予期せぬ訪問者
「……それで、これが契約書だと?」
しんとした部屋に、カインの怪訝な声が響く。
手元にはデュカとの契約書があり、その内容を確認するためにと、留め紐がしゅるりと解かれた所だった。
「はい。……私にはいいお話にしか思えなかったので、つい契約してしまいました」
そう答えた私の声には、緊張が滲んでいた。
契約書に目を通すカインの視線や手元が動くのを、どぎまぎと見つめる。
ここはカインの執務室だった。
綿天鵞絨が張られたソファに向かい合って座り、互いの間にあるローテーブルには、ほのかに湯気を立てるティーカップが置いてあった。
白を基調としたシンプルな部屋に、クラシックなエバーグリーンの絨毯がよく合っている。
「………………妖異との契約にしては、破格だな」
巻物に書かれた条件に目を通した後、カインがぽつりと呟く。
だが、言葉とは裏腹に、その表情は硬い。
何かを探るかのように、あちこちに手をかざし始めたので、固唾を飲んでその様子を見守った。
「……………改ざんや瞞着、詐称……お前を陥れるような意図は、まったく見当たらないな」
どうやら、何かの魔術で調べてくれたようだ。
一通り調べ終わったのか、彼は契約書を私に戻し、はあと大きなため息をついた。
ひとまず問題はなさそうだと、ほっとして肩の力が抜ける。
そんな私を、まだまだ気を抜くなとばかりに、カインが鋭い眼差しを向けた。
「一体何があった?どうしてこんな事になっている」
「ええと………それがですね……」
私には、人外者を呼び落とすような魔術は扱えない。
偶然出会したとしても、何かしらの対価で犠牲を払う可能性が高かった事は周知の事実だ。
そんな状況の中、デュカが何故こんな条件で私の元に来てくれたのかは、私にも分からない。
それも踏まえて、彼から聞いた話も全て話すと、カインはただ黙って頷く。
時折首を悩まし気に捻るのは、デュカの思惑をはかりかねてのことだろう。
「夢を繋いだか……。なるほど、あの時の侵食はあいつの……」
話を終えると、カインは頭を抱えて大きなため息をついた。
ちなみに、デュカには席を外してもらっている。
契約の対価とも言える、“私のそばにいる”という条件を叶える為、部屋を誂えているのだ。
誂えるといっても、私の部屋の隣が空室だったので、そちらに居住の準備として家具や生活用品を置くだけにはなる。
内装に関しては魔術で自分で整えるというので、それではご自由にどうぞと送り出したのだ。
「……キイロ、いいか?俺はあの男を知っている」
カインが悩まし気に口を開く。
初見であの反応だったのはそういうことかと、合点がいく。
「あいつはな、王だ。妖異の王」
「……おう?……王……」
カインがげっそりとして、そう言い切った。
だが、その言い分にはどこか納得出来るものがある。
とにかく、桁違いの美しさなのだ。
もはや存在そのものが艶やかで、ひときわ輝いている。
あれが王だというならば、確かにそうだろうと誰しもが思うに違いない。
「何の気まぐれか、それとも目的あっての企みかは知らん。……だが、あの王との契約は正解だろうな。お前を守る力は有り余って十分だ」
カインがローテーブルの珈琲に手を伸ばした。
こくんと一口飲み込むと、再びため息をつく。
「妖異の王の契約者か…………。俺はとんでもないやつの上司になってしまった………」
あまりにも遠い目をして呟くものだから、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。
契約破棄はいつでも出来るらしいからと伝えると、それは絶対にやめておけとぴしゃりと断言される。
「何か実害があるならともかく、今は恩恵しかないだろう」
「ですが、そもそもの話、私には実害が出ているかどうかも判断できない可能性があります………。カインさんの方で何か思うことがある時は、是非に教えて下さい」
「お前な………………」
呆れ顔を向けられつつ、とはいえ魔術の動きとやらが見えないのだから仕方ないと開き直る。
「そういえば、無垢だとも守護者だとも、私は何も明かしていないんです。………話した方がいいでしょうか?」
「……と言う事は、惑い子という要素に、あいつの求めた何かがあるのか。お前は無垢すぎて、カトルニオが一葉の秋の魔術を使っても、探知に時間がかかったと聞く。あの一帯は境界魔術で括られていたから、無垢だとか守護者の要素は知られていない筈だからな………」
ブツブツとカインが思考の渦に入っていくのを眺めながら、私もぼんやりと理由を考える。
デュカは、この屋敷の戸が開いた時から私を見ていたという発言を残している。
その当時、私は王宮で手厚く分厚い魔術陣の中にいて、誰からも認識されない状態だったのだ。
魔力の形だけ見えていたのか、それとも私の姿が見えていたのかは、全く分からない。
ダーダンの手によってこちらの屋敷に連れて来られた時も、特殊な魔術によって繋いだ道を通ったと聞く。
つまり、私はこちらの世界に来てからずっとどこかに閉じ込もっていたことになる。
私という個体を認識するのは難しい筈だ。
(……でもやはり、総じて良い契約だったというのが今の評価だわ)
対価の犠牲がほとんど必要ないというのだ。
惑い子の要素を寄せ餌にするだとか、そこまで考えていたほどの守護契約を、このような形で結べたのは僥倖としか言いようがない。
「少なくとも、無垢者というのは伝えたほうがいいだろうな」
思考が一巡して落ち着いたのか、静かな声でカインがつぶやいた。
「守護者のことも……契約したのなら話すべきだ。お前が契約者を得たと報告をあげれば、近いうちに何かの役目が回ることもあるだろう」
「分かりました。……では、デュカさんのお部屋のしつらえが終わったら話してみます」
「ああ。シェラとシルヴァが付いているから、あちらは終わり次第こちらに合流するだろうよ」
カインの執務室は、その業務の秘匿性を鑑みて、非常に手厚く隔離の魔術が敷かれているらしい。
今回はかなり込み入った話をするということもあり、より安全で盗聴盗難の恐れのない、この部屋が話し合いの場所として選ばれたのだ。
「お前はもしかすると、とんでもない奴なのかもしれんな……」
そんなぼやきは聞かなかった事にして、手元の珈琲を口に運ぶ。
じわりと苦みが口に広がって、甘いものが欲しくなる。
小さなチョコレートが付いていたので、そちらをぽいっと口に入れる。
甘すぎず上品な口あたりで、うっとりとしてしまいそうだ。
「でも、妖異の王様ならわざわざ話すまでもなく、感じ取ってバレていたりしそうです」
「……どうだろうな。想像を超える力は有しているだろうが………お前には目隠しの術式を幾重にも重ねてあるから、その本質を見抜くのは相当苦労するはずだ」
「目隠しの術式……」
カインがやり手の魔術師だとは勿論知った上だが、変態的な手の込みように少しヒイてしまう。
いつの間にそんなものを仕込まれたのかと慄けば、カインは気付いていなかったのか、と呟く。
「ああ、そうか。お前には見えないんだったな」
非常に馬鹿にされたような感じがしたので、チョコレートをもう一つ口に運ぶ。
ごくごくと温かい珈琲を飲んで心を落ち着かせれば、カインはすまなかったなと苦笑いした。
「人間にかけた魔術陣は………そうだな、衣服の様なものだ。人によっては顔からベールがかかっている様に見えて、顔すら認識出来ないという事もあるぞ」
なお、そんなベールのような魔法陣がこれでもかと仕込んであるのは、私がやすやすと妖異の午餐会に突入してしまったことがきっかけらしい。
昨日のことなのに仕事が早すぎるのではないかと、上司の勤務状況が気になったが、深々と頭を下げて感謝を示しておく。
「さて、戻ってきたな」
コンコンとノック音が聞こえて、デュカ達が入ってくる。
シェラとシルヴァは無表情だったが、些か疲労が見えるような気もする。
何があったらしいことは窺えたが、デュカは涼しい顔をしている。
「デュカさん。お部屋は整いましたか?」
「うん。そこそこ満足したよ」
「では、少しお話したいのですが、お時間頂けますか?」
「勿論」
デュカは私の隣に腰掛けた。
男性が隣に座るのは慣れなくて身構えたが、これからそばで守ってくれる人外者にドキドキしてどうするのだと、自らを戒める。
「既にご存知あれば申し訳無いのですが、念の為の情報共有として事実をお伝えしますね?」
「うん。何だろう」
「まず、私は魔力が一しかない無垢者なのです」
「………………イチ?」
おずおずと申し上げた事実にどんな反応をされるかと顔を凝視したが、デュカは少し戸惑ったように眉を寄せた。
「それから、秋の国の守護者として指名されています。今後、何かしらの国務を請け負う可能性が高いです」
「…………………うん?」
反応を見るに、彼はやはり私の全てを認識していた訳ではないようだ。
とんでもないはずれくじを引いたかのようなリアクションだが、もう既に契約済みなのであとの祭りである。
「デュカさんには多大なるご迷惑をお掛けしますが、こちらに関してもお力を貸して頂きたいです。よろしくお願いします」
「まずは名の守護をかけてやってくれ。いつまで経ってもキイロ呼びじゃなあ」
カインの言葉に、デュカは成る程と呟いてからたっぷりと黙り込んだ。
長命種の妖異らしく、基本的にはしっとり澄ました顔をして話を聞いていたデュカだったが、こんな風に思い悩んだりと、人間らしい反応をする事もあるらしい。
しばし考え込む無言の時間には緊張感が満ち満ちており、契約破棄と言われたらどうしようなどと、縁起の悪い思考が頭を過ぎる。
「……………そう。無垢者で守護者とは、とても生きづらいだろうね」
しかし、考え込んだ後の言葉はすっかり冷静で、彼は腑に落ちたように頷いた。
「名の守護と共に、私の力を分かち合おう」
彼は私の方をみて、穏やかに微笑んだ。
あまりにも優雅で見惚れてしまいそうになってから、安堵に息をつく。
こんなに美しくて強そうな彼が、やはりどうしてこんなにも献身的に尽くしてくれるのか、不思議でならない。
(………この謎解きは、やめておこう)
デュカが私の髪をひと筋掬い取って、とろけるような口付けを落とす。
ふわりと胸に駆け抜ける薫風があって、何かが宿った感覚に目を見開いた。
「さあ。君の名前は?」
「………私は………私は、ラナです」
「ラナ。私の契約者の名を、私が守ろう」
この日、私はラナとして生まれ変わった。
春の日和の、静かな朝のことだった。