6.悪女は侯爵様と喧嘩する
侯爵様が魔法陣についてお詳しいとわかり、私の研究にも熱が入る。
研究者ヴァイオレット・バラデュールの正体は隠しているし、お父様やアレットは魔法陣に興味なかったし、私は引きこもりだし。
面と向かって語れる相手、いなかったのよね。
せいぜい出版社の担当編集とか商人くらい?でも彼らは仕事としてやってるだけで特別魔法陣が大好きってわけじゃないから、私の語りが加速すると話をばっさりと切って帰ってしまう。
魔法陣についてよく理解して言葉をくれる人、大変に貴重。
私の中での侯爵様の好感度も爆上がりである。
「エステル様、今度は何の図案を描いていらっしゃるのですか?」
「飛行の魔法陣よ。階段を使わずに二階へポンと上がれたら便利でしょう?だから踏めばポンと浮いて上の階に着地するような物を作れないかと思ったのだけど…」
「は、はぁ…」
ノートにがりがりと必要な記号や文言のパターンを書き出し、いらないかと訂正線を引き、いややっぱりいるかもとマルをつけ、ページをめくってはまた書いてみる。
リディがそっと置いてくれたぬるい紅茶に唇を浸し、私は小さく唸った。
「こうして書けば勢い付けて飛ばすのは簡単だわ。ただ、物質ではなく人間、生物なのだから慎重にならなければならない。ほら、仮にリディを飛ばすならそう、紅茶を運んでいたとしたら、ブンッと空中へ投げられたら困るでしょう?」
「困るというか、そんな魔法陣を仕掛けるのは絶対にやめて頂きたいです。」
「えぇ、だから速度を安定して緩やかに…けれど遅過ぎず、かつ真上に飛ばすだけでは意味がないから、踊り場ないしは階段の一番上、二階廊下に辿り着くよう並行移動の文も必要になるの。それをここに詰めるためには記号のパターンを変える必要がありそうなのだけれど、こちらの記号は高度設定に不可欠でしょう?となると…」
いつの間にか部屋からリディの姿が消えている。
私は今抱えた悩みにちょうど良さそうな資料を実家に置いて来たと気付いて苦悶の声を上げた。
「えっ。侯爵様と夕食ですか?」
夜、まだまだ机に向かっていた私に天の助けが降りかかる。
クレマンは「エステル様のご都合さえ良ければ」と言いつつ、ちら、と私の手元を見る。それはインク汚れのついた手と書き散らかしたノートと溢れて床にはらはら舞い落ちるメモ書きと、どれを見たのかしら。全部?
私は目を爛々と輝かせ、椅子をガタンと鳴らして立ち上がった。
「是非!ぜひお願いします。私も侯爵様とはじっっくりお話しさせて頂きたい事があるのです!!」
「……っ!わ、わかりました。旦那様にお伝え致します」
「はい。絶っ対に、お願い致します。」
ぐっと眉に力を込めて必死さをアピールすると、クレマンは神妙な顔でごくりと喉を鳴らし、使命を負った顔で一礼して立ち去った。
一人での研究に慣れていたけど、今の私には侯爵様という魔法陣仲間がいるのだ。詰まったらちょっと意見を伺ってみればいい。
と、そこまで考えてふと真顔になった。
侯爵様に魔法陣の知識がある事はわかったけれど……ご自身で書かれるかどうかは、わからないのでは?もしかしたら魔法陣作成を嗜んでいるわけではなく、出来上がった魔法陣について造詣が深いだけかもしれない。
研究書に対する書評を読んでいると、さては知識だけで作った事はろくにないわね、って人が割といるものだ。
「……だ、だとしても。何か知見を得られるかもしれないものね。うん」
「エステル様?旦那様とお食事と伺いました。お仕度を…まぁ!ひどいインク汚れが!髪にまで飛んでいるではありませんか、一体何をなさったのです!?」
髪?はて。
もしかしたら、ペン先をインクにつけたものの書こうとした内容に疑問を覚え、ペンを持ったままこめかみに手をあてる…なんて事があったかもしれない。
素直にそう言ったらリディがものすごい顔で私を睨みつけた。よくある事ではないらしい。
生まれつき黒髪ならバレなかったのに。
「こんばんは、侯爵様。」
金髪に蜂蜜色の瞳をした侯爵様は今日も美しい。
私が挨拶すると、眉間に皺の寄ったお顔で「ああ」と深刻そうに仰った。まるで絵画から出てきたかのような美貌だけど、私としては頬を赤らめてキャアキャア言うより、美術館で「おお…」と眺めるような心持ちである。
「…まずは座るといい。君の不満は食事しながら聞こう」
私の不満とは。
聞き返したかったけれど、座るよう手振りされたのでひとまず席に着いた。運ばれてきた食事は私の分だけ少し冷ましてあるようだ。ありがたし。
カチャカチャぱくぱく食べ進めていると、不意に侯爵様と目が合った。
「………、なんれすか?」
「いや…話があると聞いたので、いつ、話すのかと。」
「!それなのですが、侯爵様は魔法陣作成に興味はおありですか?ご自身で作られた事は。」
「………、なんだって?」
もう喋ってよかったのかと目を煌めかせて問い質したが、返ってきたのは訝し気な視線と「意味がわからない」とでも言いたげな声だった。
私は用意されていた果実水をくいと飲んで一息つく。
「ですから、魔法陣作成です。ヴァイオレットやアレク様の事をご存知なのですよね?」
「知っているし、確かに俺は魔法陣作成を嗜むが――」
「やはりそうなのですね!?いや助かりました、実は今飛行魔法陣で階段を使わずに人を二階へ上げる事はできるのか?という検証をしていたのですが、階下の段階で遅効を使い初速を低減しておいた方が良いのか、初速からは一定でやはり着地時に緩衝もしくは下降遅延にすべきなのか、あるいはいっそ着地ではなく平行移動による到達を目的とすべきかで悩んでおりまして、階段前への設置を目的とした場合大きさも制限がございますから、どのようにまとめ上げるべきかどなたかのご意見を伺いたいと思っていたのです。本来なら作成途中の図案パターンをご覧頂いた上で訂正、改正案など頂ければ良かったのですが、ここに持ち込むわけにもいかず…もしよろしければ食事の後に私の部屋までお越し頂くか、あるいは応接室にノートを持っていきますのでそちらで見て頂く事などはできますでしょうか。風属性魔法陣の中でも飛行はやや難解な位置ではございますが、ヴァイオレットもアレク様もほぼ全ての属性を網羅しておりますもの。二人の研究をご存知の侯爵様であればきっと見ればご理解頂けると思うのです。是非とも忌憚なき意見を頂きたいのですが、いかがでしょうか。やはりお忙しいですか……?」
………。
切々と訴えかけたのに、衣擦れ一つないこの沈黙はどうした事か。
侯爵様はいつの間にかカトラリーを置いて腕組みをしているし、ちょっと振り返ってみるとリディが呆気にとられていて、クレマンは理解不能な生物を見る目で私を見ている。失礼な。
私はもう一度侯爵様を見た。彼は小さく息をついて私を見据え、口を開く。
「俺としては、人体への反動を考えて初速低減で始めた方が良いと思う。」
「やはりそうですか!」
「旦那様」
なぜかクレマンが窘めるような声を出した。
侯爵様がこほんと咳をしてカトラリーを手に取る。手振りで勧められ、私もハッとして食事を再開した。視線は迷わず侯爵様へ向ける。続きをどうぞお話しください。
「君は、随分険しい顔で俺に話があるのだと言っていたそうだが……リディ達の対応についてではないのか?」
後ろのほうでリディが息を呑む音が聞こえた。
私は首を傾げる。
「俺はこの席で君にそれを謝るつもりだったんだが。」
「謝罪などいりませんよ。リディ達から既に謝られていますし、第一私はまったく困っていませんでしたから。そんな事より!魔法陣の話についてはもう終わりですか?気になる事などは。」
「いや、まだあるが…」
「でしたらそちらを是非!私、侯爵様のご意見を聞くために降りてきたのですから。」
今の私にとって、魔法陣の話こそが最重要事項である。
ぐっと眉に力を入れて真剣度合いをアピールすると、侯爵様は長い睫毛をぱちぱちとして、相好を崩した。
「ふっ……そうか。わかった」
「旦那様が笑った!?」
リディ達が何やら失礼そうな反応をしているけど、そんな事より魔法陣談義だ。
私は改めて姿勢を正し、じゃがいもをぱくんと口に入れて侯爵様の話を聞く姿勢に入る。侯爵様もとうに元通りの真顔だ。
「並行移動による到達というのも良い発想だと思うが、そもそもが重力抵抗を組めないか?こればかりは君が現段階で想定している場所の構造や魔法陣の構成にもよるのだが…」
「ひとまずは別棟玄関ホールの階段で作っています。重力抵抗とは正直考えが及んでいませんでした。お恥ずかしながら私は魔法陣の構成簡略が苦手でして、重力抵抗ほどの高度なものをどう組み込めば良いのかすぐには浮かびません。」
「あの階段だと少々幅が心許ないな。上手くやらねば浮遊が階段の手すりを越え、範囲外として効果切れでの落下事故に繋がるか……重力抵抗については少し経験がある。魔法陣の下方に詰めがちだが、実際には」
「<左右あるいは上下対称に組むべきであり、その角度は他の構成要素との繋がりによって決する>――ですね!?思い出しました、アレク様の『施錠理論』!迂闊でした、属性が違うのですっかり抜けていました。」
してやられた!
……誰にだよ、って話だけど、やられたって気持ちでいっぱいだわ!私ときたら、何で思いつかなかったのだろう!『施錠理論』もまた実家に置いてきてしまった……!
「あれを読んだのか?中身が地味な上にそれなりの厚さだったはずだが。」
「地味?地味ですって、とんでもない!闇属性の施錠と言えば結界の下位互換でただの戸締りだなどという人もいますが、あの一冊を読めばどれほど夢のある魔法かが――……という事は、侯爵様もお読みに?」
アレク様の事はどれくらい好きですか?という気持ちも込めて、キラリと目を光らせて聞いてみる。
彼が考える魔法陣は私の考えるそれと違って理路整然としている。
上手く簡略化できずにちみちみ綴るばかりの私は、まるで最初からそうあるべくしてあったかのように美しく配置された構成を見て言葉も出なかった。
私とは発想力が違う。
なぜその記号を半分に削って次の文字に繋げるなんて方法をとれるのか、そんな事をしてなぜ魔法陣が崩れないのか。複数の魔法陣を使って一つの魔法を形成する事は、単純に見えてとてつもない精度が要求される。
ただくっつけて書けば良いというものではないのだ。それぞれの中にある構成の配置や大きさ、傾きなど全て加味して作らねばならない。アレク様はセンスがずば抜けている。
それでいて安全性の検証も余念がなく、本はいずれも淡々とした書き方ではあるけれど、端々に彼の優しさや心配りが感じられるのだ。
「読んだ…まぁ、読んだな。夢があると言うなら、俺はヴァイオレット女史の『守護の譜面』の方が好きだが」
「ぐッ!」
私は心臓に大ダメージを負った。
好きと言ってくれたのは嬉しいけど、よりによってそれ!?ああっ、誤字脱字の記憶が!ぐうううッ!!タイトルだって上手く乗せられて、「譜面」だなんてちょっと格好つけちゃってさ…!
守護の魔法陣といえば、アレク様が魔力筆で書き込んだ物がチャリティーオークションにかけられた事がある。
魔力筆による魔法陣は基本的に製作者のサイン入りだし、おまけにそれは女性用の一点物のペンダント……知った時は驚き過ぎて椅子ごとひっくり返った。
もちろん全力で競り落とした。
「わ…私としてはやはり、アレク様が素晴らしいですね。ヴァイオレットの本も…その、全て目を通していますが。」
「全て?ほう…」
「旦那様。張り合わないでください」
クレマンが何か言っている。
私はサラダの野菜をしゃぐしゃぐと咀嚼して飲み込んだ。侯爵様が目を細めてこちらを見ている。
「先程から気になっていたんだが、君はなぜヴァイオレット女史を呼び捨ててアレクサンドルに様を付けているんだ。」
「はい?」
「逆じゃないのか?」
「何ですって?」
私の心の中で、ぴきりと何かが反応する。
ナプキンで口を拭き、正気を問うように目を細めた。
「…侯爵様こそ、アレク様をなぜ呼び捨てなさるのです?不敬ですよ」
「不敬?はっ、ヴァイオレット女史のような気高い淑女を呼び捨てる君こそ不敬だろう。」
「気高い淑女?会った事もないのになぜわかるのですか。後書きから読み取れるアレク様の聡明さならわかりますでしょう、彼は間違いなく心優しい紳士ですよ。」
「心優しい紳士?君こそ幻想を抱くのは止めるんだな。アレクサンドルなど頭でっかちで融通の利かない冷血漢だとよく書かれているではないか。それに比べてヴァイオレット女史の描く魔法陣の美しさはどうだ。彼女の清純な心根が現れている」
「夢を見るのも大概になさいませ!ヴァイオレットの魔法陣などごっちゃりと細かいばかりで万人向けでなく、調子に乗った高慢な女だとよく書かれているでしょうに!アレク様の整然とした魔法陣こそが美しく――」
「聞き捨てならないな!高慢な女だと!?彼女はそんな人ではない!」
「こちらだって聞き捨てなりませんよ!アレク様が冷血漢などとよくも!」
互いにバンッとテーブルを叩いて立ち上がり、肩で息をして相手を睨みつける。
ヴァイオレット(私)が清純で気高い淑女なんて、一体どこをどう読んでそんな印象になったのだろうか。アレク様を悪く言うのも到底許せない。
アレク様の素晴らしさがわからないなんて、いっそ、いっそ――
「不憫だ」
「不憫ね」
………。
「「失礼な!!」」
「旦那様!」
「エステル様!」
飛び掛からんばかりの勢いで憤慨した私達は、それぞれクレマンとリディに宥められて椅子に座り直した。
そこからデザートまで黙々と食事をしていたけれど、だんだん冷静になってきた私は一つお願いごとがある事を思い出してしまった。
懸命に渋面を引っ込めて口を開く。
「……侯爵様。」
「何だ、不憫な悪女」
「く!」
「旦那様」
クレマンに窘められてツンとそっぽを向く侯爵様。子供じゃないんだから!
しかしこちらはお願いする立場。コホンと咳払いして、冷静な声を装う。
「…もし、図書室にアレク様の著書がおありならば。立ち入り許可を頂きたいのです。私のコレクショ…購入した分は、実家に置いておりますので。参考資料が充実しておらず…」
「貴女は本当に悪女らしくないな。」
えっ。
吐き捨てるように言われて愕然とする。まさか離縁される?離縁&焼却コースなの?私がついヴァイオレットを貶してしまったが故に?そんな馬鹿な。
サッと青ざめたけど、侯爵様がため息混じりに力を抜いたので何かが許された気がして、ほっとする。
「いいだろう、本館図書室への立ち入りを許可する。」
「あ、ありがとうございます。ただ私、悪女ですから。それはお忘れなく」
念を押すようにジッと見つめて言うと、ちらりと視線をこちらにやった侯爵様はカトラリーを置いて立ち上がった。
「言っておくが」
「はい?」
「使用人に敬語を使う時点で、君は悪女っぽくはないぞ。」
「………。」
目を見開いてぽかんとする私を置いて、侯爵様はさっさと出ていって。
私がゆっくりと後方のリディへ視線を移すと、しっかり頷かれたのだった。
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図書室に入ってよいと許可を頂いたけれど、侯爵様と口論になってしまった。
アレク様を悪しざまに言われてはとても落ち着けなく…
幻想だのと言われたけれど、侯爵様こそヴァイオレットに夢を見過ぎだと思う。
もう少し現実を生きた方がいい。
悪女について
・使用人に敬語を使ったりしない。 ※これから気を付けること。