3.4 決壊
15時から予定していた内部向け報告会が終わってから虎ノ門のオフィスは一段と重苦しい空気に包まれていた。オフィスの入口付近には6名程度が座れる長机を2つ向き合わせただけの『派遣社員の島』がある。派遣島では誰も会話をしていなかった。誰もがパイプ椅子の背もたれも使わずに、凍り付いたように背筋を伸ばして仕事をしているふりをしていた。
ユウゴも同じように背筋を伸ばして仕事をしているふりをしながら、他の島の様子を盗み見ていた。だが、さっきの会議の話は誰もしていなかった。オオシタ部長とオカダ課長は隣に用意されている彼ら専用の部屋にいる。ミヤシタもそちらの部屋に行ったまま戻ってきていなかった。
15時からの内部向け報告会でオオシタ部長から出た『ウチとしてはどうしたいの?どうすればいいと思っているの?』という質問に対して、ミヤモトが苦し紛れにヤマグチに丸投げした。
「それは会社としてどうしたいのかということですよね? そこはミヤモトさんたちが考える部分じゃないですか?」
「いや、だから、そのための材料を集めてくれという意味ですよ。何にもなかったら私たちも考えられないでしょ?」
「そのために私たちが資料にまとめているんじゃないですか? これ以上何をすればいいのか分からないです。はっきり明示してもらってもいいですか?」
「だから、うちとしてどうするかということを考えるために必要な情報をまとめて下さいよ。」
「それがこの資料だって言ってるでしょ?」
結局、最後にはミヤモトがこの仕事は子会社に発注しているものだからやってもらわないと困るとヤマグチの言い分を突っぱねると、あんたたちの名前で仕事しているんだから、そこはあんたたちが考えることでしょ?とヤマグチがキレてしまった。
オカダ課長が用意した場だ。オオシタ部長の前でそのやり取りはまずかった。子会社をコントロールできていない。オカダ課長のメンツがつぶれた。翌日からユウゴたちの作業は子会社のオフィスで行うことになった。
昨日の夜、子会社のハタケヤマ係長とミズシマ課長、そしてアカバネ部長がオカダ課長を訪ねた。アカバネ部長とオカダ課長はグループ内での等級が同じで、当然面識もある。アカバネ部長は年次が4つ上のオカダ課長に気を使っている。グループ内での壁は作らずに手厚く支援することを約束して、ミズシマ課長とハタケヤマ係長を連れてオカダ課長を接待に誘った。
アカバネ部長はオカダ課長の愚痴っぽくネチネチした性格が苦手だった。だが、下手にへそを曲げられると面倒な人だから今回も下手に出ておいた方が無難だと判断した。だが、この人はもう上に上がれる芽が無い。アカバネ部長は持ち帰りの仕事が残っていると言い、水島課長とタハケヤマ係長に任せて1軒目で帰った。
ハタケヤマ係長からユウゴに連絡があったのは22時になる頃だった。明日は虎ノ門ではなく、茅場町の子会社のオフィスに出社するように言われた。こんな時間に電話が来たということは今日の件が関連しているのだろう。
ユウゴは余計な事が起こらないか心配すると同時に、虎ノ門オフィスの重苦しい雰囲気の中仕事しなくてもよくなったことやミヤシタたちから余計なプレッシャーをかけられずに済むと思うと少し気が楽になった。
そしてヤマグチの処遇も気になっていた。ヤマグチが言っていることは正しいと思う。評論家のような態度のミヤシタやオカダ課長にはうんざりしていたからだ。自分たちがこの仕事を推進する立場だということを理解していないのだろうか。いや、親会社の仕事とはそういうものだ。子会社や出入りの業者の尻を叩くのが仕事だ。ヤマグチが俺にしているのも同じことだ。
ミヤシタたちは何の意見も持たずに、手ぶらで現れてはただ資料をみた感想を思いつきで言うだけだ。ヤマグチが苛立つのは無理もない。ただ、ヤマグチのやり方は良くなかった。あれでは衝突が起こるのは目に見えていた。それこそが、ヤマグチが色々な部署をたらい回しにされている理由だ。
翌日から茅場町のオフィスで仕事をしていると数時間おきにミヤシタから連絡が入った。資料のどこを修正したのか連絡するようにだとか、所定の場所に命名規則に沿ったファイル名と指定のフォーマットで資料を置くようにというようなものだ。
ミヤシタも資料を修正しているのだろうか。ヤマグチに聞いてみると違うという。ヤマグチが言うにはミヤシタは資料を見てもいないという。ただ、俺たちがさぼらないように時間を切って連絡をさせているのだという。
ヤマグチはミヤシタを馬鹿にして、ミヤシタにとやかく口を挟まれるのを避けようとしている。そして、ミヤシタは何とかヤマグチを手なずけようとしていた。こいつらはずっとそのやり取りをしているだけだ。
子会社のオフィスで仕事をするようになり、うんざりするほど間接作業が増えた。自分が何をしたのか、更新部分と何故そう更新したのかをテキストに起こしてヤマグチにメールし、ヤマグチの訂正を受けて、今度はミヤシタにそれを送る。共通認識のないミヤシタからの質問はどれもメールでは答えずらいものばかりだった。今さら資料の前提を事細かに聞かれ、それを説明しなければならないのなら毎週ミヤシタとオカダ部長に向けて行っている資料確認会は何のためにやっているのか分からない。
こんなことを繰り返していたら資料を作る時間がほとんどなくなってしまう。結局ユウゴは茅場町のオフィスで終電まで働くことが続いていた。このオフィスでは残業禁止の縛りもなければいつも人がいるので自分が一番最後にオフィスを出ないようにする心配もなかった。そうして1週間が経った頃にヤマグチがオフィスに来なくなった。