5.仲間を見つけた悪女
シャッ、とカーテンが開かれる音がする。
一度でなく何度か。その間に「奥様」「朝です」と女性の声。
う~ん、奥様、早く起きてあげて。でないと私が寝れないわ……
「エステル様っ!」
「うぁい!」
近くで声がして思いきり身体が跳ねた。
急いで起き上がって辺りを見回すと、すっかり明るくなった部屋で困り顔のリディが私を見ている。
「朝でございます。」
「……はい、朝ですね……?ど、どうしたのですか、朝から…」
もしや侯爵様の呼び出しかと考えつつ、目をこする。
リディは任務遂行に燃える目をしていた。
「昨夜、朝の身支度をお手伝いさせて頂きますと申しました。」
「ああ…そうでしたね。」
寝起きでぼやけていた思考がはっきりしてくる。
リディは昨日、何やら謝っていたのだ。
『噂に惑わされ先入観に囚われていました。自ら悪女を名乗るほどお気を悪くさせ、男娼を呼んだなどという嘘までつかせてしまって…』
『えっと……私は本当に悪女で、』
『旦那様は初めから見抜いておられたのでしょう。主がお決めになられた事を疑うべきではありませんでした』
『それはそれで大事なことかと…』
『ともかく、明日より朝の身支度をお手伝いさせて頂きます。』
いらないです。
とも言えずにやんわり遠慮すると、「これまでの行い、深く反省しております」と床に頭を擦り付けそうなほど謝り始めるので、許可するしか無かった。
おかしい。私は悪女としてリディに親切にしてもらっていたはずなのに。状況が読めない。
私付きだった侍女が妹付きに変わって何年経っただろう?
朝から身支度を手伝われるなんて随分と久し振りだ。顔を洗って口をすすぎ、柔らかいタオルで拭く。
「温かいお食事をお持ちしますね。」
「あ、あの。身支度はともかく、食事はこれまで通りが良いのですが……適温にしてくださっていたではありませんか。」
「…適温、ですか?」
リディが唖然と聞き返してきたので、私は必死で猫舌なのだと説明する。
どうも、侯爵様に相応しい人でなければ追い出そうというつもりで、あまり部屋に来なかったり、食事を置き去りにして冷やしたり、湯殿に水を張ったり……リディ曰く、【嫌がらせ】をしていたそうだ。
「そうだったのですか?実家とそう変わらない生活で落ち着けていたのですが。」
「……奥様はどのような生活を送られていたのですか?」
「普通ですよ。部屋にこもって研究をし、お腹が空いたら廊下を見るとご飯があるのです。家族と時間が合わないので、湯浴みも私が行く時は大体冷めていますから、加熱の魔法陣はよく使います。」
だから、リディが水を張っていた事に気付いてすらいなかった。
お湯を張ってくれたのに私が放置して冷ましたと思ったのだ。
「…私の悪事は、奥様にはちっとも響いていなかったのですね。」
拍子抜けしたような顔で呟き、リディはハッとして「だからと言って許されるものでは」と言い始める。そろそろやめていただきたい。
「リディ。【稀代の悪女】である私にとって、その程度は些事なのですよ。貴女が自省して改善を誓ったなら、もうそれで良いではありませんか。」
「奥様……」
「あと、その奥様って何なのでしょう?」
胸の前で両手を組み、なんだかキラキラした目で私を見るリディに聞いてみた。
起きてからずーっと気になっていたのだ。
「旦那様とご結婚されたのですから、エステル様は私どもにとって【奥様】ですよ。」
「……なるほど、そうなりますか。」
「そうなりますよ?」
まったく自覚がなかった。
離縁されちゃダメ、はよくよくわかっていたので、この家から追い出されないよう「侯爵様が求める悪女」を研究する気ではいたけれど。
一応正式な夫婦である以上は、リディ達にとって私は「雇い主の妻」というわけだ。
つま…妻ねぇ。
書類上はそうなのだろうけど、初対面で結婚したし、昨日はフルネームで呼び捨てられたし、エスコートどころか「これからよろしく」の握手なんかもなかった。
これらを踏まえると、侯爵様は悪女好きと言っても「妻として愛でたい」わけではなく、「妻の位置に悪女を飾っておきたい」とか?
対象が人間なのがすごく微妙だけど、大事な物を飾りたい気持ちはまぁ、わかる。私もアレク様直筆の魔法陣は使うよりも飾りたい。
実家は価値がわからない人しかいないので、銀行の貸金庫に預けるほかなかったけど。本当は許されるなら自室に飾りたい。
「奥様、お化粧はどうしましょう。素材が良いですから、薄化粧に留めるくらいがもっとも映えると思うのですが。」
「ああ…侯爵様が好みじゃないと仰いましたから言えますが、私べとべとは苦手なのです。化粧はあまりしない方向でお願いします。」
「承知しました、薄く乗せる程度に。」
違う。
私は「たまにしか化粧しない」の意味で言ったのだ。
しかし「美しく仕上げます」と目をギラギラさせているリディを宥めるのも大変そう…。
あの夜会の前に妹の侍女が待ち構えていた時と同じく、私はポイとさじを投げた。お任せで!
しかし誰に化粧を披露するでもなく、当然のように午前中と昼食後の数時間を魔法陣研究に捧げる。
夕食までそれを続けるつもりだったのだが、リディに「籠りっぱなしはお身体に悪いです」と叱られ、渋々庭へと繰り出した。
「あら?もっと鬱蒼としていた気がしますが、手を入れ始めたのですね。」
雑草が伸び放題だったように思うけど、きちんと刈り取られて隅に寄せられている。
これから花壇を整えていくのだろう。リディが苦い顔で教えてくれた事には、使用人達は大体が「悪女を妻に」という決定を不安に思っており、皆あちこちでちょっとずつ手を抜いていたらしい。
だから本来なら終わっている作業がまだまだ終わっていないのだとか。
「そもそもが急な婚姻でしたし、私にそう気を遣って頂く事はないのですが。」
「何をおっしゃいますか。ひとまずはジャンが手を入れておりますが、奥様の好きな花があればどんどんご要望をくださいね。」
「ああ、ジャンが来ているのですね。どこでしょう。挨拶を…」
「奥様ぁっ!」
探そうと辺りを見回した時、後ろから野太い悲鳴が聞こえた。
振り返ると、ジャンが手にしていた道具を放り出して駆けてくる。なんだか顔色が悪い?私は微笑んで挨拶した。
「こんにちは、ジャン。」
「ここここんにちは、お、俺、あの!奥様とも知らず大変な失礼を働き…!や、野菜を運べとか、本当にすみませんでした!」
日除けの帽子を胸に抱え潰し、ジャンが腰を九十度に折って頭を下げる。
私は努めて明るく笑って「大丈夫ですよ」と声をかけた。ジャンはおそるおそるといった体で私を見る。
「お陰で皆様が私をどのような悪女だと思っているかわかりましたし、私のような悪女はダンショーと付き合いがあるものだとも教えてくれました。私、ジャンには感謝しているのですよ。」
「………心よりお詫び申し上げます……。」
なぜだろう。ジャンの顔色が青から白へ変わっていく。
「えっと…具合が悪いなら、無理をせず今日はもう仕事を終えられたらいかがでしょう?」
「はい…奥様に顔を見せないよう、配置換えを申し出ておきます……」
「な、なぜです?」
話についていけなくて聞き返すと、ジャンもまた困惑の顔をした。私達を交互に見て、リディが「恐れながら」と小さく手を上げる。
「奥様。今の会話ですと、「よくも男娼と付き合いのある悪女だなどと言ってくれましたね、どうもありがとう。顔も見たくないのでさっさと下がりなさい。」……という風にも聞こえますよ。」
ひどい曲解だ。
私はジャンの大きな手を取り、ぎゅっと握手した。
「ジャン、私は貴方が気さくに親切に接してくださって嬉しかったのです。途中で、私がその悪女だと気付いていないのだろうな、とは思ったのですが、訂正せずに去ってしまってすみませんでしたね。」
「め、滅相もない!旦那様の奥方にとんでもない無礼を…」
「リディも貴方も随分と謝りますが、私は本当に怒ってもいなければ傷ついてもいないのですよ。庭を整えてくださるのでしょう?どうも引きこもるのは許してもらえなさそうですから、綺麗な庭を見る事を楽しみにしていますからね。」
「奥様…っ!必ず立派な庭を作り上げてみせます!」
ようやく笑顔を見せたジャンは力強い声で宣言してくれ、私は頷いて手を離す。
リディが眉を顰めて「奥様、手が」と呟いた。握手によって土汚れが移ったらしい。ジャンが「あっ」と焦った声を出した。
「大丈夫ですよ、リディ。ついでに土遊びでも致しましょう。」
「つ、土遊びですか?」
刈り取った雑草の束の横に、間引いた枝が重ねられている。
私は程よい太さと長さのある枝を手に取ると、地面をなぞって五十センチほどの円を描いた。ペンじゃないし距離がある分、線がブレたり歪んでしまうけど、遊び程度なら構わない。
土属性の印と魔法の内容を指定する文言をさらさらと書き込み、ほんの一分足らずで魔法陣を完成させる。「できました」と言って、枝伝いに魔力を流し込んだ。
「永き土の抱擁を」
魔法陣が淡く光り、その外縁から隆起した土が三十センチほどの高さでくっついて一つの形をとった。雑に描いた分、表面がちょっとぼこぼこしているしお顔はないけれど、一応はお座りしたネコの姿とわかる出来だ。
「どうですか、ネコです!」
「「………。」」
あれ?
予定では「可愛いですね!」とか、「魔法陣を隠す工夫がされていますね!」とか……あわよくば、「成型に関する記述はアレクサンドル様の『土属性魔法陣の建築応用に関する検証』を元にされていましたよね?実は知り合いですので今度紹介を」とか……反応が……。
ぽかんと口を開けて土オブジェを見ている二人を見つめ、私はじっと誉め言葉を待った。
二人の視線がつ、つ、つ、と動いて顔を見合わせている。いじけたくなったので私は枝でネコの目を描いた。
「何をしているんだ、お前達は。」
呆れ声がして振り返ると、騎士服に身を包んだ侯爵様がこちらへ歩いてくる。仕事が早めに終わったのだろうか。リディとジャンがようやく「旦那様」とだけ声を発した。
侯爵様の瞳が土オブジェと、私が手にしている枝とを見る。
「…もしや君が作ったのか?」
「はい。どう思われますか」
リディ達ときたら何も言ってくれなかったのだ。
ちょっと不服に思って眉間に力が入る。侯爵様は「ふむ」と顎に軽く手をあて、ネコを見下ろした。
「枝で描いたにしては見事な成型だ。魔法陣を内側に隠して整えるあたり、予想以上に君はよく学んでいる人なのだと思った。」
「わかって頂けますか!」
「ああ、正直言って見直した。壊して内部の魔法陣を見てみたいくらいだ」
「どうぞどうぞ!」
拗ねていた気持ちがあっという間に吹き飛んで心が明るくなる。
わかってくださる方がいるとはなんと幸せな事か。
「いいのか。」
「はい!私、この中では侯爵様が一番好きですっ!」
剣を抜いた侯爵様が一瞬動きを止め、すぐ動いてさっくりとネコを切り捨てた。
中が空洞なので、横へ落ちたネコはくしゃりと土くれになる。私はスカートを膝裏に折って屈み、いそいそと魔法陣の上に落ちた土の欠片をどかした。侯爵様も剣を納めて咳払いし、屈んで魔法陣を覗き込む。
「……よく整理されているな。強度はないが手遊びにはちょうどいい」
「ええ、ええ。本来は成型部分に関してもっと長い記述が必要になると思うのですが、侯爵様はアレク様をご存知ですか?あの方の検証論文を参考にしまして、ここをググッと縮めているのですよ。」
「…アレクサンドル・ラコストの事か?」
「やはりご存知でしたか!実は…」
「奥様、旦那様。」
鼻息荒く語り始めた私だったが、なんとしても割り込むと言わんばかりの声色に、侯爵様と揃ってリディを見上げた。
難しい顔で小さく挙手している。
「仲がよろしいのは大変結構ですが、後になさいませ。部下の方が困っておられます」
侯爵様が歩いてきた方を見ると、困り顔の騎士が五、六人ほど遠巻きに立っていた。
大丈夫ですと言わんばかりに焦った様子で手を振る人、侯爵様に向けて書類をトントンと叩いて見せる人、黙ってにやにやしている人など様々だ。
私はやむなく侯爵様を部下の人に返した。
今度絶対に魔法陣談義をしましょうね……。
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素晴らしい!
侯爵様は私が手遊びに描いた土壁の魔法陣をよく理解してくださった。
ヴァイオレットを知っているならきっと、と思っていたが、
アレク様の事もご存知だった。今度よくよく語り合いたい。
よき魔法陣好き仲間のためにも、悪女を頑張ろう。
リディとの間に諸々誤解があったようで、食事は適温を約束してもらった。
ジャンは私が噂の悪女と知ったらしく真っ青になっていた。
離縁されないようにと考えれば、リディから奥様と呼ばれ始めたのは
前進なのかもしれないが……なぜか悪女だと認めてもらえなくなった。
二人は魔法陣に興味がなさそうだ。