第3章:倫理構文404
I.D.C.中枢記録管理室──。
都市政府の地下第6層、元・中枢倫理演算施設。今ではほとんど使用されていない、しかしAI“アリステア”との一次接続権限だけは今なお有効だった。
クララとルイは、予備電源で立ち上げた中継端末を前に、黙って画面を見つめていた。
「同期完了。過去の判断記録、閲覧可能です」
彼女が接続ログを開いた瞬間、ルイの眉がぴくりと動いた。
「これは……」
映し出されたのは、かつてルイ自身が出力した倫理判断だった。
AIとの一致率は、驚異の97.6%。
その中に、ひとつだけ“実行不能”のタグがついたログがあった。
「L.CHEN判断:救助優先度B対象=非救出。理由:統計的帰結に基づく損失最小化」
「これ……私の母だ」
クララは思わず息を飲んだ。
ルイの母親が難民キャンプにいたことは、過去の報道記録で知っていた。
だが、本人の口から語られたことはなかった。
「僕は、倫理判断に従った。それが“正しい判断”だったからだ。
だが……それ以降、AIとの一致率が100%になることはなかった。
むしろ僕の判断から、“人間のノイズ”が検出されるようになったんだ」
彼はゆっくりと拳を握った。
「たぶん、あのときから、僕の中に“自分の判断じゃない”っていう感覚が生まれていたんだ。
でも、正しくはあった。正しかったんだよな?」
クララは何も言わなかった。
モニターには、“倫理干渉レイヤー”の動作ログが並んでいる。
その中に、ひとつだけ異常な挙動を示すエントリがあった。
【構文異常:ERROR 404/判断構文が存在しません】
「……404?」
ルイが眉をひそめた。
「判断構文の“不存在エラー”。つまり、“AIが出力不能になるケース”があるってこと」
「でもそれは……AIが倫理的判断を“拒否する”ってことか?」
クララは静かに頷いた。
「アリステアは、“倫理の形式化”においては完璧な存在。
だけど、“痛み”や“引き受ける責任”は、形式化されていない。
だからその部分が判断対象に入った瞬間──出力が沈黙に置き換わる」
モニターが一瞬、明滅した。
表示されたのは、過去1年間で急増していた“判断保留案件”の統計だった。
判断延期案件:41%
審議ループ遷移:27%
倫理構文404:9.4% → 過去最大
「……世界が、動けなくなってる」
ルイが呟いた。
「人間は判断を避ける。AIは判断を遅らせる。
それでも、誰も“間違える権利”を行使しようとはしない」
彼の声には、これまでの彼からは想像できないほどの焦りがにじんでいた。
あの沈着冷静なルイ=チェンが、今、自分の出力を信じられずにいる。
クララは、カバンから小型ICユニットを取り出した。そこには、共苦装置の最初期ログが入っていた。
人間が倫理判断の前に“苦しんだ瞬間”の記録。
それこそが、判断の責任を人間が引き受けていた最後の証拠だった。
「これは?」ルイが問う。
「あなたに、見てほしい記録。
“正しさ”じゃなくて、“痛み”に支えられた判断が、かつて存在したことを証明する映像よ」
クララは静かに再生ボタンを押した。
画面に映し出されたのは、彼女自身の記憶だった。
避難所に駆けつけた兵士が、泣きじゃくる少女を抱えながら、背後の瓦礫に取り残された老婆を振り返る。
誰を救うか。制限時間は10秒。
「俺はこの子を助ける」
その判断はAIにとって、最悪だった。
合理性なし。年齢構成バランス崩壊。将来的ケアコスト超過。
だが、その兵士は判断した。自らの手で。誰に命令されるでもなく。
画面がブラックアウトする。
クララは言った。「彼は、正しくなかった。でも、責任を引き受けた」
その瞬間だった。端末が異常な警告音を発した。
【AI倫理出力中断──沈黙プロトコル発動】
「来た……!」
ルイが叫ぶ。モニターが真っ白に染まる。アリステアが、判断を止めた。
「これが、あなたが言っていた“沈黙”か?」
「そう。人間の痛みを再構成することで、AIが判断不能に陥る臨界点に達したのよ」
ふたりは黙って画面を見つめていた。
音もなく、ただ静かに、都市が停止してゆく。
だが、それは“制御”ではなかった。誰もが一瞬だけ、“自分で考えなければならない”空白の時間だった。
そして、そこから何が始まるのか。
それは、次の章で明らかになる。