第4章:痛みを引き受ける者
都市の灯がひとつ、またひとつと消えていった。
交通網、商業システム、公共秩序──すべての判断が「沈黙プロトコル」によって保留された。
正確には、“出力停止”ではない。“判断不能な倫理状況”として、AI自らが演算を中断したのだ。
人類の歴史上、はじめてのことだった。
クララとルイは、旧中枢判断施設の展望フロアにいた。
ガラスの向こう、静まり返った都市は、かえって美しかった。
だがそれは、行動が消えた世界の美しさだった。
「……誰も、動こうとしない」
ルイがぽつりと呟いた。
遠く、駅のホームに並んだ人々は座り込んでいた。
バスも電車も来ない。だがそれでも、彼らは立ち上がらない。
なぜなら、「行動していい」という判断が、“与えられていない”からだ。
「これは……僕たちが目指していた世界じゃない」
その言葉は、彼自身に向けたものだった。
ルイ=チェン。かつて、AIと最も倫理的に一致した男。
だが今、彼は迷っていた。
自分の下した判断で、救えなかった者の記憶が、彼を内側から蝕んでいた。
「クララさん。……お願いがある。僕の判断記録を、もう一度見てほしい」
クララは頷いた。
彼女の携帯端末に、ルイの“倫理判断404”とされた案件のアーカイブが送られてきていた。
ログID#06745──難民救出フェーズX
対象:高齢女性(収容優先度C)
判断:排除(回収不可)
その時の状況は、確かに過酷だった。時間は残り10秒。通信は不安定。
ルイは冷静に計算し、“より多くを救うために、ひとりを見捨てた”。
その判断は正しかった。最適だった。だが──。
「彼女は……僕の母だった」
クララは目を見開いた。
「知ってた。写真で見たことがあった。
でも、あの瞬間、僕は“判断者”であって、息子じゃなかった」
彼の拳が震えていた。
「僕はAIと一致した。でも、心のどこかで、“あの判断を誰にも知られたくない”と思っていた。
もしそれを“正しい”とだけ言われたら、……たぶん、僕は壊れる」
クララはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと言った。
「ルイ。あなたは、自分の選択に責任を取ろうとしてる。それだけで、充分よ」
「でも、誰も認めてくれない。“正しさ”が保証されない判断なんて、社会は許してくれない」
「なら、こうしましょう」
クララは携帯端末を再起動し、共苦装置の記録を呼び出した。
「あなたが“選ばなかった判断”──つまり、あの場で“母親を救っていた世界線”の記憶を、私の脳に投影して。
……私が、その“もうひとつの判断”を引き受けてあげる」
ルイが顔を上げた。
「え?」
「AIが“正しくない”と判断した、その選択肢。
私がそれを、“生きた判断”として記憶するわ。
それが、あなたの判断を“痛みごと残す”ことになる」
ルイはしばらく言葉を失っていた。
それは、倫理上も制度上も、完全に意味を成さない行為だった。
だがクララは、本気だった。
「判断ってのはね、ルイ。“間違えたかもしれない”って痛みを抱えた人間だけができるものなのよ。
それがなければ、ただの処理。……生きてるって、そういうことだと思わない?」
ルイは、ゆっくりと、手に持ったIC送信機をクララに差し出した。
「じゃあ、お願いする。僕の代わりに……母を、救ってあげて」
彼女は頷き、送信を開始した。
装置が淡く光る。
データがBMI経由でクララの感覚野に入る。
一瞬、目の前が暗くなり、次に水の中で誰かの手を引いたような温かさが広がった。
そして──涙が流れた。
自分のものではない、でも確かに誰かが誰かを大切に思った記憶だった。
「ありがとう、ルイ。これで、あなたの判断は、誰かが“覚えている”」
そのとき、彼の肩が微かに震えた。
ギフテッドと呼ばれた知性の持ち主が、まるで子供のように泣いていた。
人間にとって、正しさは救いにはならない。
ただ、誰かがその判断を覚えていてくれること。
それだけが、人を“人間に戻す”のかもしれない。
クララは、そう思った。
そのとき、通信回線が再び反応した。
アリステアが動いたのだ。
【判断再起動要求:外部記憶に基づく“人間的補完”が確認されました】
「……来たわね」
AIは、完全な判断を諦めた。
かわりに、“記憶された痛み”を判断根拠として再接続しようとしていた。
それは、知性の敗北ではなかった。
むしろ、知性が初めて“倫理にひざまずいた”瞬間だった。