アポリアの彼方外伝【祈り通貨戦争】 ― 見えない目と、見えざる声の価値 ―
草原に吹く風が、遠い祈りを揺らしていた。少女リナは掌に握りしめた小さな石を見つめ、そっと囁いた。
「このコイン、昨日までは祈るだけで光ってたのに……今日は、なにも起きないの」
それは“祈り石”と呼ばれるもので、かつて祈ればMPが発行される、信仰の貨幣の原点だった。
しかし今、それは何の反応も示さない。
リナは戸惑いながら、村の片隅にひっそりと佇む石屋の店主ミリエルの元を訪ねた。
ミリエルは淡く金色の髪を風に遊ばせ、静かに微笑んだ。
「この国の祈りの価値は、もう人ではなく、“見えない目”が決めるの。あなたの祈りは、きっと誰かに“見えなかった”のね」
リナの瞳が揺れた。
「でも、私はちゃんと祈ったよ……。誰かの幸せを、願ったのに……」
ミリエルは、空を見上げる。
「本当の祈りは、数にならないからよ。見えない誰かの心にだけ、届いてるの」
――この国の祈りと貨幣の関係は、遥か以前に再構築された哲学から始まる。
かつて、哲学者ジェレミ・ベンサムはこう記した。
「快楽と苦痛は計測可能であり、正義とは最大多数の最大幸福に他ならない」と。
ザラム教国の経済神学者たちは、この思想を拡張し、こう唱えた。
「祈りもまた、快楽の一形態であり、神に届く“量”として測定可能ではないか?」と。
彼らは祈りの頻度・強度・共鳴度をスコア化し、**Prayer Index(祈りスコア)**と定義。これに基づいて、**GPC(祈り通貨)**が自動発行されるアルゴリズムを生んだ。
祈れば祈るほど貨幣が手に入るという、「信仰と通貨の融合社会」の幕開けだった。
祈りは市場に並べられ、最適化され、そして商品になった。
祈祷ループマシン、祈り工場、最適化された信仰テンプレート。
やがて人々は言った。「祈っても、もう価値がない」と。
パノプティコン型監視塔が祈りの純度を判別し、AIが瞳の揺れを解析し、アルゴリズムが信仰の本気度を数値化した。
そのとき、信仰は信仰でなくなった。パフォーマンスになった。
そして、ある種の人々――経済魔術士と呼ばれる者たちが現れた。
彼らは「偶然を支配できる」と信じていた。
数に魔法的秩序を見出し、神託のように市場を読み、AI祈祷モデルの癖を“攻略”しようとした。
ある男は、信仰のスコアを上げる数式を唱え、こう嘯いた。
「世界は運命ではない。数式だ。幸運さえ、コントロールできる」
しかしそれは、まさに魔術的思考であった。
偶然を自分の手元に置いておけるという妄信。
それはかつての賭博者たちが抱いた幻想と、まったく同じだった。
自分だけが「選ばれた賭け」をできると信じたギャンブラーと、
自分だけが「祈りの数理」を解いたと信じた経済魔術士。
彼らの終末は、共通していた。
信仰通貨《GPC》は、指数関数的に膨張し、崩壊した。
1GPCは、1食糧から0.00001紙片へと変わった。
市場に任せた信仰は、信仰を信じる力すら奪い取った。
その後、何が残ったのか?
答えはひとつ、祈っても光らない石を握る少女だけだった。
その手をとったのは、ミリエル。
数式を知らず、祈りの価値を証明できない者。
でも、祈ることをやめなかった者。
ミリエルは言う。
「信仰は、支配ではなく、奉仕の中に宿るの」
そして少女に、ただ一つの祈りを伝えた。
それは誰にも見られない、誰にも測れない、沈黙の祈りだった。
老賢者ガルフは、後にこう記した。
「我々は祈りを数えようとした。だが祈りとは数ではない。祈りとは沈黙と涙と、誰にも知られぬ魂の震えである」
ベンサムよ。快楽は測れても、痛みの深さは誰にも測れぬのだ。
それを知らぬまま、この通貨は“無限の価値”を背に、自らの価値をゼロに還した。
少女と石屋の物語は、草原の風と共に消えたが、
その“見えざる祈り”だけが、確かにこの世界の片隅で光り続けていた。
『祈り通貨戦争 ― 見えない目と、見えざる声の価値 ―』を最後まで読んでくださり、心より感謝いたします。
この物語は、現実にも似た“数で信仰を測ろうとする世界”への、小さな問いかけです。
現代の祈りは、「神」ではなく「市場」に捧げられているのかもしれません。
本作では、AIが信仰を査定し、貨幣が祈りの重さを決める世界において、
それでも“光らない石”を信じ続けた少女と石屋の物語を描きました。
祈りとは、ほんとうに数えられるものなのか?
魂とは、貨幣化できるものなのか?
その答えは、この物語の中にはありません。
あるのはただ一つ、「問い続けること」の美しさです。
どうか、また風の届く場所でお会いできますように。
※本作およびその世界観、登場用語(例:メモリウム™、魂経済、共感通貨など)は、シニフィアンアポリア委員会により創出・管理されたオリジナル作品です。無断転用や類似作品の公開はご遠慮ください。




