血濡れた戦い
「ブラッド様!?」
空に貼られた巨大な蜘蛛の巣のような糸に囚われたブラッド様は、ぐったりして動かない。
彼のもとに行かなければ。
そう思って踵を返したが、イェニチェリの一人が私の腕を掴む。
「ワラキア公夫人、危険です!」
「危険など承知の上ですわ! ブラッド様が苦しい思いをしているんです! 傍に行かないと――」
イェニチェリが掴んだ手を振り払おうとした瞬間、叔母が「待て」と言う。
「エリザベル、見てみろ。あれはお前の手書き刺繍の魔法陣ではないのか?」
「え?」
銀色の魔法陣――そうだ。あれは間違いなく、手書き刺繍の魔法が発動したさいに見せる輝き。
ブラッド様は腕に私の手書き刺繍を巻き付けた状態で戦いに挑んでいたようだ。
魔法陣から黒い蔓が広がり、蜘蛛の巣を引きちぎる。
そして、葉がブラッド様の大きな体を包み込み、黒い薔薇を咲かせた。
「なるほど。エリザベル、お前はいい刺繍を刺していたのだな」
「あれは――!」
黒薔薇は〝呪い返し〟の刺繍だ。
そういえば、そんな刺繍をせっせと刺していた。
どうしてこれまで忘れていたのか。
結婚する夫が竜で、父親と体が入れ替わっていて、などと普通ではない状況に身を置く中で、大事なことが頭から消え去っていたのだろう。
花開いた黒薔薇の刺繍は、ブラッド様が受けた呪いを返す。
皇帝はワイバーンごと蜘蛛の巣に囚われ、動けなくなってしまった。
「く、くそ、なんだこれは!!」
『エリザベルの〝愛〟だ!』
「!?」
皇帝の前に躍り出てきたのは、牛の頭蓋骨を被った青年、父君だ。
風船のように膨らんだモフモフに騎乗し、槍先を喉に突きつける。
『解呪、しろ!! でないと、刺す!!』
なんでもポナエリ城に捕らえた呪術師キジから、呪いはアトウマン帝国の呪術師の仕業ではないのか、という指摘があったらしい。
その結果、プネで出会ったルスランが呪いをかけたのではないのか、と父君とブラッド様は推測していたようだ。
「あー、ごめん。何を言っているかわからないや。それよりも、ワラキア公の体の傷は大丈夫なの?」
『案ずるな』
ブラッド様の体は光に包まれ、傷が回復していった。
『人間ごときが、竜族を攻撃するなんて、百万年早い』
全身の傷は自己再生術で治してしまったようだ。
よかった、と思わず震える声で呟いてしまう。
「どうせ、解呪しろとか言ってるんでしょう? 呪いを解除しない、って言ったらどうする?」
ブラッド様がじろりと睨むと、蜘蛛の巣が皇帝の全身を切りつける。
「う、うわあああああ!!」
『忘れるな。お前の命は私と父が握っているということを!』
皇帝は抵抗を諦めたようで、これから解呪すると言う。
会話はいっさい通じていないのに、不思議と皇帝は言っていることを察しているようだった。
父君は槍の先端を喉に突きつけたまま、忠告する。
『余計なこと、したら、喉を裂く。変な呪文、唱えたら、気づくから!』
「わかった。わかったから」
皇帝の言うことはいまいち信用ならないものの、竜公である父君と、小竜公であるブラッド様に睨まれた状態で、悪あがきをするほど愚かではないだろう。
皇帝がぶつぶつと呪文を唱えると、真っ赤な魔法陣がブラッド様と父君の前に浮かび上がり、ヒビが入って消え去った。
ブラッド様と父君は同時に倒れる。
父君は落下していったのだが、モフモフが巨大なクッションとなって地上で受け止めていた。
先に起き上がったのは、父君だった。巨大な黒竜の体を起き上がらせ、自身の体を確認する。
『わあ、戻った!! 呪い、ない!!』
続けて、ブラッド様も起き上がる。
何を思ったのか、牛の頭蓋骨は拳で割っていた。
真っ二つに割れた牛の頭蓋骨が落ちていく。
額から血をだらだら流した状態で、ブラッド様は叫んだ。
「アトウマン帝国の皇帝、ソロモン三世よ、約束しろ。今後、ワラキア公国とトランシルヴァニア公国を侵攻しない、と」
「ワラキア公国はいいとして、どうしてトランシルヴァニア公国まで?」
「エリザベルの大切な者達がいるからだ!」
ブラッド様の言葉に、胸が熱くなる。涙が零れそうになったものの、ここで泣いている場合ではない。
しっかりと、この戦いを目にしておかなくては、と思った。
「もしも約束すると言ったら、その蜘蛛の巣を解いてやろう!」
「約束しないと言ったら?」
「お前の体を、ずたずたにして、父と私で息の根を止める」
「あーはいはい。わかった、わかったから」
「きちんと約束しろ。トランシルヴァニア公国とワラキア公国を、二度と侵攻しない、させない、と」
「うわ、さりげなく〝させない〟って項目も追加された!」
「お前の卑怯なやり口は、よーく理解できたからな」
「マジャローグ王に頼んで、ワラキア公夫人と結婚させたこと、根に持っているんだー」
「うるさい!! いいから、こちらの要求はすべて呑むんだ!!」
さすがにここまで追い詰められては、皇帝もお手上げ状態となったのだろう。
二つ返事で要求を呑むこととなった。
「お前のことは信用ならないから、〝血の契約〟をさせてもらう」
それは破ったさいに命を奪う危険な契約魔法である。
ブラッド様は羊皮紙を広げ、空から降り注いでいた皇帝の血を使って魔法陣を作成した。
「これで、お前は約束を守らなければ、命を失うこととなる」
「酷いな」
「酷いものか!」
ブラッド様が蜘蛛の糸を解くと、皇帝の体はまっさかさまになって落下する。
イェニチェリ達が駆けつけ、大判の布を広げて皇帝の体を受け止めていた。
ブラッド様に向かって剣を向けるイェニチェリもいたが、皇帝が一言「やめろ」と言うと下がっていく。
ようやく、この戦いが終わったようだ。
短い時間だっただろうが、私にとっては永遠のように長く感じていたのだ。
気が抜けて、その場に座り込んでしまう。
そんな中で父君がこちらへ飛んできて、私を見つけて嬉しそうに言った。
『嫁、迎えにきた!』
モフモフが上機嫌な様子で、父君の頭の上で飛び跳ねていた。




