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西陽  作者: Co.2gbiyek
2. 日常
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2.1 不安な夜

 マエザワ・アキコは川口駅前の歯科医院の受付をしている。受付は20時までで、20時30分にはいつも帰宅することができる。今日は19時の患者を最後に予約もないので20時ちょうどに上がることが出来た。


 スーパーで買い物を済ませてアパートに帰るとユウゴはまだ帰ってきていなかった。簡単に食事を用意しておこうと思い、買ってきた赤魚の西京漬を焼いてわかめの味噌汁とトマトとレタスのサラダ、作り置きの肉じゃがを盛り付けた。


 ユウゴは食事については細かいことを言わずに何でも食べてくれるので気が楽だった。20代の頃に付き合った同世代の男は私が作る料理にいちいちケチを付けないと気がすまなかった。最初は素直に聞いていたが毎回毎回必ずケチを付けられると小さな苛立ちが蓄積してやがて、料理以外の別の事だろうが彼が正しかろうが全てが同じように蓄積され苛立つようになり、最終的になに一つ許せない状態になってしまった。


 アキコは大学を卒業後、新卒で食品系の商社に務めた。だが理屈が通用しない旧体質の社風に馴染めず5年で退職。焦燥感に駆られてITエンジニアの専門学校に通うが熱量が続かずに1年もたたずやめてしまった。しばらくは再就職先を探してみたが、中小規模の商社で総合職を5年経験した程度では専門性も無ければ社会人としての力も不足しているため、別の商社どころか別の会社からも相手にされなかった。


 新卒で入った商社では転職組ではなく、生え抜きとして優秀扱いされ、大切にされていたのだとようやく理解してそれと同時に他に売り込むスキルもない事に気が付き途方に暮れてしまった。


 結局、派遣社員として総務などの一般事務として務めては人間関係に悩まされて辞める、という事を繰り返していた。これではいけないと思い、勉強をして医療事務の資格を取得した。川口の歯科医院は少人数で先生や他の看護師やアルバイトたちともギスギスしておらず気が楽だった。


 3年前に派遣先企業の総務で事務員をしていた私の所へちょくちょく備品の申請に来ていたユウゴと知り合いになり、意気投合し関係が始まった。32歳になっていたアキコは結婚を意識してユウゴと付き合い始めた。ユウゴがバツイチだと知り不安を感じたがこのタイミングを逃すともう一生1人なのではないかと思い、決断を下した。33歳で自分よりも一回り年上のユウゴと結婚してもう2年が経つ。


 男性とこんなに長く付き合うのは初めてだった。時間が立つにつれてよそ行きの振る舞いをし続けるのが面倒になり、自分の本性を見せる前に別れるようにしていた。ユウゴは一回りも年上だったこともあり、同世代の男性の前でするように取り繕うって自分を演じる必要がなかった。テレビを見ながら気兼ねなく大笑いしてもハッとして声を抑える事も声色を整える必要もない。ありのままの自分で過ごしているので気が楽だった。


 それに私も彼も感情を置いて、論理や合理性が先行してしまうところは同じだったので波長が合った。私自身も女性同士の目的がない会話はイライラしてしまうことが多かった。だから学生時代から誰かと一緒にいたり、同じ感想を持つことで安心できるという認識を持つことができなかった。コミュニケーション自体が目的だということは理解しているつもりだったが社会人になってからイライラすることが抑えられなくなった。これから生きていく上で必要な行為だとはどうしても思えず、無駄な行為にうんざりしていた。


 そう考えてしまうのは自分の意志を尊重してくれた両親、特にお父さんの影響だと思う。お父さんが長女の私に一貫して伝えてきた価値観は、誰しもが年齢とともに避けることができない固有の事象を抱えて誰とも違う個別の人生を進むことになるということだった。だから彼と付き合う事を友達に伝えた際の反応はすべて無視してきた。一回り年上のバツイチ男性と付き合うのも結婚するのも、私だけの判断で決めたことだ。


 ただそれでも心配はあった。彼と私には先がなかった。普通の夫婦は将来の夢としてマイホームや子供の話をするけれど、彼とはそれも叶わない。将来とはこれから費やす時間だ。二人には時間がなかった。時間はお金で買うことができるが私にも彼にもお金は無いし、彼には私よりも時間がなかった。

 医療事務の資格を取ってやっと働き口が見つかったばかりだ。派遣社員の私だって偉そうな事はいえないが、彼は同世代と比べたらずっと稼ぎは少ないだろう。彼は養育費を支払っていたので私よりも使えるお金が少ない。


 ここの家賃と光熱費を払ってもらっているがそれは彼の手取りの大部分を占めるだろう。それを差し引かれた彼には旅行に行くお金が無いどころか、気の利いたレストランでの食事することだって大きな問題のはずだ。


 彼がビールを飲む所を見たことが無い。彼が飲んだお酒の缶はいつも中を洗ってシンクに水切りされている。見るといつもコンビニのプライベートブランドのものだった。彼が飲んでいるのはいつもプライベートブランドの缶入りのアルコール度の高いチューハイか、プライベートブランドの4リットルのペットボトル入りの焼酎だった。


 商社に努めていた頃、仕事納めだけではなく、3ヶ月に一回は何かにつけて社内で飲み会が開催されていた。その時には必ずテレビでCMをしているようなメーカーの缶ビールやチューハイが置かれていた。同期と家飲みをしても同じだ。思い返せばプライベートブランドのアルコールを飲んでいるのは彼以外に見たことがない。


 同世代であれば10年経ってもまだ二人とも40代に半ばだ。そこまでに2人で貯金して家を買う事も現実的に考えることが出来る。だが10年経てば彼は50代半ばだ。住宅ローンを組むことがはたして現実的だろうか?すぐに子供を持つことも考えられない。二人でようやく生活が維持できる。妊娠したら臨月とその前月、出産後2か月程度は働くことは出来ない。4、5か月収入が途切れるなんてとてもじゃないが今は無理だ。


 それに出産の費用や子供を迎えるための準備にいくらかかるのだろうか。それらをこれから貯める必要がある。調べてみたら私はすでに高齢出産になるという。私にももう時間が無かった。


 普通の夫婦が望むような将来は私たちには難しかった。だけど2人の将来には何か目標がなければならない。切り詰めながら過ごす、すり減っていくような毎日だけではとてもじゃないがやっていけそうにない。二人がけのソファーの前に置かれた小さなテーブルは二人分の料理をギリギリ置くことが出来た。


 結婚してまだ2年しか経っていない。今日は少し将来の話をしたいと考えていたからわざわざ料理を用意した。別々に食事をとればそのまま会話もなくそれぞれのペースで過ごして寝てしまう。今日くらいは同じ時間を共有してみよう。早く仕事が上がれた気ままな思いつきだ。


 そう考え事をしながら将来について話したがらず、私の将来の計画にいつも否定的な事を繰り返す彼が脳裏に浮び鼓動が速くなるのを感じてしまい、私は赤魚に付いた西京味噌の焦げた部分を見つめたまま自分の意志でその視線を外す事ができずにいた。


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