ワラキア公との初対面
「あ、あの、ご主人様、以前お話ししました花嫁様がいらっしゃっております。彼女が、バートリ家の――」
ワラキア公はストイカの訴えに欠片も反応を見せないどころか、歩みも止めなかった。
私のほうなど見向きもせず、通り過ぎていく。
「ご主人様、ご主人様、どうかお待ちを!!」
ストイカの叫びだけが、廊下に空しく響き渡る。
ワラキア公は母君を亡くしてからずっと、このような状態なのだろう。
まるで、魂が抜けた幽霊のようだ。
この様子を、ストイカやセラは見せたくなかったのかもしれない。
「――セラ」
「はい」
「お部屋に案内してくださる?」
にっこり微笑みかけると、セラは目を丸くし、私を見つめていた。
「どうかなさって?」
「いいえ、なんでも。こちらでございます」
セラはそれ以上何も言わず、案内を再開してくれた。
私のために用意してくれた部屋は、とにかく広かった。
一面にふかふかとした毛足の長い絨毯が敷かれており、革張りの長椅子に、大理石のテーブル、立派な暖炉など、贅が尽くされた調度品なども用意されていた。
「お隣が寝室となります」
天蓋付きの寝台は、大人が五人寝転がっても余裕があるくらいの大きなものである。
さらに専用の浴室や洗面所、衣装室に茶会室など、実家よりも充実した部屋が用意されていた。
さらに、ゾフィア専用の部屋も近くにあるようだ。
ゾフィアは私室が与えられるとは思っていなかったようで、とても喜んでいた。
セラは淡々とした様子で、説明を続ける。
「食事は日に三回、菓子や軽食はいつでもご用意できます」
セラは竜の翼が付いたベルを円卓に置く。
「こちらを鳴らしていただけたら、いつでも使用人が駆けつけますので、ご自由にご利用くださいませ」
「ええ、ありがとう」
欲しい品があれば、いつでも商人を呼んでくれるという。
外出のさいは、竜騎士団の騎士をつけてくれるらしい。
「現在、戦時中でありますので、あまりお奨めはできないのですが」
先ほどワイバーン兵の襲撃を受けたあとなので、のんきにワラキア公国を散策しよう、だなんて思えるわけがなかった。
「他、何かご質問がありましたら、なんなりとお訊ねくださいませ」
すぐに挙手し、セラに質問する。
「ここでのしきたりや、禁忌などはあるのですか?」
「何もございません。ご自由にお過ごしください」
いろいろと覚悟を決めて嫁いできたというのに、何もないなんて、拍子抜けしてしまう。
「注意すべきことなどもないのですか?」
「ええ――あ」
何かあるようで、セラの眉がピクッと動いた。
父親と同じ癖があるのだな、と思ってしまう。
「夜、ワイバーンの鳴き声がうるさいかと思いますが、必要であれば、耳栓をしてお眠りください」
「あら、そんなに酷く鳴きますの?」
セラはサッと顔を逸らし、「ええ」と頷いた。
「食事の支度が整っているのですが、ご用意してもよろしいでしょうか?」
「ありがとうございます!」
いろいろあったが、実を言えばお腹がペコペコだったのだ。
ありがたい申し出に、ゾフィアと共に喜ぶ。
「では、こちらに運んでまいりますので、しばしお待ちを」
セラはぺこりと一礼し、去って行く。
足音が聞こえなくなると、ゾフィアは「はーーーーー」、と盛大なため息を吐いた。
「エリザベル様、あの、ワラキア公の態度はなんなのですか!? エリザベル様を無視するなんて、絶対に許せません!」
「ゾフィア、落ち着いてくださいませ。ワラキア公は母君を亡くして、意気消沈されているのですから」
「しかし、お亡くなりになってから、十ヶ月も経っているのですよ!?」
「ええ……。ですが、人を失う悲しみというのは、いつまでも消えないものなのです」
私も祖父母を亡くしているのでよくわかる。
お別れしたのは子どもの頃だったが、今でも昨日のことのように悲しいのだ。
「喪失感に苛まれているのは百歩譲っても理解できます。けれども、嫁いできてくれたエリザベル様に、少しでもいいので敬意を示していただきたかったです」
「ゾフィア……」
彼女を傍に引き寄せ、抱きしめてあげる。
「エ、エリザベル様!?」
「ゾフィア、わたくしの代わりに、怒ってくれて、ありがとうございます」
「い、いえ、そんな……」
「わたくしはゾフィアがいるので、平気です。だからどうか、ご機嫌を治してくださいませ」
「う、うう……!」
ゾフィアが怒ってくれたので、私は逆に冷静でいられるのかもしれない。
感情豊かなゾフィアに、感謝したのだった。
冷静さを取り戻したゾフィアが、一言もの申す。
「エリザベル様、セラはきっと、何かを隠していますよ」
私だけでなく、ゾフィアも気づいてしまったらしい。
いったい何を隠しているというのか。
気になるものの、今は追求しないほうがいいのではないか、と思った。
ゾフィアにも変な探りを入れないように、と注意しておく。
その後、食事が運ばれてくる。
インゲンと牛肉の汁物に、ナマズの酢漬け、仔羊のパプリカ風味に牛のグリル、鮭の窯焼き――デザートには焼きたてのカッテージチーズパイがサーブされる。
そのどれもが、トランシルヴァニア公国で食べていたマジャロルサーグ王国料理であった。
私のために、わざわざ用意してくれたのだろう。
歓迎されるのは表面上だけで、実際は違うのではないか、などと思う瞬間があった。
けれども用意された料理はとてもおいしくて、心がこもっているように思える。
配膳をしてくれたセラに、感謝の気持ちを伝えた。
「セラ、お料理はどれもおいしかったです。料理人達にもお伝えください」
相変わらず、彼女はニコリともしなかったが、深々とおじぎをしてくれた。