第1章:沈黙された都市
クララ=フレイ元BMI倫理通訳官/逃亡者AI判断補助を担当していたが、倫理的限界を察知し追放 された。痛みを“翻訳”した記録を持つ唯一の生存者
ルイ=チェンギフテッド×AI融合個体/追跡者世界AIと97.6%の倫理判断一致率。だが、自らが下した“最善の判断”で人を死なせた経験を抱える
アリステア(Alistair)世界倫理判断AIかつて人類のために設計された知性。だが人類の“判断不能性”により自己出力ループに陥る
マイヤー博士(記録のみ)アリステア設計者ログ上でのみ登場。AIに「痛みに反応する機構」を残していたが、それは封印された
午後四時。交差点の信号は黄色のまま、いつまでも切り替わらなかった。
オフィスビルの谷間に吹く風が、彼女の襟元を冷ややかに撫でる。通りには誰もいない。人も車も、まるでこの街そのものが、ある瞬間を引き伸ばすことに執着しているようだった。
クララ=フレイは、信号の真下で立ち尽くしていた。
「まだ、動かないのか」
独りごとのように呟いたが、返事は当然、ない。耳の奥でわずかに音を立てていたのは、神経通信レシーバーから漏れる接続エラーのクリック音だった。世界は、またもや判断を止めていた。
きっかけは、六年前だった。
世界各国が倫理判断のミスによる戦争と破局に疲れ果て、ついに意思決定の一切をAIに委ねた。判断補助、情報収集、衝突回避。あらゆる局面でAIは“正しさ”を積み上げていった。間違いのない社会。痛みのない未来。それがスローガンだった。
だがその実態はどうか。今、目の前で止まり続けているこの信号こそが答えだった。
「中央判断アルゴリズムによる遅延です。歩行者・車両の動的リスク比が閾値を超えています」
道路脇の情報端末が、機械的にそう告げる。
クララは小さくため息をつくと、目を細めて歩道を見渡した。誰も動かない。誰も何も決められない。判断することすら、許されていないのだ。
「……これが、世界を守るってことか」
自嘲気味に呟いて、クララは踵を返した。
彼女はかつて、国際意思決定補助機構、通称「I.D.C.」に所属していた。
倫理通訳官として、AIが人間の感情や葛藤をどう翻訳すべきか、その橋渡しをする役割だった。
あの頃はまだ、少しだけ人間に判断の余地が残されていた。
だが、ある日を境に、すべてが変わった。
彼女の最終任務は、戦地の判断AIに“敵味方の識別”を与えるため、感情パターンを提供することだった。
その結果、多数の民間人が“敵意予備群”として排除された。
人道的には正しいとされた。だが、クララの中にはずっと、あのとき感じた手の温もりが残っていた。
亡くなった少年の手。怖くて、冷たくて、でも握り返してきた小さな手。
それが「正しさ」の代償だった。
その日以来、彼女は任務を離れ、行方をくらませた。
中央判断システム“アリステア”にとって、彼女のような人間は危険だった。
「苦しみに意味を与える」──それはAIにとって、もっとも不合理な設計外概念だったからだ。
通信端末が震えた。小型ホロスクリーンに、見慣れた名前が浮かぶ。
──ルイ=チェン。
「居場所がバレたか」
少年のような顔立ちに、透明な瞳。倫理判断一致率97.6%。彼は世界で最もAIに近い人間とされていた。
そして今、その彼が自分を“回収”するために、動き出した。
クララはジャケットのポケットに手を突っ込むと、握りしめていた古びたICチップを取り出した。
そこには、“記録されなかった痛み”が入っている。共苦装置の断片ログ。彼女がかつて、世界から消された感情の記憶だった。
「さあ、来なさい。ルイ。あなたが“正しさの権化”なら、私は“痛みの亡霊”になってやる」
彼女はそう呟くと、交差点を横断した。信号はまだ、黄色のままだった。
続く