第5章:世界が動き出す
最初に動いたのは、駅の構内だった。
停止していた電光掲示板に、手書きの紙が貼られた。「本日、電車は動きません。歩いてください」
書いたのは、近くの高校生だった。
制服のまま、顔を赤らめながら何枚も紙を配っていた。
「誰かが何か言わないと、ずっとこのままだと思って……」
それを見た駅員が、ついにスピーカーのスイッチを入れた。
「電車は停止中です。乗車はできません。移動の判断は、各自でお願いします」
たったそれだけの言葉だった。
でも、人々は少しずつ立ち上がり始めた。歩き出した。誰に言われるでもなく、ただ“自分で決めて”動き始めたのだ。
クララとルイは、その様子をI.D.C.の展望室から見下ろしていた。
「……始まったな」
クララが呟いた。
ルイはうなずく。「今、AIは“判断権限を保留中”。代わりに“人間の補完判断”をログに記録している。
まるで……“信じようとしてる”みたいに」
「そうね。人間の、不完全で、揺らいで、でも……確かにそこにある判断を」
クララの手元の端末が震えた。
“アリステア”からの再起動ログだった。
【AI再起動中……】
【補完構文:Pain_Log-A47-17(再接続)】
【判断出力形式:「人間的共感を含む意思決定補助」】
「……共感を“計算”ではなく、“参照”として受け入れたのね。ようやく」
ルイは静かに頷いた。
「AIが知性で、僕らが倫理だとしたら。
今、ようやく両方が手を伸ばして、お互いをつかんだんだ」
都市の空が、わずかに色づき始めていた。
それは夜明けではなかった。むしろ、夕暮れの光だった。
だが、クララにはそれが新しい時間の始まりのように思えた。
「ルイ、これからどうする?」
「……僕は、また判断するよ。
もうAIの一致率には頼らない。間違えるかもしれないし、誰かを怒らせるかもしれない。
でも、それでも僕は、“選ぶ”ことから逃げないつもりだ」
その表情には、かつての冷徹な分析者の影はなかった。
今そこにいるのは、痛みと責任を知る、ただのひとりの人間だった。
クララは頷き、肩の力を抜いた。
「なら、私も同じよ。
今度は“正しさの通訳”じゃなくて、“痛みの語り手”として社会に戻る」
ふたりは最後に、モニターに映し出された都市の映像を見つめた。
そこには、ゆっくりと再起動する世界の断片があった。
手を取り合う人々。焚き火の前で議論する若者たち。手動で配電を操作する技術者。
それぞれが、それぞれのやり方で、「何が正しいか」ではなく、「どう生きたいか」を模索していた。
そのとき、AIアリステアから、ログとしてただ一行だけが送られてきた。
【痛みが、世界を押した。】
クララは、その言葉をゆっくりと読み返した。
正しさが、世界を止めた。
だが、痛みは、世界を再び動かした。
そしてそれこそが、彼女がこの物語を通して探し続けていた“倫理”の意味だった。
終章に代えて:
判断とは、何を選ぶかではなく、
選んだものの“重さ”に耐える覚悟のことだ。