給仕係兼護衛
その日、私は表情の固いカインと共に、玄関ホールの真ん中に立っていた。
「……いいか。お前は俺以外の誰にも、肩書きを話すなよ。それを察することの出来る匂わせも一切認めない。……勿論、名前も同じ扱いだ」
「はい。………分かりました」
ごくり、と唾を飲む。
妙な緊張感に包まれた玄関ホールは、しんと静まり返っている。
こくこくと頷く私を見て、カインは教師然として大きく頷いた。
(き、緊張してきたわ………)
何を隠そう、今日はこちらの世界に来て初めての、市街地散策に行く日なのである。
異世界生活も今日で四日が経ち、さすがに本の知識だけでは分からぬことも多いだろうと、カインが街を見る機会を設けてくれたのである。
(この数日間は、起きている時間の殆どを、読書に費やしていたし………)
カインから借りた本は、今朝までに六冊を読み終えることが出来た。
とはいえ、その全てを記憶出来たわけではない。
知識は確実に増えてはいるが、穴も多ければ知らないことの方が多いので、冊数はもはや目安である。
(今後も知識取得の手間は惜しまないつもりだけど、流石にここ数日の読書尽くしには疲れたわ………)
丁度そう思っていた昨日、そろそろ本にも飽きただろうと提案されたのがこの散策だったので、私は今日という日をとても楽しみにしていたのだ。
「それから、見知らぬ奴に話しかけられても、決して返事はするなよ」
だが、提案した張本人の筈のカインは、何故か朝からずっとこの調子なのである。
カトルニオから貰った一覧表にも似た、託児の気配を感じるのはきっと気のせいではないだろう。
「はい。……魔術が結ばれて、呪いや思考誘導などの侵食を受けることがあるのですよね?」
そんなカインには、こちらも十分に心得ていますよとばかりに丁寧な返答を心掛けている。
だが、それでも尚似たような注意喚起を繰り返すのだから、彼は重度の心配症なのかもしれない。
「ああ。魔力がもっとあれば、展開されている魔術陣が視覚や嗅覚から感じることが出来るんだがな………」
「……視覚や嗅覚というのは初めて知りました。色んな方法で、魔術を感知することが出来るんですね………」
「ああ。魔術は大抵、五感のいずれかで察知できると言われている。勿論、それが不得手な人間も少なくはないが、ある程度の魔力量を持っていれば息をするように分かる」
そう解説しながらも、カインは私の容姿にアレコレと擬態の魔術をかけてくれていた。
それは、惑い子や無垢者の要素を隠すようなものらしく、それを纏えば、私は平々凡々な人間になりすます事が出来るのだと言う。
「………これだとまだ足りないか………。くそ………。魔力が少なすぎて、そもそも捉えることすら難しいな………」
「朝から虐められています………」
不機嫌そうに顔を顰めたカインは、今日は薄い空色の瞳をしている。
なんとこの世界では、髪や瞳の色は他人に明かしてはならないと言う仕来りがあるのだ。
というのも、個人の特定に繋がる名前や色彩などが、魔術を繋ぐ要素になるからだとか。
(例えば、呼び出しの魔術で瞳の色と名前を使われると、妙なところに飛ばされたりだとか………)
カインのこの空色の瞳がお出かけ専用の色彩なのだと聞いたのは、つい先ほどのことだった。
贄だとか素材だとか、何だか浮世離れしたような言葉をよく耳にしてはいたが、そんな事情を聞けば仕方ないなと思えてくる。
(………何でもかんでも魔術でぽんと叶えてくれているように見えるけど、実は違うのよね)
魔術とは、決して便利なだけのものではなく、その行使には必ず代償が必要となるという。
例えば日常で私が使うような魔術ならば、魔力という代償を渡している。
そんな風に何かを犠牲にすることで、恩恵に肖るというのが魔術なのである。
そして、魔術の代償として一番多く使われているのが魔力だ。
だが時に、代償を必要としない魔術が存在する。
その魔術を作り上げる時に、先払いで何かしらの贄や素材を捧げる事によって成された魔術である。
(私は、その素材になり得る要素が多いのよね………)
希少さとは、高い原動力になるそうだ。
そんな要素を兼ね揃えすぎた私は、その特異的な資質から、非常に危険な魔術を生み出しかねないと、カインを随分と悩ませていた。
(………目が黒いのも、特異だと言っていたけど)
黒とは、魔術で織りなすことの出来ない色彩なのだとカインは語っていた。
だからこそ、黒を身に持つものは非常に珍しく、決して誰にも明かさないように言われている。
そうなってくると、私は秘密の塊のような人間なのだが、これもまた惑い子の特性であるので仕方ないとカインは言う。
(別世界から渡って来たんだから、それもそうかとは思うけど………。でもまさか、皆の色が魔術で作り上げたものだとは思わなかった………)
カインが持つ青藍色の流れるような艶髪と、花田色の柔らかな瞳の色彩も、どんな色にも調整出来てしまうのだというから、それを聞いた時は驚きで声が裏返ってしまった。
てっきり生まれ持った色だと思っていたし、なんて優美なのだと心を震わせていたくらいだったのだ。
(………ミルクティー色の髪。瞳はカナリアイエローだけど、随分煌びやかになってしまったわ………)
ふと、視界に入る自分の髪を見て、考える。
カインに負けず劣らずの、艶のある色彩だ。
鏡を見るたびに映る別人のような自分にも、この数日でようやく慣れてきたところである。
鮮やかでいてしっとりと落ち着いたイエローの瞳を鏡越しに覗き込んだその日は、私は胸が弾んだ。
それまでは、真っ黒の髪と瞳だったのだ。
(………カインさんにも髪色までは見せなかったけど、瞳は見えていたしな)
幸いと言うべきか、こちらの世界に来た時、私はウィンプルを被っていた。
瞳の色は隠しようも無かったが、髪の色は将来の伴侶にしか見せないくらいの気概でいろと言われたので、この世界で私の髪色を知るものは、誰一人としていない。
「……うーん………こんなもんか?………悪くはないか」
「……私にはさっぱり分からないのですが、これで惑い子だとか無垢者だとかの要素は、隠れているのですか?」
「魔術陣を解析されなければ、ひとまずは誰にも分からないだろうな。……とはいえ、そう簡単に解析される様な物を敷いてはいないさ」
私の色彩は、どこにでも馴染む色を選んでもらった。
要は薄茶色の髪色なのだが、これは春の大地の色でもあり、夏の濡れた砂浜、秋の豊穣の小麦、そして冬に飲む温かなミルクティーの色でもあると、カインは言った。
そんな説明を受ければ、この髪色は一層お気に入りとなった。
同様に瞳の色にも意味があって、春のカナリア、夏の太陽、秋の銀杏、冬の柚子を想起させるような色なのだという。
「……魔術陣は、お風呂に入ったら水に流れていったりしませんか?」
「ははは。物理的に剥がせるものではないさ。……そうだな、影の様なものだと認識していてくれ」
「……影?」
「ああ。身に施した魔術は、影のように添うんだ。いつでもどこでも、何をしていても揺らぐ事はない。……魔術を無効化するような特殊な場所にでも行かない限りは、解除することも出来ない」
ちなみにこの擬態の魔術陣も、魔力の上限ギリギリのところで維持できるようにしてもらっている。
私が無垢者だと判明した出会いの初日で、カインは屋敷の防衛魔術の一切を、徹夜で書き換えて強化修正したのだという。
その後も何度も調整を重ね、ようやく昨夜に形になったらしく、カインは喜びに震えながら夕食を摂っていた。
そんな彼のおかげで、私は暮らしに不自由することは無かった。
そしてこの擬態魔術もまた、防衛のひとつなのだと説明する瞳には、確かにくっきりと濃い隈が出来上がっていた。
「……もし、この腕輪を奪われたりしたら、この擬態も剥がれてしまいますか?」
「剥がれるだろうな。魔力供給を失えば、その効果も消え失せる。………その腕輪は、あくまで応急処置のようなものだ。頼むから何か捕まえて来てくれ……」
げっそりとした表情で私を見ているカインだが、人外者の扱いはそう簡単ではないという事は、やはり彼の方がよく理解しているようだった。
頼むから早くと急かす事は言う割に、召喚についての諸々は、慎重に進めて行きたいという姿勢なのだ。
「私は普通の人間の方とも関わりが持てないのに、それは横暴ではないでしょうか……」
「俺も矛盾している事は理解しているんだ………睡眠時間が惜しい気持ちでつい、な………」
冒頭での注意喚起にもあったように、私は魔術的な応酬には疎い為、普通の人間との会話ですら危ぶまれている。
それは外出時に止まらず、この屋敷の使用人も同じ扱いであったし、私への接触が許されたのは、カインを除いてたったの二名だけであった。
食事の給仕を行う者として紹介された二名だったが、いかにも屈強な騎士という見た目で、カインからは魔術師でもあるのだと説明を受けた。
本職が騎士で魔術師であるならば、食事の給仕をさせるのはどうかと思ったが、惑い子の世話をできるなら本望だと、彼らは口を揃えて言っていた。
ただし、無垢者であると追加で知った時には、顔を真っ青にして慄いていたので、やはり私は危うい存在なのだろう。
(それでも、惑い子は吉兆なのだとか。その上守護者だから、私は人間にとってはとても望ましい存在らしい……)
この給仕係の二人は護衛も兼ねており、この屋敷に入る前は王宮で近衛騎士をしていたのだという。
そう聞かされた時には、とんでもない人を給仕係に指名したものだとこちらが顔面蒼白となったが、存外彼らは楽しんでいるようにも見えた。
そんな護衛兼給仕係の二人もまた、玄関ホールの隅にピシリと背筋を伸ばして佇んでいる。
「シルヴァ、シェラ。この姿をよく覚えておけよ」
「はい」
「勿論でございます」
今日は初めての外出ということもあり、護衛の二人も伴って出発することとなる。
そのような経験が無かった私は、護衛という存在にただ慄くばかりだったが、それほど狙われやすい身の上である事も確かなのだ。
「さて、お前も仮の名をどうするかな。……とは言え、妙な名前をつけて厄介な縁を持つのは避けたいからな」
「私としてはこだわりも特に無いので、食べ物の名前であっても気にしないのですが……」
「やめろ。自分を餌として差し出しているようなものだ。食物と同じ名を持てば、たとえ仮であっても、似たような運命を結びかねないぞ」
カインからは出会った初日に仮の名前をと話を貰っていたが、不浄場の事件や防衛魔術の組み直しと慌ただしく過ごしているうちに、すっかり今日まで持ち越してしまったのだ。
(正確には昨晩だけれど……)
晩餐の席で、今日の外出に備えて偽名をと話が出た際に、たまたま飲んでいたポタージュがあまりにも美味しかったので、それではポタージュではどうかと提案したのだ。
まるで汚物でも見るかのような不穏な顔で却下を言い渡され、昨夜は私のセンスの無さについて批評する段階で終わってしまっていたのだ。
「………では、キイロはどうでしょう?瞳も黄色ですし」
「………お前なあ。仮にも名前だぞ。もう少しこだわりを持て」
「でも、私に契約してくれる方が現れたら、本名で過ごすのですよね?これくらいの愛着の方がいいかと思うのです」
「……はあ。確かにハンバーグやらステーキよりは随分マシか……」
かくして私はキイロと名乗ることになり、ようやく外出準備を終えた。
玄関扉を開けると、ふわりと春風が薫る。
屋敷を出てふと振り返ってみると、そこには貴族の住まうような大きな建物があった。
(………三階建の………随分窓が多いわ。二、四、六………二十列もある……。貴族の家だわ………)
なんとなく察してはいたが、このヴィルセはやはり、学舎と言われても納得するほどの、大きなお屋敷だった。
茶褐色の煉瓦造りの古びた雰囲気で、門前から全体像を見ると、長方形のシンプルな構造であるようだ。
まさかここまで立派な家に住まうことになろうとは、どこで想像できただろうか。
「馬車に乗るぞ………おい。何をしている?」
「………………このお屋敷は、こんなに大きいのですね」
「……そういえば、屋敷の中も満足に案内していなかったな」
街中の散策よりもそちらが先では、と思わずにはいられなかったが、屋敷内の散策はいつでも出来そうなので、言葉に出す事はぐっと堪えた。
馬車が目の前で待機していて、シェラは先に乗り込んでいた。
彼はどうやら中を確認しているらしい。
「………馬車」
「なんだ。問題あるのか?」
「いえ、………このような素敵なものに乗るのが初めてで、驚いていただけです」
「こちらでは移動は移りの魔術を使うか、馬車に乗るのが一般的だ。竜や動物と主従関係にあれば、それらに乗る事もできるだろうが、………お前には魔力的に荷が重いだろうな」
移動手段については本で学んで承知していたので、厳密に驚いていたのは馬の形状についてだった。
ごく馴染みのある茶色の種族で、その形状としては馬の要素は大きく逸脱していない。
ただ、ひとつ大きな違いとして、その背中には折りたたんだ翼があった。
その上、私が知っている馬の、二倍くらいの大きさはあるように思う。
用意されていたのは四人乗りの箱馬車だったが、それを率いるには役不足なのではないかと思うほどの大きさだった。
「……この馬さんは……一般的な大きさなのですか?」
「ん?ああ。そうだな」
「………この世界の動物図鑑を読んでみたいです」
「それなら、帰って来てから貸してやる。さあ、早く乗れ」
馬を見上げつつもタラップに足を掛けようと踏み出すと、中からシェラが手を差し伸べてくれた。
躊躇しつつも、おずおずと手を重ねる。
くいっと引っ張ってくれて、体がふわりと軽く浮くような感覚で引き寄せられる。
シルヴァはタラップの横で私の腰に手を添えてくれていて、随分と過保護に扱われているぞと、居た堪れない気持ちにもなった。
(初めて乗ると言ったから、転げ落ちないようにしてくれたのだろうか……さすがにこれくらいは、一人でも乗れそうだけど……)
馬車に乗り込むと、思ったよりも中が広いことに驚いた。
四人でぎゅうぎゅう詰めになるかと思っていたが、六人くらいなら、余裕を持って座れそうな座面だ。
「こちらへ」
「はい。ありがとうございます。………見た目より、とっても広いのですね」
「ええ。空間を魔術で拡張してありますから、外観で見るよりは広々としておりますよ」
魔術というものは、本当に便利である。
示された位置に腰をかけると、シェラは私の目の前に座った。
間も無くカインとシルヴァが乗り込んできて、扉がパタンと閉められる。
ガラガラと車輪が回る音がして、窓の外の景色が動き出す。
「………カインさん……。あの生き物は一体……」
「ん?……ああ、猫だな。……お前は猫も知らないのか……」
「私の知る猫とは様子が随分違うので……。あの木陰に座っている方は、なぜ光っているんですか……?」
「あれは銀杏の妖精だな」
動き出した馬車は、想像よりも揺れなかった。
微かな揺れは感じるものの、お尻を打ちつけるような動きや弾みは、全くと言っていいほど感じない。
(………確か、これは本で読んだわ。轍の魔術のお陰だったはず。………こんなに快適なのね)
道には轍の魔術というもの敷いてあり、安全かつ快適に移動できるようにと工夫されているのが一般的だ。
ガタガタと揺れないので車酔いすることもないし、車内は思っていたより静かだ。
街の喧騒の方が大きいくらいなので、馬車移動は今後も苦にならないだろう。
(……また猫がいるわ。………やはりこちらの世界の動物は、皆大きいのかしら……)
三毛猫のようだが、毛色も青緑に白と茶という不思議な容姿である。
中型犬くらいの大きさで、ふわわと呑気に欠伸をしながら、道端にごろんと寝転んでいた。
そんな猫の近くには一際大きな街路樹があって、その木陰に一人の少女が編み物をしていた。
ぺかりと眩しいほどの光を放つ少女は、もはや銀杏の妖精と呼ばれてもピンとこないくらいには眩しい。
(………なぜ光っているのだろう。すごく綺麗な人だけれど、眠る時に眩しくないのかしら………)
儚げに手元に視線を落とす少女は、人とは明らかに異なる美しさが漂っていた。
ごくりと唾を飲むほど、緊張感のある美しさである。
「カインさん……あそこに立っている方も妖精さんですか……?」
「……ああ。あれは小麦の妖精だな。パン屋にはよく居る」
「パン屋……。色んな形の妖精さんがいらっしゃるのですね」
感心しながら、窓の外を眺める。
私のお部屋の窓は、屋敷の裏側にあたる部分に位置している。
そのため、一面に草原しか見えなかったのだが、こちら側は中々に市街地が近いらしい。
馬車が走り出すと、すぐに賑やかな人並みが見え、商店や住宅などが所狭しと並んでいた。
その街並みは、見たことのない不思議な光景のはずなのに、どこか親近感を感じるものだった。
建物は洋風だし、歩く人々は十八世紀の西洋を思わる服装だ。
そして屋台風のお店が多く密集していて、異世界だと言わざるを得ない、独特な人や動物がちらほらと見受けられる。
(……不思議な……商店街だわ……)
まさに商店街という表現が、ぴたりと当てはまるように思う。
きちんと整備された歩道にはみ出さないよう、各店舗が自身の商品を整然と並べていて、それなのにどこか雑然とした賑やかさがあって。
暮らすのが、人間だけではないからだろうか。
とってもデコボコしているのに、定規で鳴らしたように平坦で不思議な街並みなのだ。
歩道には絶え間なく植え込みがあり、花や樹木が植っているばかりか、大きな鉱石のようなものがどんと置かれていたりと、自然も豊かだ。
(綺麗な街……若者が多くて活気があるし、とても栄えているように見える)
自然物の近くには、妖精がその隣に居たりすることが多いようだ。
大人の人間のような者もあれば、少年少女の姿であったり、綿毛がぽわりと浮かんで見えたりもする。
見慣れぬ風景にぽかんとただ口を開けるばかりだが、とても好きな雰囲気だった。
「人間や人外者は、当人の最盛期で時を止める。例えば、あの妖精は子どもの成りをしているが、あの時点で魔力の成長も終えたのだろう。あの姿から歳をとる事はない」
「……ずっと少年のままということですか?」
「そうだな。老いた姿の者もいるが、そういった連中は死ぬまで伸び続ける、特異で精強な者だ。短期間で魔力が千まで伸びた例もあるから、幼少な者でも油断は出来ないがな」
「………見たままの姿の方ばかりではないのですね」
「ああ。子どもだからと言って、安易に話しかけるなよ」
人型の多くの者は、二十歳から三十歳の頃合で成長を止めるらしい。
通りで街には若者が多いはずだと納得する。
実際に生きている年齢は見た目とは異なるのだから、青年に見えても中身は壮年だと言うことも珍しくはないだろう。
そう聞くと一層誰とも関われないなと思ったが、元々人とは関わらないように生きてきた身としては、大きな問題ではない。
(……カインさんも三十歳くらいには見えるけど、中身はおじいちゃんの可能性もあるのか…)
目の前のシェラをちらりと見て、その隣のシルヴァにも目線を向ける。彼らも二十代後半くらいに見えるが、王宮の近衛騎士という前歴を持つのだから、ある程度の年月は生きているのかも知れない。
この世界の生き物は規格外かつ想像を超えていくのかも知れないと頭を過ぎる。
「おやおや。こちらは惑い子の馬車だね?」
ふと、不穏な声色をした男性の囁きが耳に届いた。
何だろうと思ってから、耳元のすぐそばで囁かれた事に違和感を覚える。
からからと車輪の回る音に、馬の蹄がカツカツと地面に触れる音。
賑やかな街から聞こえる話し声に、草木や花が風に揺らぐ音。
耳を澄ませてもそんな音しか聞こえなくて、空耳だったかと思い直す。
(………なわけない)
あまりにも近いところから聞こえた声は、まだ耳の奥に残っていた。
ぞくりとして、冷や汗が流れ落ちる。
シェラと目が合う。
彼は私の様子を見て眉間に皺を寄せたが、彼にあの声は聞こえていなかったのだろうか。
(………後ろに誰か居たりは……しないよね?)
恐る恐る後ろを振り返ってみたが、当然のように人はいない。
カインとシルヴァも異変に気がついたようだが、その反応を見る限り、先程の怪しげな声は聞こえていなかったのだろう。
「………どうした?」
「………こ、声が聞こえませんでしたか?」
「いや。我々には聞こえなかったが。………この馬車の防御魔術の中に入り込んだなら、その声の主は一般人ではないだろうよ」
「……惑い子の馬車かと尋ねられました」
私の言葉に空気がピリッと張り詰める。
カインが深くため息を吐いてから、鬱陶しそうに顔を顰める。
シルヴァとシェラも険しい表情をしていて、どこか周囲を伺うように鋭く視線を動かしていた。
「残念だが、ヴィルセに戻るぞ」
「は、はい………」
「やれやれ。この馬車は多少隠しているんだがな。妖異か鬼か……惑い子が来た事は、あの屋敷に明かりが灯ったことで周知の事実だからな」
「………私の肩書きもすべて筒抜けなのですか?」
「壁を作るから待ってくれ。……………お前の事は、守護者を森に迎えに行く道中で拾ったという話にすり替えてあるから、お前が守護者である事は漏れていない筈だ」
どうやら会話を盗み聴かれぬようにと、何かの魔術が敷かれたようだ。
カインが手をひらりと振っただけで、見えない壁が周囲に出来たように感じた。
声の響き方も、まるで浴室にいるかのように変化してしまい、驚きながら辺りを見渡す。
「惑い子と守護者は、別人だという扱いなのですね」
「ああ。惑い子と守護者という肩書きの内、優先されるのは惑い子の方だ。ヴィルセで厳重に守る方が優先されるからな」
「………あのお屋敷は、王宮よりも警備が厚いのですか?」
「土地柄でもあるがな。古い魔術が基礎に敷いてあるから、ちょっとやそっとのことでは揺るがないだろう。俺も少し手を加えたから、この国の中ではあの屋敷が一番安全だ」
惑い子は、五千年に一度あるかどうかという貴重な存在だ。
守護者には代えがあっても、惑い子はそうはいかないのでと、今回は惑い子という資質を優先する判断に至ったらしい。
そして、私は思っていたよりも希少な要素を持っていた。
無垢者で、その身に黒を持つからだ。
ここまで珍しい条件が揃っているなら、例え惑い子で無かったとしても髪や爪は狙われていただろうとカインは言う。
「……厳密に言うと、自然に抜け落ちた毛髪や切り落とした爪といった、体の不要物に魔力は一切宿らない。惑い子の要素として組み込まれる程度で、お前自身に危害をもたらすものではない。……だが、涙や血液には気をつけろ」
「……髪を切り落とす事も良くないのですよね」
「ああ。短くしたいのなら、魔術で調整をかけてやる。涙や血液だけではなく、体には魔力が宿っているんだ。不要物として排泄されない限り、そこには魔力が宿っていることになる。それは髪も同じだ」
私の要素を使えば、新しい知見の魔術や禁術として封じられた恐ろしい魔術が再興される危険もあるらしい。
素性を明かせば妖異や鬼だけでなく、人間の研究者や魔術師からも狙われるに違いないというのがカインの見解であった。
「……素材には、なりたくないです」
「考えるな。縁を引き寄せるぞ」
「はい……」
「……惑い子が来たと言う事実は既に知られている事だ。もはや、世界中から注目を集めているといっても過言ではない。……現に、お前を研究したいという奴らから、素材提供依頼が殺到している」
カインの目は随分と鋭くなっていた。
屋敷に戻るまでは油断ならない状況なのだろうし、不穏な話題故に、こちらも背筋は冷え込んでいた。
妙な緊張感が漂う中、ふと窓の外を見た。
(この素敵な街でさえ、私はきっと満足には歩けないのだ)
世界中から素材として注目を集めているだなんて、考えるだけでも怖い。
守護してもらう契約を早くしてしまいたいとすら思うが、とは言えこればかりは、急ぐあまりに仕損じるという訳にもいかない。
「……契約を結ぶのであれば、妖異が良いのではないかと、カトルニオ様から話を受けています」
「そうだな。人外者の召喚魔術を敷いて、現れた者に交渉することになるが………まだお前には知識も交渉力足りないように思う」
「はい。私もそう思います」
「お前がただの惑い子ならば、ある程度は放任できるんだが………守護者だしな。しかも無垢ときた」
「無垢というのは、そんなにも懸念材料になるのですね」
長い歴史の中で、人類がここまで繁栄をしているのだから、過去にも無垢者はいた筈だ。
それに、いくら珍しいと言っても、惑い子ほど珍しくはないだろう。
そう思って尋ねれば、カインは苦笑いをこぼした。
「……そうだな。せいぜいこの国に十人居るか居ないかと言った所だが……お前はそれにしても低すぎる。殆どの無垢者は、ぎりぎり五十を下回るような程度で、身支度くらいなら一人で出来る」
「………五十にギリギリ届かない程度」
「就職するには、何かしらの道具は必ず触るからな。その為に人外者と契約しているのであって、日常生活は一人で送れていたりする」
あまりにも残酷な話だと険しい表情になっていると、また声が聞こえたのかと怪訝に尋ねられる。
無言で首を振ると、紛らわしいぞと小言を言いつつ、カインは再び口を開いた。
「俺も気になって調べては見たんだが、少なくとも記録書の類に残っている事例では、二十以下の無垢者は今まで存在しなかった」
「……幻の生き物という事ですね」
「…………俺が調べられる範囲の話だ。もしかしたら……いた可能性も否定は出来ない」
自分の存在の異質さに改めて気がついたところで、馬車は早くも屋敷の前に到着していた。
屋敷の前には門があって、玄関までの道のりに小さな池や花壇がある。
初日に見たマリモのような何かもフヨフヨが浮かんでいて、これは池水の妖精なのだと聞いた。
「召喚に関しては、もう少し様子を見てからにしよう。急いだ方がいいのは確実だが……変なものを寄せ付けては堪らない」
ここでぱりんと薄氷が割れるような音がして、遮蔽の魔術が解かれた事に気がつく。
浴室での会話のような妙な響きも消え、まずはシルヴァが馬車を降りる。
(馬車を降りて街中を散策する予定だったのに………)
悲しい気持ちと、カインの厚意を無駄にしてしまったような残念感に苛まれつつ、馬車を降りる。
安全には変えられないので不満を言うつもりはないが、カインは気遣わしげに生き物図鑑を渡してきた。
今日は文字を読む気にならないので、この図鑑を見て過ごそうと思う。