5.2 派遣を辞めた日
翌日からもう派遣先の仕事がなくなった。仕事がなくなることでいつもと違う朝を迎えた。平日の朝はまず、時間通りに職場に到着するのが使命だ。久しぶりに使命を失ったユウゴはアキコが起きて出かけるまで布団から出る気が起きなかった。
アキコが玄関ドアを閉める音が聞こえてようやく布団から出た。使命を持っているアキコと合わせる顔が無いような気がしたからだ。歯を磨いてコーヒーを淹れる。スギタから今日も13時にオフィスに来るようにとメールが来ていた。『承知しました』と返信してコーヒーを飲む。7時には起きている毎日なのに今日は9時まで布団に入ったままだった。土日の様な緩やかな気持ちはなく、それでも今月までの仕事は終わらせたという充実感で何とか不安な気持ちにならずに済んだ。
午後から新宿の派遣会社に顔を出した。ユウゴはまだ派遣先を決められずにいた。スギタには、その理由すら伝えることが出来ないでいる。小さなプライドが管理能力のなさや顧客とのコミュニケーションの拙さから要求されている仕事ができないかもしれない、と言い出すことを拒んでいる。だが、そんなことをスギタは当然知っている。スギタに管理能力や顧客折衝のスキルや経験がないことを昨日と同じようにねちねちと言われてユウゴはうんざりした。
そんなことを聞きたいのではない。出来る仕事を与えてほしかった。そんなことを言われているうちに、スギタは自分のために自社の顧客に誰か入れたいだけだと考え始めていた。派遣会社の営業なんて顧客に派遣を何人入れているかがそいつのバロメータだ。人を企業に入れて、毎月の報酬額からいくらか抜いている。その額がそいつの価値だ。夜の街のスカウトと何が違うのだろうか。人材紹介業者も同じだ。こういった仕事に就く、学歴の高い人間は保険会社の高収入の営業マンと同じだ。彼らはみんな優秀で人を不幸にして高い所得を得ている。それに比べて実際の労働作業をしている方はどうだというのか。ユウゴはそんな言い訳を考えて自分のスキル不足を棚上げにした。
そのうちに開き直りさえした。派遣の労働作業ではスキルが身に付かないというのは世間の認識通りだ。できないことや、やったことがないことは任せてもらえもせず、派遣に任せてもらえるのは社員にやらせるような事ではない、積みあがらない雑務だけだ。それを何年やったところで何のスキルも身に付かないのは当然のことだ。
45歳で専門性も管理能力もないただの作業員のユウゴは使いづらい存在だ。30半ばの正社員から年上のユウゴにダメ出しをしなければならない。正社員の方から見ても年上のユウゴは使いづらい。スギタの言う通りだ。だが、もう20年もそのまま過ごしてしまったのに、今さらどうすればいいのだろうか。スギタの話を聞きながら、どうしようもない憤りを感じて、ついに言葉に出してしまっていた。
「じゃあ、いいです。もう辞めます。」
気が付くとユウゴは言葉に出していた。スギタはあきれるように半笑いして髭の感触を指先で確かめながら頷く。
「分かりました。別の担当者が厚生年金と健康保険証の返却の話をするんで、対応して下さい。」
そう言ってスギタは会議室から出て行ってしまった。スギタとはもう6年の付き合いがあったが次の話、それ以外には何の言葉を交わすこともないまま出て行ってしまった。
誰もいなくなったその小さく薄っぺらな会議室にユウゴが一人残っていた。新卒で正社員を辞めた時と同じだ。突発的に口に出してしまう。自分のピアニカだけがなかった時と同じだ。訳が分からなくなって、考えることが出来なくなって、無言で家に帰ってしまった時と同じだ。人の輪の中にただ留まっていることすらできなかった。
辞めるのではなく、能力不足を認めてスギタに頭を下げるべきだった。さっきスギタに言うべきだったのは、この仕事をするには能力が足りないかもしれませんが頑張らせて下さい、そう言うべきだった。口をついて一般論が出てくるのはいつの頃からだろうか。そんなことをほんの一ミリすらも思ってもいないが、一般的にはそうした方が良いだろうと言うことは分かるつもりでいた。
ユウゴは自分がその時々の感情か、それとも一般論か、そのどちらかでしかコミュニケーションを図ることしか出来ないのに、これからどう自分の人生を切り開けばいいかのか分からなかった。そのどちらにしても自分の意思で人生を切り開くとこが出来ない。それなのに、どうすれば将来を考えることや、将来に希望を持って生きられるというのだろうか。
別の担当者が入ってきて、厚生年金や健康保険の支払いが来月の給与から引かれるだとか、保険証の利用は今月末まで、消失日は翌月1日付けになるだとか、保険証の返却先だとかの事務的な話しをしている。ユウゴは頷いてはいたが、よく意味が理解できなかった。それよりも来月からの仕事をどう探せばいいのかを考えていたが、見当がつかなかった。
あまりにもあっけなく、自覚症状もないままに、こんなにも簡単に仕事を失ってしまった。派遣社員だからだろうか、正社員だったら違ったのだろうか。結局ここでもまた誰にもお疲れさまでしたと言われることもないまま派遣会社のオフィスを後にした。