春はやてが、乙女を連れて
もしも、この世界にいる誰もが私を知らないとして、それは孤独という名前がつくのだろうか。
もしも、私がこの手に何も持っていないとして、それは不幸と呼ばれるのだろうか。
ふと、こんな事を考える事があった。私は孤独でも、不幸でもなかったからだ。
それでは、私は一体何者なのだろうかと考える。
ふわりと馴染んで消える煙のような、或いは手のひらからこぼれおちていく雫のような。
確かにそこにあったのに、気づけば無くなっていて、それを気に留める者はいない。
それが私なのだと、私は自分に呪いをかけていたのかもしれない。
(………起きようかな)
抑えることもなくくあっと開けた口から、欠伸がひとつ宙に浮かんでいく。
空が、静かに明らむ頃合いだった。
うっすらと明らむカーテンの向こう側から、ほのかな光が瞼の裏に届く。
ベットの上を少しごろごろとしてみたが、もう眠れそうに無い。
諦めて支度をしようと、のそのそと立ち上がった。
くしゃくしゃの寝巻きを脱ぎ捨てて、髪をひとつ纏めに結い上げる。
まだもう少し寝ていたかったという思いが、瞼を重くする。
長すぎる瞬きと、ため息をひとつ。
まだ覚醒してない頭で、着慣れた一枚布の簡素なワンピースドレスを被る。
ひたひたと、静かな足音が部屋に響いた。
まだ温もりの残る寝巻きを片手に持ち、洗面室に向かう。
(………今日こそは洗濯したい)
昨日までの三日間は、生憎の雨だった。
洗濯かごにはこんもりと洗濯物が溜まっていて、昨朝からずっと気掛かりだったのだ。
カーテンの隙間から差し込む光を横目に見る。
起きてからまだほんの数分だが、その数分で陽は顔を出したらしい。
先ほどよりも強い朝日を感じて、しゃりりっとカーテンを開ける。
(………ああ。やっと晴れた)
すぐに支度を済ませて、洗濯にとりかかろう。
やっとスッキリできるぞと思えば、少しだけ胸が躍る。
洗濯かごに脱いだばかりの寝巻きを追加して、洗面台に向かうと、冷たい水でまずは顔を洗った。
「っ………?!」
洗濯への意気込みが強すぎたのか、勢い余って水が首元を濡らす。
あまりの冷たさに体が強張って、一気に目が覚める。
慌てて首元にタオルを押さえるが、びっしょりと染み濡れた服はもう手遅れだ。
着替え直すか一瞬迷ってから、これ以上洗濯物を増やしたくないという思いに傾く。
(………いいや。このくらいなら、すぐに乾くわ)
タオルも洗濯かごに放りこんで、乱雑に結っていた髪を解く。
ブラシで梳かすと、綺麗に整えて再びぐいっと結い上げる。
鬢付け油を塗り込んでから、ウィンプルを被って髪を仕舞い込えば、どこかキリッとした自分が鏡に映る。
(この油もそろそろ作っておかないと………)
主に後れ毛防止のために塗り込んでいる鬢付け油だったが、これは森にある木の実から抽出できる蝋と、花の油を合わせて作った物だった。
日焼け止めのクリームを顔に塗り込みながら、ぼんやりと今日の予定を考える。
(………洗濯して、朝ごはん食べて………食材も足しておきたいわ。昨日までの雨で道が泥濘んでいるだろうから、森の奥までは入らない方が良さそう。鬢付け油は明日以降かな……)
ぱたぱたと白粉を薄くはたいてから、頬紅と口紅を気持ち程度にさす。
ぐぅとお腹が鳴ってしまったので、洗濯と朝食の順番を入れ替えることを決めれば、口紅をつけねば良かったなと後悔の念に駆られる。
「さて、………」
朝食の準備を、と考えながら振り返った。
朝日が完全に昇ったようで、きらきらと照りつけるような日差しが部屋に差し込む。
曇天に見慣れていた目は、そのあまりのまばゆさに思わず細まる。そのまま少しだけ目を閉じて、ふうと深呼吸した。
どこからともなく薫る朝の瑞々しい香りが、どこか胸を高鳴らせた。
(………いい日になるわ。今年こそ、きっと)
ここ数日の春霖は、森にとっては必要なものだと理解していても、長く続けばジメジメとしていて不快なばかりだった。
だからこそ、今日のこの晴天がとてつもなく輝かしいものに見えるのだが、何か良いことも起きそうだとも思わされるような爽快さに、思わず伸びがしたくなる。
「………部屋の換気をしないと」
すうと深呼吸をしながら、目を閉じる。
未だ蔓延っている眠気が、洗濯欲と熱戦を繰り広げていたのだ。
動かねばと思うのに、どうしても瞼が重い。
麗らかな森の香りが胸をひしめいて、頬を風が撫でていく。
ざあっと吹きつけた春はやてが、ウィンプルをぱたぱたと靡かせた。
「………ん?風?」
窓を開けていたかしらと、その違和感に目を開ける。
そしてそのまま、瞠目する。
ほんの数秒目を閉じたその隙に、見たこともない場所に立っていたのだ。
「………………っ?!」
ざわりと、風が駆け巡って木々を揺らす。
その冷たさにぶるっと身震いをしてから、周囲をくるりと見渡した。
あたり一面は草木に囲まれて、鬱蒼と生い茂っている。
まだ夜が明けたばかりの空の下では、どこか薄暗く不穏に感じられる光景だ。
ごくりと唾を飲む。激しい動悸が、大袈裟に体を叩いていた。
思わず一歩後ずさると、膝丈まで伸びた草がガサガサと音をたてた。
(………こんな森………うちの近くにあったかな)
そこは、驚くほど静かな森だった。
耳を澄ませてみると、木々のざわめきや微かなせせらぎが聞こえてくるものの、鳥や獣の鳴き声などは一切聞こえてこない。
ふわりと鼻を掠めた風の匂いは、先ほどまで胸を満たしていた自分の知る森の香りではなかった。
とにかくただ、見知らぬ場所に来てしまったという事だけは自覚した。
「なに………ここ」
思わず呟く。まるで、瞬間移動したようではないか。
そう考えて、血の気が引く。
突然そんな異能力に目覚めるなんて、子どもの寝物語ではないか。
現実逃避をしている場合ではないのだと、自らを叱咤する。
(………肌が切れそうだわ………)
ドレスが膝下丈だったので、足首には直に草が擦れていた。
そのくすぐったさが不快で、モノによっては切り傷が出来るだろうと思えば、自然と眉が寄る。
(蛇や虫に噛まれたら大変。………ああ、こんな時に限って、何も持ってないわ)
肌を覆い隠せるショールやカーディガンすら羽織っていない。
足元の草を踏み倒しながら、自分の残念な服装を恨めしく見つめた。
膝下丈の一枚布のワンピースドレスは、装飾品がほとんど無い簡素なものだ。
薄い上に肌を隠すことも出来ていないので、森歩きには向かないだろう。
そして、靴も履いていない。かろうじて室内用のスリッパは履いていたものの、靴下も身につけていないので、ほぼ裸足といって遜色ないだろう。
(………スリッパの底も、随分擦り切れて薄くなっているし………小枝や石でも踏めば怪我をするかもしれないわ)
怪我で移動できなくなれば、命取りになりかねない。
草を編んででも履き物を作らねばと、あたりの草を見渡す。
ありふれた草木に囲まれているようで、よく見れば色や形は見たこともないものばかりだった。
やはり知らない場所なのだと確信すれば、ぞっとして背筋が冷える。
(………花も咲いているけど………見たことのない花だわ。………地面は平坦に見えるから………ここは山ではないようだけど)
思わず顔を顰めて、周囲をぐるりと見渡す。
ガサガサと草が擦れる音は、自分が原因なのにびくりと肩が跳ねた。
周囲には獣道すら見当たらなかった。
どうやらこの場所は、人間はおろか、動物さえも足を踏み入れない場所らしい。
(………さっき着替えたばかりの服。……洗顔の時に、襟元を濡らしたままだわ)
寝ぼけて家の前にある森に奥深くまで入ってしまった可能性も、ないわけではない。
時間の経過が確認できるかと思ったが、襟元の濡れ具合を見る限りは、ほとんど時間は経っていないようだ。
(一瞬でここに来てしまったということよね……)
夢でも見ているのかと考えるが、肌寒さに震える体が現実であることを思い知らせてくれた。
何故こんなことになっているのかと、原因までは考えない事にした。何せ、今目の前にある景色が現実で、変えられない結果なのだ。
(今はとにかく身の安全を確保しなければ。……どうしてこうなったのかは、落ち着いてから考えよう)
ふう、と深く息を吐く。
吸い込んだ空気はとても澄んでいて、少しだけひんやりとしていた。ぶるっと身震いをして空を見上げる。
(春先、よね……。土地の標高が高いのか、それとも、ただ時間帯の問題で肌寒く感じるのか……)
丁度、太陽は登り始めたくらいであった。
早朝という事であれば、これから気温も上がってくるだろう。
そして、深夜には今よりもっと気温が低くなるであろうことは、簡単に予想がついた。
夜までにここを抜けねば、凍え死ぬことも可能性に入れねばなるまい。
「熊がいるような場所なら、歌いながらでも移動した方がいいかな………」
ぽつりと呟く。そして同時に、ため息が漏れた。
まずは履き物を何とかしなければならないのに、毒蛇や猛獣といった、分かりやすい脅威にも備えが必要なのだ。
(せめて、武器になりそうな枝でも拾えれば良いのだけど………)
もはや、命を脅かす者が現れたなら、潔く諦めることも考えた方がいいかもしれない。
そう思って、再び足元に視線を落とす。
身を守る術もないばかりか、食べ物も水も持っていない私に、悠長にしている暇はない。
けれど、どちらに進んで良いかも分からないのだ。
途方に暮れながら、まずは靴に出来そうな草を物色する。
「熊は居るが、それよりもっと恐ろしい生き物も居る。無防備に音をたてて、自分の居場所を教えぬ方が良いだろう」
すると、突如として背後から男性のそんな声が聞こえた。
咄嗟に振り返って、人が立っていることに驚いて肩が跳ね上がる。
「っ?!」
声にならない悲鳴を上げて、咄嗟に胸の前で両手を握りしめる。
先程まで誰もいなかったはずの場所に、こっくりとした蘇芳色の髪の男性が立っていたのだ。
風にたなびいた髪をさっと掻き上げれば、催花雨を降らせた空のような淡い灰色の瞳が、寸分の隙もなくこちらを見つめている。
出会ったことのない色彩の人物に、何と声をかけるかも分からないまま、どくんどくんと心臓が鳴り響いた。
(………何、この人……)
奇抜な髪色にまずは視線を奪われた後に、視線だけを上下にゆっくりと一往復させる。
夜会にでも出かけるのかと思うほどの、盛装姿。
私が言うのも何だが、こんな森には似つかわしくない身なりであった。
その男も、私の無防備な格好を見てか、怪訝に顔を顰めている。
「その格好では、寒いだろう」
「………そう、ですね。はい」
男の表情から、何かの感情を読み取ることはできなかった。
けれど、口を開けばまるでご近所さんに話しかけるような気楽さで、妙に気圧されてしまう。
思わず返事をした声は、どこか掠れていた。
「星詠みから、貴方がここに来ると聞いたので、迎えに来たのだが………。詳しい話はこの地を抜けてからでも?」
「………失礼ですが、どなたでしょうか?初対面かと思うのですが………私の事をご存知なのですか?」
随分と久しぶりに人と話した少しの高揚感と、緊張。
一人暮らしが長かったので、言葉や話し方を忘れないようにと独り言を話すようにはしていたが、実際に人と話すのはやはり違う。
一生懸命に言葉を紡ぎながら、目の前の男性が困ったように微笑んだのを見つめる。
「私はカトルニオという。詳しくは後ほど説明するが、貴方に危害を加えることは一切ないと約束しよう」
カトルニオ、と心の中で復唱する。
馴染みのない音の名前だったが、言葉は通じているので異邦人と言うわけでは無いのだろう。
(綺麗な髪………。変な人だけど………身なりは随分としっかりしているわ)
風に揺れる蘇芳色の髪を見つめる。
染め粉で色をつけたとは思えない、艶のある滑らかな髪だった。
肌艶も良く、シワひとつない上等なジャケットからもその身分が窺える。
こんな森の中には不似合いで、違和感ばかりが募る。
「………ここは、何という土地なのでしょうか?家で朝の支度をしていた筈が、迷い込んでしまったみたいでして」
「……ここは秋の国にある、紅葉筵の森だ。この辺りは森の外周に近いので新緑ばかりが目に入るが、奥に進めば錦秋の景色を楽しめる。………………寒くは無いのか?」
カトルニオは私の質問にそう答えてから、眉間に皺を寄せた。
ひゅうひゅうと風が吹き付けているせいだろう。
勿論、とても寒かったのだが、だからと言って見ず知らずの人間について行くのは気が引ける。
「………秋の国というのは……北欧にある国でしょうか?」
「………残念ながら、違うだろうな。貴方はどうやら惑い子のようだ。………それに、どうも無垢なように見える」
「え………………」
彼は、まじまじと私を観察した。
まるで教本の挿絵でも見るかのような研究者然とした視線で、私もそんな彼をじっと見つめる。
「……ここは、貴方が元いた世界とは全く異なる場所なのだが……それは理解出来るだろうか?」
「それはなんとなく………貴方を見ていて分かります」
カトルニオから垣間見える所作や言葉遣いは、洗練された高潔さが滲む。
どこか気品があって、思わず動きを目で追ってしまう。
やはりここはどこか知らない土地で、この人はその住人の中でも高貴な立場にあるのだろう。
そこまでを思い至り、自分の身に何が起こったのかを思案する。
(………夢ではないことは確かなのよね。それに………この人は私が何者かを知っているような口ぶりだ)
惑い子だとか、無垢だとか、彼は確かにそのような単語を呟いた。
この人に着いて行ったなら、その謎も解けるのだろうか。
改めて、カトルニオに視線を巡らせる。
人相や話しぶりからは、理知的で落ち着いた雰囲気だという印象を受けた。
そして、おそらく高貴な身分にあって、けれども熊や猛獣が出るというこの森にたった一人でやってきている。
(………人攫いや………賊のようには見えない)
カトルニオは周囲を警戒するように視線を左右に巡らせてから、ゆったりと私を見据える。
「一度王宮に来てもらっても?そこで疑問には全て答えよう」
「………おうきゅう」
「私は王なのでな」
「………………王」
「これ以上、春朝の風に貴方を晒したくない。………まずはこの手を取ってもらえないか?」
「………その。私は何かの罪に問われたり、何処かに売り払われたりするのでしょうか」
「………………貴方のその独特な価値観を構築した環境が気になるが、そのような事は一切ないと約束しよう」
この人が一体何の王様なのかは知らないが、せめて朝の支度が澄んでいて良かったと胸を撫で下ろしながら、カトルニオの言葉に頷く。
(悪い人ではなさそうなのよね………)
確実にそうだと判断出来るわけではないが、この森の中で一人残るよりは、話が出来そうな人間に知恵を借りる方が良いだろう。
(………家には鍵がかけてあったし、火もかける前だったから、多少留守にしていても大丈夫だわ)
カトルニオは、移動をする門を開くと言って、何やら陣を描いている。
正円の中に模様を描き終えたカトルニオがさっと手を翳すと、音もなくアーチ状の豪奢な門が現れる。
おとぎ話のような展開にくらりとして、頭が真っ白になる。
(………どうしてこんなことに……)
門を見上げて絶句しながら、こんな事が本当にあるのだなと妙に冷静に納得する。
煙のないところに火が立たぬように、おとぎ話にも何かしらの出処があったのかもしれない。
「さて、念のために手を繋いで潜ろう」
「………ふ、服を掴ませて貰ってもいいですか?」
簡素なワンピースドレスにウィンプルを被っただけの私は、靴もまともに履いていないどころか、手袋すら嵌めていない。
こんなボロボロの格好で王宮とやらに連れられる事すら恐れ多いのに、素手で男性に触れるわけには行かないのだと主張すれば、カトルニオは重々しく頷いた。
「失礼。………では、腕を………いや、この裾を掴んでもらっても?」
腕を組む訳にはとぶんぶん首を振った私を見て、カトルニオはケープの端を差し出した。
その申し出に少しホッとしながら、その裾をきゅっと握りしめる。上質な生地で作られた衣服だというのは、その肌触りから明らかであった。
(ここに一人置いて行かれても……また誰かに会える保証も、その人が信用できると判断出来るかも分からないし)
ならば、この青年に一度ついて行ってみよう。
そう思ったのに、服裾を掴む手はかたかたと大袈裟に震えた。
ごまかすように力を入れる。
「この門は、王宮の賓客室に繋がる。ほんの一瞬だが、移りの影響で立ち眩みのような症状が出ることもある。決してその手は離さないように」
「はい。……分かりました」
「では、行こう」
掴まれた服裾をちらりと確認して、カトルニオは門の方へ進んだ。つられて私も門に踏み出す。
ぶわっと強く風が吹きつけたような感覚と、酩酊したかのような足元のふらつきを感じて、思わず服裾を強く握りしめた。
ぐいっと引っ張ってもらい、五歩ほど足を進めたと思う。
(………不思議だ。十秒も経っていないのに)
吹き付ける風がぴたりと止んで、細めていた目をぱちりと開くと、そこはもう室内だった。
落ち着いた臙脂色の壁紙に、温かみのあるダークブラウンの木張りの床。
賓客室というだけあって、花器には上品に花が生けてあった。
まさに、高貴な身分の人間が有するお部屋だと気後れする。
一目で上質だとわかる調度品に、上品な部屋の設え方。
「お帰りなさいませ。………女性のお客様でしたか」
カトルニオよりは、少し年上だろうか。
側近や秘書といった肩書きを持つのであろう男性が、腰を綺麗に折って出迎えた。
一瞬目が合うが、その男性はすぐに目を伏せてしまい、それでもにこりと微笑む。
「外は冷えたでしょう。ブランケットをお持ちしましょうか」
「ああ。朝の支度をしていたところを呼び出されたらしい。暖かい飲み物も用意してくれ。……紅茶は飲めるだろうか?」
「………は、はい。お気遣い頂きありがとうございます」
「では、紅茶と軽食を」
「はい。手配して参ります」
見知らぬ男性は、一礼をして何処かへ下がってゆく。
ぼんやりとその背中を見つめてから、ハッとしたように部屋を見回す。
大きなローテーブルに、ベルベット生地の四人掛けソファが二台。
待ち時間にも目を楽しませるであろう、絵画やシャンデリアは、きらきらと光を降らせるような煌めきだ。
なかなか圧迫感のある大きな家具だが、それを感じさせない広さの部屋には、圧巻の美しい絨毯が敷き詰められている。
繊細で、どこか大胆でもある不思議な模様の絨毯は、端の方で花が咲き乱れていて、きらきらと花粉を落としている。
(………絨毯から花が咲いている………?いや、きっと造花だわ………)
まさか本物ではあるまいと見つめていると、カトルニオがソファの方へと歩みを進める。
ケープを握りしめたままだった私もつられて進み、柔らかく沈みこむ上質な絨毯の感触に血の気が引いた。
(………こんなボロボロの室内履きで歩いて、汚してしまわないかしら………)
思わず後ろを振り返って、自分の足跡が汚れていないかを確かめる。
私のそんな様子に気が付いたのか、カトルニオはきょとんとした表情でこちらを見ていた。
「すみません。汚してしまうかと思って」
「成る程。それならば気にしないでくれ。この絨毯はむしろ、土の気配や森の香りを好む」
「………………絨毯が………?」
「ああ。………さて、ひとまずこちらに掛けて休んでくれ」
「は、はい。………ありがとうございます」
絨毯の話は気になったが、カトルニオはそれ以上何かを語る様子が無かったので、こちらも質問は控えることにした。
言われるがままにソファに腰掛けると、湯気を立てた紅茶が目の前に置かれた。
スコーンのような焼き菓子も添えられ、朝食も済んでいなかったことを思い出す。
(………一体、ここは何なのだろう)
そろりと窺えば、カトルニオにも同じものが出されていて、彼はすぐに紅茶に手をつけた。
少しホッとしながら、私も紅茶を手に取る。
茶器は、何処かで見たことのあるような、ありふれたデザインのようにも見えた。
花々がしとやかにカップの縁を彩るようなもので、スコーンが乗ったプレートも揃いのデザインだ。
白磁の陶器のような見た目でいて、とろりとした感触のカップに、ほうとため息が漏れそうになる。
(………これ、陶器じゃないわ。………何の素材なのだろう)
唇に馴染むような柔らかさがあって、それなのに茶器の硬さは保っている。
不思議な感覚に驚きつつ、ベルガモットのような香りの紅茶をこくりと飲み込む。
カップの絵付けを近くで見れば、息づいたように花がさざめいていて、紅茶を飲んだままそのさざめきを凝視していると、カトルニオが苦笑いしながら口を開いた。
「特別な茶器でな。毒などを仕込んだり、妙な魔術をかけた物を淹れると、その花が枯れるようにして示してくれるのだ」
「………………え」
「美しく咲いているからには、その紅茶にもスコーンにも、何も悪いものは仕込まれていない。安心して食べるといい」
不思議な世界に来てしまったなと思ってはいたが、そんな異世界の中でも、また一つ世界の異なるお話だ。
毒殺を警戒するくらいには不穏な立場にあるらしいカトルニオを、再び凝視する。
自称王様だと言うことだったが、本当に玉座に在る人なのかもしれない。
「………貴方は………本当に王様なのですね」
カトルニオは、その言葉を聞いて面白そうにくつくつと笑った。
それを疑っていたのによく着いて来たなと返事が返ってくる。
「先程話したように、ここは季節を司る秋の国で、私はこの国を治めているカトルニオと言う。………今日の東雲の頃に、貴女が顕現すると星詠みが予言を残したので、かの森まで迎えに上がった」
私がスコーンを口に含んだところで、秋の国の王ーーーカトルニオは丁寧な口調で説明した。
聞き慣れない単語が所々に散りばめられている説明ではあったが、意味はなんとなく察する。
「………星詠み」
ぽつりと呟く。
大昔にいた、占い師のようなものだろうか。
小さい頃に読んだ絵本に、そんな人が出て来たような気がする。
(予言ということは………私がここに来ることが、何日か前から決まっていたのだろうか………)
目の前で魔法の門や、絵付けの花が動くティーカップを見ているのだから、ここが元いた世界とは違うのだという事は理解している。
一体自分の身に何が起こったのかまったく見当もつかないまま、途方に暮れてカトルニオを見る。
「国の存続に関わる事態が起こる場合に、星詠みは神託を受け、予言として王族に伝える役割を持つのだが……貴女の国とは違うかもしれないな」
私の怪訝な表情に何か思うところがあったのか、カトルニオはそんな補足を付け足した。
「はい。………初めて耳にしました」
「まあ、予言と言っても、恐ろしく曖昧なものでな。今回も情報としては東雲の頃にあの森に、とだけで……。本当に、随分と悩まされたものだ」
私の返事に頷きながらも、カトルニオはうんざりした様子でため息をつく。その様子があまりにも人間らしいので、少しだけほっとする。
(……きちんと話が出来そうな人で良かった)
こちらの反応を確認しながら話を進める様子を見る限り、きっと彼は無碍に私の話を切り捨てたりはしないだろう。
「随分と長いお散歩でしたものね。我々は肝を冷やしていましたよ」
「そうだろうな。………あの付近の遮蔽魔術はどうなっている?」
「そろそろ解かれる頃かと」
側近らしき男性が会話に入ると、カトルニオは生真面目な表情に変わって、事務的な話をいくつか確認した。
何だか忙しない様子が伝わって来て、こちらも居心地悪くスコーンを齧る。
「星詠み曰く、一目見れば分かるという事だったのだが、途中で見たこともないほど大きな栗に出会った。よもやこれが、と観察していたところ、貴方の声が聞こえてな」
「カトルニオ様………栗な訳がないでしょうに…」
「一時間余り彷徨ったのだ。どのような形で顕現するかも示されていなかったし、あれほど大きな物は見たことがなかった。………ちなみにこの栗なのだが」
どこから取り出したのか、ドスンと机の上に置かれた栗は、西瓜くらいの大きさはあった。
側近の男性は一度は頭を抱えたが、確かにこれは大きいですねと目を丸くしている。
(………というか、一体どこから出してきたのだろう)
栗の大きさにも確かに驚いたが、今までどこに持っていたのだろうとそちらの方が気になって、思わずカトルニオをじいっと見つめる。
「ああ、すまない。話が逸れてしまった」
「この栗は後程調べておきましょう。それから、今後はこのような訳のわからないものは触れない様に」
「小言も後にしてくれ。………………それで、貴方が国の守護者である事は間違い無いので、まずはここに留まってほしいのだ」
大きな栗がスッと目の前から取り上げられる。
目線は栗を追いかけつつ、届いたカトルニオの言葉に引っかかりを覚える。
「守護者というのは、一体何のお話でしょうか」
「……ふむ。そうでは無いかとは思っていたが、やはり貴女の方には神託は降りていないのだな」
彼は少し悩んだ風に視線を落とした。
何のことかと首を傾げる私を見て、困ったように紅茶を飲んでいる。
「では、一から説明させて頂こう」
催花雨の雲のような、淡い瞳がこちらを見つめている。
その真面目な声色に、背筋がぴしりと伸びた。