4.妻にした悪女の様子がおかしい(ジェラルド視点)
さっさと妻を迎えろという内外の声がうるさく、手っ取り早く書類上の妻が一人いればよかった。いずれ親戚筋から養子をとるまでの繋ぎだ。
妻という存在に愛を囁く気など毛ほどもなければ、婚約式だ結婚式だと手間をかけるつもりもない。
一般的な扱いをしないからこそ、【稀代の悪女】なら世間も「妻を大事にしろ」とは言わないであろう、と考えたのだ。
そこに男がいれば色目を使い、宝石をねだり、身体を捧げる事も厭わないという女。
愛人を共有する男同士の下世話な会話すらあちこちで聞こえるような、どれだけ妻として軽んじても罪悪感など抱かないような、女。
悪評のひどい娘には縁談が無く困っていたのだと、オブラン子爵は喜んで次の夜会での面会を承諾した。
「悪女エステル・オブラン。俺と結婚しろ」
現れたのは、茶髪に艶出しのオイルをぬりたくってまとめ上げ、首から胸元ギリギリまでを曝け出した痴女だった。
わざと小さいドレスを着ているのか明らかに胸が強調され、むせかえるようなキツイ香水の匂いをまとい、何をしていたか知りたくもないが、厚化粧がよれるほど汗をかき、息を乱している。
そんな女が目の前にいる事はひどく耐えがたかったが、幸いにも俺を見る緑色の瞳だけは好色さが滲んでいなかった。父親である子爵から、何か冷静になるような事でも聞かせられたのだろう。
「エステル様が別棟に入られました。」
翌日の夜。
他に報告はあるかとクレマンに聞いた直後、そう返されるまですっかり忘れていた。
俺は昨日悪女と結婚して、その悪女が今日もう来ているのだった。ため息を吐いて「聞こう」と机の上で手を組む。
「まず服装は普通でしたが、馬車はエスコート無しで駆け下りられました。」
一人で?
男好きなら「誰か手を」とでも言うのではないのか。
「婚姻は済んでおりますがエステル・オブランと名乗られ、我々には終始敬語、荷運びの者達に礼を言っておりました。」
「……来たのは、茶髪に緑の目で、厚化粧の女で間違いないか?」
「はい。香水も中々のものでございました。」
「続けろ。」
俺とは会えないとクレマンが言えば、彼女は「互いに気楽でいい」と言ったそうだ。案内された中程度の客室に「随分と良い部屋ですね」と嫌味を言うくらいはしたらしいが。
「いつ会えるか、結婚式はどうするか、などについて聞かれる事もなく。悪女だから結婚したと再確認し、夜会は不参加と聞いて「結構なことですね」と笑っておられました。鏡台のない部屋を見回し、「これほどの厚遇を頂いているのだから不満はない」、と。」
その程度の嫌味で済んだならマシだろう。
こちらはもっと騒がれる事も想定していたのだ。男や金に奔放でも、気性が荒いというわけではないらしい。
だが、初日くらい幾らでも猫をかぶれるだろう。
「妙な事をしないよう、別棟を見張らせておけ。」
悪女は姿を消した。
一瞬、クレマンの言った意味がわからなかった。
「いなくなった?どういう事だ」
「別棟内には間違いなくいらっしゃいません。荷物は置いていかれたままでしたので、周囲を捜索中です。本館に入っているはずはないので。」
「当たり前だ。別棟から入る時は悪意ある者が弾かれる」
朝、悪女の部屋の窓から謎の美人が顔を出したらしい。
事情を聞くためにクレマンがリディと共に訪れたが反応がなく、鍵を開けると誰もいなかったそうだ。
目撃された人物は桶の水を捨てていたというから、身の回りの世話もさせられているのだろう。遠い上に肩から上しか見えず、男とも女とも断定できなかったようだが、稀代の悪女が好き好んで女を連れ込むだろうか。
嫁いですぐに男娼を引き入れたのだと、侍女頭のイレーヌが憤慨しているらしい。
明らかな面倒事につい、深くため息を吐いた。
「どうせ敷地外には出られまい、と言いたいところだが…」
「如何にして人を連れ込んだかは問題ですね。」
「夜までに見つけ出せ」
「承知致しました。」
門外から侵入者があれば、俺はすぐに察知できるはずだ。
人を連れ込んだというのは何かの間違いか、使用人の誰かが早くも籠絡されて共犯となったか……
「だから、新人とは何の話なのです!」
「可愛い子が来てたじゃないか。エステルっていう…」
「それはあの悪女の名前でしょう?」
「え?名前が一緒なのか?」
「何の騒ぎだ。」
使用人達が集まって言い合う中に割り込むと、一斉に「旦那様」と困り顔を向けてきた。
話を聞くと、新人の侍女らしき娘がエステルと名乗ったらしい。大人しい風貌で、ジャンが野菜を運ぶよう頼んでも嫌な顔ひとつしなかったと。
新人を雇う予定などない。俺とクレマンは顔を見合わせた。
「ジャン、貴方あの悪女に化かされたのではないの。」
「そんなわけあるか!あの子、俺に男娼って何ですかって聞いてきたんだぞ。」
「騙されてるじゃない!」
「旦那様、エステル様がいらっしゃいました!!」
今度はリディが駆け込んできた。
怒りが収まらぬといった風に顔を真っ赤にして拳を震わせている。
「どこにいた?」
「部屋に戻られています!旦那様、あの方は男娼を呼んだと認めましたよ!おまけに本館の見取り図がほしいなどと、よくもぬけぬけと……!」
「まあああ!だからわたくしはあれ程っ!お止めしたのですよ!旦那様、聞いておられますか!?すぐにでも離縁なさいませ!!」
使用人達がどんどんヒートアップしていく。
面倒この上ない。
この夜は各自からの聞き取りと情報の整理で終わった。
俺は避けられない事態だとよく理解し、クレマンに明日エステルに会うと言ったのだった。
「旦那様、心の準備をなさってください。」
別棟の応接室で待っていた俺に、クレマンはそう声をかけた。
呼び出しに時間がかかっていた事もあり、元々持っていた警戒心がさらに強まる。
さて、噂の悪女はどう来るか。
「エステル様でございます。」
クレマンが開いた扉から、すぐには誰も入ってこなかった。
瞬くと、壁からひょこりと見知らぬ娘が顔を出す。
日焼けのない白い肌に、薄紅色の唇が花弁を添えたように配置されていた。
怯えるでもなくじっと俺を見つめる緑の瞳は、余計な化粧がない分、真摯なものに見える。描き足されていない細い眉と合わされば、頭の弱い馬鹿ではなく聡明さのある女性だと感じられた。
さらりと、癖のない茶髪が揺れる。
この女は誰だ。
エステルだと告げたクレマンの声を思い出し、あまりの不可解さに顔を顰める。
そんな反応をしたためか、彼女はぱちぱちと瞬いて引っ込んだ。
「クレマン。大変お怒りのようだから、やはりこの姿は見せない方が良かったと思います。」
「失礼ながら、お怒りなのではなく驚いておられます。お入りください。」
「はい……」
渋々諦めたような声で呟き、エステルは俺の正面に立って礼をした。きちんと襟のある長袖のデイドレスだ。使い古されているようだし、金遣いの荒い悪女にしてはひどい安物と言える。
「こんにちは、侯爵様。お好みに合わせられておらず、このような姿で失礼致します。」
「好み?……とりあえず、座れ。」
「はい。」
エステルは大人しくソファに座ると、俺とクレマンを交互に見た。
何の話だろうか、と言わんばかりのきょとりとした顔だ。
……どれだけ見ても、「悪女」のレッテルを張りづらい見た目をしている。これがイレーヌの言っていた「化かされている」「騙されている」なのか。
とりあえずクレマンには「心の準備を、の一言で済まないだろう」と文句を言っておいた。
「男娼を呼んだというのは本当か?」
「ええ、悪女ですから。ダンショーくらい呼びますよ」
こちらが脱力しそうなほどあっけらかんと返された。何の恥じらいもなければ、思わせぶりに色目で見てくるわけでもない。どういうつもりだ。
「どうやって?屋敷は勝手な出入りがないよう見張られている。」
「魔法を使えばいいではありませんか。」
簡単に言ってくれるが、あれは魔力をだいぶ食う。身を売るくらい魔力のない男では使えないだろう。
指摘すると、エステルは僅かに首を傾げた。
「起動魔力の少なさは魔法陣への書き込みで補えますでしょう。あらかじめ渡しておいたのです」
「随分と信憑性が低くなってきたな。そんな魔法陣がオブラン子爵家の資産で買えるものか」
「なぜわざわざ買うのです?自分で作れば良いではありませんか。」
「……何だと?」
「私が布に魔法陣を書き、贈ったのですよ。それなら連れて来られるでしょう。」
話にならない。
稀代の悪女とまで言われた女にそんな器用な真似ができてたまるか。
ならば幾つ魔法陣が必要か言ってみろと言えば、一つだなどとほざいた。
どれだけでかいものになるかわかっているのだろうか。知ったかぶりも程々にするといい。
「五メートルくらいのか?現実的ではない。」
「そんなにいらないでしょう、細かく書けば二メートルかそこらの…」
「君は魔法陣作成を軽く見ている。そんな事ができるのはヴァイオレット・バラデュール女史くらいだ」
専門家の名など知らないのだろう、案の定エステルは黙った。
それでいい。ヴァイオレットなど目では無いとでも言われたら流石に許せないところだ。
俺は彼女の繊細さと芸術性を尊敬している。
記号や文言の配置が計算され尽くしたように美しく、魔法陣それ自体が一枚の絵画のようであるのだ。
コレクションルームには彼女が論文のために作成した魔法陣の原本を幾らか集めている。いずれも高額だが、俺に買えない額では無い。
つい口元が笑った事を自覚しつつ、すっかり口を閉ざしたエステルを見下ろした。
「黙ったな。初夜に俺が行かなかった事で何かムキになっているのだろうが――」
男娼が相手をしたなど、つまらない嘘をつくのはやめる事だ。
そう続けようとした俺に、エステルは緑の瞳を丸くして聞き返した。
「しょや、ですか?」
まるでろくに関わらない分野の単語を聞いたような顔だ。
記憶を探るように困り顔で、エステルは視線を空中へ飛ばす。
「えっと……しょや、しょや…ああ、結婚した最初の夜をそう言うのでしたか。三日前は子爵家の自室で支度も忙しかったですし、侯爵様がいらっしゃるかもなんて考えもしませんよ。」
「……君が男娼を呼んだという、一昨日の夜の話をしてる。」
「え?あの日は侯爵様が来る可能性があったのですか?」
「無い。」
「そうですよね。それで、悪女の私がダンショーを呼んで、何が悪いのです?」
仮にも夫の前でまったく悪びれていない。
いっそ清々しいくらいだが、何を考えているのか。
俺とクレマンが揃って眉を顰めると、エステルも眉をキュッと寄せた。わけのわからない事を言うな、という顔をするな。
「君は屋敷の警備を搔い潜り、家長の許しもなくよそ者を引き入れた事になる。」
「ああ、つまりはそこだけが問題なのですね。」
「だけではないが…とにかく、門外からの侵入者検知に引っかかっていない以上、君が男娼を呼んだというのは嘘だ。」
「……わかりました、認めましょう。」
ようやくか。くだらない事に随分と時間をかけてしまった。
「なぜそんな嘘を?」
「私が誰かを連れ込んだと大騒ぎだ、と聞いたものですから。ダンショーと答えておけば、別に普通の事でしょう?私、悪女ですから。無用な混乱を避けられると思ったのですが。」
「無用な混乱だらけだ。君を悪女と聞いて婚姻を申し込んだのはこちらだが、男娼や宝石を買い漁るような金を渡すつもりはさらさらない。」
「自費で、という事ですね。わかりました」
……「わかりました」?
そこは、仮にも夫なら妻の宝飾品ぐらい用意しろと言うところではないのか。この女はもしや、着る服によって人格が変わるのか?そんな馬鹿な。
「ダンショーや宝石を買う時は、リディに言って商人を呼べば良いのですか?街へ買いに行っても?」
首を傾げてそう尋ねるエステルに何と返すべきかわからず、俺はこめかみに手をあてて俯いた。
侍女に言って商人を呼んで男娼を買う?
どのような流れで男娼を買えば良いかと夫に相談する妻がどこにいる。
何だ、この生物は。
「………、クレマン。何とかしろ。」
「お言葉ですが、ご自分で選ばれた奥様ですよ。」
使用人一同反対しておりましたが、という裏の声が聞こえてくる。
お前達もこれが来ると思っていなかったくせに。
「私の好きにして良いなら街へ出かけます。本屋…いえ、ダンショーと宝石を買いますから。ええ、私悪女なので。」
悪女はまるで真面目な話をするように小さく頷きながら語っている。
遠い目でそれを眺めていると、ふとジャンの言葉が頭を過ぎった。
『あの子、俺に男娼って何ですかって聞いてきたんだぞ。』
まさか……知ったかぶり?いや、そんな事があるか?
エステル・オブランの醜聞は数年モノで、父親は堂々と「悪女のお前を迎えてくださるんだ、礼を言いなさい」などと言っていたではないか。
「そうだわ、化粧品も買わないと。赤い口紅とか、あの顔にべとべとするやつを。」
「べとべと」
「侯爵様のお好みですものね。大丈夫です、私悪女ですから。頭が痛くなる髪型も習得してみせます。重ね重ね、今日は見苦しい姿ですみません。」
わけのわからない事で謝られた。
丁寧に頭を下げたエステルを呆然と眺める。あのけばけばしい厚化粧が俺の好みだと言ったか、今?
「………、クレマン。何とかしろ。」
「お言葉ですが、ご自分が選ばれた奥様ですよ。」
「二人とも疲れているのですか?先程も同じやり取りをしていましたよ。」
「ああ、もういい。エステル・オブラン!」
「はい。」
「屋敷を勝手に出ること、転移系魔法陣の勝手な使用を禁じる。買い物があれば全てクレマンに申し伝えろ。……それと、初対面の時のような格好は、俺の好みではない。」
「へっ!?」
素っ頓狂な声を出され、あまりに心外過ぎて顔が引きつった。
どうしてそこまで愕然とした顔ができる?ろくに接していなかったとはいえ、俺を何だと思っているんだ。
「ではなぜ私は、あのような苦行を受けさせられたのか…」
苦行。
そこまで言うならなぜあの格好を…いや、待てよ。
「…あれは君の普段の格好ではなかったのか?」
「普段はコレですね。」
「……なら、それで過ごせばいい。」
「よろしいのですか?ありがとうございます。」
エステルは安心したように笑った。
本人は不本意ながらあの格好をしていたのか?どうなっている。もう少しオブラン子爵家について調べておくべきだったか。あまりにエステルの悪評が有名なので、確定事項として扱っていたが…
考え込む俺の前で、悪女エステルが語り出す。
「こちらに来てまだ日も浅いですが……気付けば廊下に置かれている冷たいお食事、起床にも干渉せずにいてくれる侍女、湯殿の彫像裏に彫られた美しい加熱魔法陣……はぁ、なんとも楽しく過ごさせて頂いております。」
妙にうっとりとした顔でため息をついている。
使用人達が「本当に悪女が嫁いで来たら追い出した方が良いのでは」と話していたのは知っているが、まさか実行していたのか。
こいつは嫌味を言っているのか本気で楽しいと言っているのかどちらなんだ。
「…侍女を代えよう」
「え?差し支えなければリディにお願いしたいです。彼女はよくやってくれていますよ」
「そうか……クレマン。後でリディを連れてこい」
「…承知致しました。」