彼は鉄のレールの前に立ち、分岐装置に手をかけながら、ただ震えていた。目の前には、五人を乗せた台車が迫っている。分岐先には一人の子供。誰かの娘であり、誰かの唯一の希望。
彼は、そのレバーを引かなかった。
世界は言った。愚か者だと。五人の命を犠牲にしたと。だが、彼の魂はその一人の子供に向けて、ただ、祈っていたという。
「おまえは、生きていていい。たとえ世界の大半がおまえの敵になったとしても、
私は、おまえだけは助ける。」
アポリアは、その選ばれなかった者たちの魂が流れ着く場所。
彼女もまた、その川辺にいた。
第二節:川の向こうの記憶
その少女――リナは、魔法の水晶を手に持ち、河原で祈っていた。
彼女は知っていた。祈りが通じないことを。AIの認証も、システムの値も、彼女の祈りを「無効」と判定していた。
けれど彼女は、祈りをやめなかった。
祈り石は光らない。だが彼女の胸の奥の祈りは、微かに震え続けていた。
「母さん、ごめんね。あたし、先に行っちゃったみたい。」
そのとき、川の向こうに誰かの姿が見えた。
白い衣をまとった女性。こちらを見て、口元だけで何かを囁く。
声は届かない。だけど、リナにはわかった。
それは――母の祈りだった。
彼女はずっと勘違いしていた。
自分の祈りが母に届いたのではなかった。
――母の祈りが、リナの魂をこの世界へと導いたのだ。
それを知ったとき、リナは涙を流すことなく、ただ、空を見上げた。
「じゃあ、もうちょっと、こっちでがんばってみる」
そう言って、再び水晶を手に祈り始めた。
アポリアの空は青かった。
第三節:功利と自由のあいだ
この世界では、5人の命を救えば正しいとされる。
だが、魂は数字では計れない。
リナのように、祈りが認証されなかった者たち。
その小さな祈りは、貨幣価値を持たず、アルゴリズムにとっては「無意味」だった。
しかし、
"意味がない"という判定は、
本当にその祈りが「無意味」だったことにはならない。
ベンサム的世界、功利主義の鉄の論理においては、一人のために世界は動かない。
でもアポリアは知っている。
"一人の魂が、すべてを変えることもある"ということを。
それは、自由主義でも、宗教でも、言葉の届かない魂の世界――
それがアポリアなのだ。
終節:祈りの石は光らなくても
リナは、今日も河原に座っている。
祈り石は光らない。
でも彼女のそばには、祈りの跡が積み重なっていく。
石の一つ一つに込められた想いが、いつか誰かの魂に届くと信じて。
「祈りの価値は、他者に測らせない」
彼女の言葉は、風に溶けて、空へ消えた。
そしてまた一つ、石を積む。




