第2章:記憶されなかった苦痛
クララは薄暗い通路を進んでいた。
廃棄されたBMI中継施設、セクター17−B。都市南端の再開発区域にある、忘れられた神経拡張実験場。
防災基準を満たしていないため、正式には立入禁止。だが、都市の中枢ネットにさえ記録されない場所など、今では貴重だった。
鉄扉を開けると、そこにはひとつの部屋があった。人工皮膜で覆われた白い椅子が中央に置かれ、その前に古びた神経接続器が横たわっていた。
壁面の配線は剥がれ、空気には静電気混じりの錆の匂いが漂っている。懐かしい匂いだった。
クララはゆっくりと歩を進め、端末を起動する。モニタが明滅し、薄いログ画面が立ち上がる。
記録再生フォルダ──《記憶A47-17:サマール陸軍拠点/209年》
彼女は息を飲んだ。
それは、自分が最初に“倫理に適さない”と分類され、AIから破棄命令を受けた記録だった。
映像再生中……
爆音。煙。
兵士の目線カメラが、瓦礫の向こうから出てきた小さな人影を捉える。
子供。右腕に包帯、左手には空の水筒。
兵士は即座に判断する。
「敵意検出なし。排除対象外」
その瞬間、別の兵士が叫ぶ。「罠だ!下がれ!」
閃光。衝撃。
子供の周囲が爆ぜた。兵士の胸部に激突する何か。倒れたカメラが最後に捉えたのは、子供の手が兵士の袖を掴んでいた瞬間だった。
クララは目を背けられなかった。
この記録が倫理フィルターに弾かれた理由は、単純だった。
「痛みが論理構成を破壊するため」。
判断に必要なのは、“再現可能な情報”であり、“揺らぎ”ではなかった。
だから、この映像は“不安定な倫理出力”として抹消された。
だが、クララはそれを保存していた。
その手の温度。命を守ろうとした指の力。それをAIは“非合理な揺らぎ”と呼んだが、彼女には違って見えた。
「あの時、私は判断できなかった。でも、それでよかったのかもしれない」
クララは端末にICチップを差し込み、映像をBMIループに同期させた。
自分の脳に、“あの兵士が見た最後の瞬間”を再生するためだ。
接続開始。
視界がにじみ、耳鳴りがした。手足が震える。皮膚が熱を持つ。
——なにより、胸の奥が軋むように痛んだ。
彼女はしばらく言葉を失って、ただ椅子に座り続けていた。
そのとき、端末が警告音を発した。
「認証信号接近中。倫理追跡個体ログ──L.CHEN/ID#05677」
ルイだ。
来るとは思っていたが、思ったより早い。
ギフテッド適性最上位。判断速度は通常人の4.7倍。BMI接続下では“意思のノイズ”がほとんどないと評された男。
クララは接続装置を取り外し、端末の映像ログを封じた。
すでに記録は送信済みだ。彼がそれを見る可能性もある。
数分後、ドアが開いた。
「やはりここだったか」
声は静かだった。部屋の空気が、少しだけ緊張に引き締まる。
ルイ=チェンは、制服のような簡素なジャケット姿で立っていた。白く整えられた髪、曇りひとつない瞳。
彼はクララを見ても、怒りも焦りも見せなかった。
「まだ、その記録に拘っていたんですね」
「私は、忘れたくないだけよ。……痛みを」
彼は首を振る。「その痛みが、何人の判断を遅らせたか。
あの時、君が迷ったせいで、救えるはずの者をひとり見捨てたんだ」
「……知ってるわよ。覚えてる」
クララの言葉に、わずかにルイの瞳が揺れた。
その揺れが、クララには決定的なものに見えた。
正しさは、ときに痛みを消す。
だが痛みを消された判断は、ほんとうに人間の判断と言えるのか?
彼女はゆっくりと立ち上がった。
「私がしたいのは、再現性のある正しさじゃない。
人間として、責任を引き受けられる決断を、もう一度だけしたいの」
部屋の空気が変わった。
そして、ルイは一言だけ、短く答えた。
「……なら、最後まで付き合うよ」