3.私、悪女ですから。
「エステル様。旦那様がお呼びですので支度をお願い致します。」
昨日と同じく冷たい朝食を嬉々として食んでいると、クレマンのこれまた冷たい声が扉の外で響いた。はて、侯爵様に呼ばれるような用事があっただろうか。
私は咀嚼していたものをごくりと飲み込んで口を開く。
「何かお気遣いであれば、侯爵様のお時間を頂くような事はありませんとお伝えください。」
「よくご存知かと思いますが、旦那様の貴重なお時間を割かねばならない事態が、貴女にまつわる事で発生しているのです。ご説明頂くため、応接室へ来て頂きます。」
クレマンの声が低くなった。
お越しください、ではなく来て頂きます、ね。避けられないようだ。
「リディに頼んだ本館の見取り図は、まだこちらに届いていないのですが。」
「当然、この別棟内の応接室でございます。」
それなら場所はわかると思いつつ、説明とは何ぞや、と考える。
ダンショーを連れ込んだ、という悪女ポイントの詳細が聞きたいのだろうか。それはとても困る。私はまだダンショーの意味もわかっていないし、化粧品も調達できていなければ、あの髪型について研究する事も放置している。
「ですが、クレマン。今の私は侯爵様にお見せできる姿ではないのですよ。」
「…相応しく身支度を整えていらしてください。お連れの方もです。」
「それが難しいと言っているのです。連れは今いませんし、扉越しが駄目であれば、せめて私の見た目がどうあれいきなりの離縁にはなさらないよう、事前の約束をお願い致します。」
「本日の離縁は無いかと。」
「そうですか。後は、先に辞書を読みたいのですが。」
「はい?」
なんとも言えない沈黙が漂った。
できれば先にダンショーを辞書で引きたかったのだけど。私は諦めて「もういいです」と言い、野菜の切れ端が浮かんだスープを喉へ流した。これはジャンが作っていた野菜なのだろうか。
「別棟は警備の者が囲んでおりますので、ご安心していらしてください。」
「そうですか。」
確かに、今朝水を捨てる時は三人ぐらいがポカンとこちらを見上げていた。
彼らが警備の人なのだろう。
そういえば、昨日私に会った人は私が悪女だと気付いていなかったから、今朝の人達が「女を連れ込んでいる」って騒いだのかな?
それなら、クレマンが「お連れの方」と言うのも納得だ。
クレマン自身が見たわけではないから、まさか目撃されたのが私だと思わなかったのだろう。
色々と諦めて扉を開けると、しかめっ面をしていたクレマンが私を見て目を見開いた。
「あら、待っていたのですか?この中ならば見取り図がありますし、一人でも平気なのですが。」
「…エステル、様……」
クレマンは呆然として私を頭からつま先まで眺めている。
やはりこれでは悪女失格の見た目なのだろう。憂鬱だけど、早いうちにアレット好みの髪型と化粧を用意しなければ。
「だから、今は見せられる姿ではないと言ったではありませんか。」
私は深々とため息をつき、クレマンを待たずに歩き出した。
後ろから慌てた足音が追ってくる。
「警備の方達が、私が悪女のエステルだと気付かなかったのでしょう?だから、連れはいないのですよ。」
「だ、男娼をお呼びになったというのは。」
「え?…ええ、それは昨日の話。今日は呼んでいませんよ。」
「……庭師のジャンの手伝いをされましたか?」
「そうですね、少し。噂の悪女について、皆さんから大変興味深いお話を聞けました。」
「………。」
なぜか青ざめて黙り込んだクレマンがスピードを速めて私の前を歩き、応接室につくと自分だけ扉の中へ滑りこみ、何やら伝えた後でようやく、扉を広く開けて誘導してくれた。
「エステル様でございます。」
そんな堂々と紹介されても、私は今、侯爵様好みの外見を作れてないのだけど。プレッシャーを与えるのはやめて頂きたい。
壁からひょこりと顔を覗かせて部屋の中を見た。
ソファに座った金髪の美丈夫――蜂蜜色の瞳をした侯爵様と目が合い、無表情だったその美貌がビシリと固まる。
みるみる内に眉間に皺が寄ったのを見て、私はぱちぱちと瞬いてから引っ込んだ。
「クレマン。大変お怒りのようだから、やはりこの姿は見せない方が良かったと思います。」
「失礼ながら、お怒りなのではなく驚いておられます。お入りください。」
「はい……」
渋々部屋に入って侯爵様の向かいに行き、スカートの裾を摘まんで礼をした。
「こんにちは、侯爵様。お好みに合わせられておらず、このような姿で失礼致します。」
「好み?……とりあえず、座れ。」
「はい。」
私もソファに座り、正面の侯爵様と、横に立つクレマンとを交互に見る。
侯爵様は目を細めて私を観察し、クレマンに「心の準備を、の一言で済まないだろう」と文句っぽい声色で言っていた。
心の準備をしてなお落胆する外見だったらしい。華が無くて悪うございましたね。
「男娼を呼んだというのは本当か?」
「ええ、悪女ですから。ダンショーくらい呼びますよ」
「どうやって?屋敷は勝手な出入りがないよう見張られている。」
「魔法を使えばいいではありませんか。」
「……君が言っているのは定点移動の魔法陣か?それ程の魔力を持つ男娼などいないぞ」
ダンショーとは、あまり魔力のない人である。
また悪女知識が増えた。
「起動魔力の少なさは魔法陣への書き込みで補えますでしょう。あらかじめ渡しておいたのです」
「随分と信憑性が低くなってきたな。そんな魔法陣がオブラン子爵家の資産で買えるものか」
「なぜわざわざ買うのです?自分で作れば良いではありませんか。」
「……何だと?」
「私が布に魔法陣を書き、贈ったのですよ。それなら連れて来られるでしょう。」
たぶん、人一人よね。
大きな円にぎっちりと書き込めば、魔力の少ない人でも一発は起動させられると思う。帰りは私の魔力で起動した事にすればいい。
「馬鹿な事を。知識もない者が魔法を語るものではない。幾つの魔法陣が必要か言ってみろ」
「一つです。」
「五メートルくらいのか?現実的ではない。」
「そんなにいらないでしょう、細かく書けば二メートルかそこらの…」
「君は魔法陣作成を軽く見ている。そんな事ができるのはヴァイオレット・バラデュール女史くらいだ」
「………。」
それは私のペンネームだ。
上位貴族からの圧力がかかったり誘拐されたりという事のないように、研究者は正体を隠すのが基本である。侯爵様はフンと鼻を鳴らして口元を歪めた。恐らく笑っている。
「黙ったな。初夜に俺が行かなかった事で何かムキになっているのだろうが――」
「しょや、ですか?」
また馴染みのない単語が出てきて、私は瞬いた。
聞き覚えはある気がする。なんだったか。魔法陣研究にまったく役立たない気配だけは感じる。
「えっと……しょや、しょや…ああ、結婚した最初の夜をそう言うのでしたか。三日前は子爵家の自室で支度も忙しかったですし、侯爵様がいらっしゃるかもなんて考えもしませんよ。」
「……君が男娼を呼んだという、一昨日の夜の話をしてる。」
「え?あの日は侯爵様が来る可能性があったのですか?」
「無い。」
「そうですよね。それで、悪女の私がダンショーを呼んで、何が悪いのです?」
侯爵様とクレマンが揃って眉を顰めた。私も顰めてみた。
今何の話をされているのか、もうちょっと筋道立てて話をしてほしい。
「君は屋敷の警備を搔い潜り、家長の許しもなくよそ者を引き入れた事になる。」
「ああ、つまりはそこだけが問題なのですね。」
「だけではないが…とにかく、門外からの侵入者検知に引っかかっていない以上、君が男娼を呼んだというのは嘘だ。」
「……わかりました、認めましょう。」
そう言うと、侯爵様が疲れの滲むため息を吐いた。
苛々した様子で長い脚を組む。
「なぜそんな嘘を?」
「私が誰かを連れ込んだと大騒ぎだ、と聞いたものですから。ダンショーと答えておけば、別に普通の事でしょう?私、悪女ですから。無用な混乱を避けられると思ったのですが。」
「無用な混乱だらけだ。君を悪女と聞いて婚姻を申し込んだのはこちらだが、男娼や宝石を買い漁るような金を渡すつもりはさらさらない。」
「自費で、という事ですね。わかりました」
大人しく言う事を聞いたのに、侯爵様はさらに眉間に皺を寄せた。そのままだと跡が取れなくなるんじゃないかしら。
これでもちまちま魔法陣を作って売ったり論文で稼いだりしたので蓄えはある。お父様達が信用ならないから銀行に預けてあるのだ。
ダンショーが幾らするのか知らないが、宝石をちゃらちゃらするくらいは大丈夫だろう。そんな物を買うぐらいなら研究資料がほしいけど…燃やされるよりマシだわ。
「ダンショーや宝石を買う時は、リディに言って商人を呼べば良いのですか?街へ買いに行っても?」
アレットが宝石商を家へ呼んで品物を見る姿は知っている。
街には宝飾店がある事も。ダンショーは人間という事だから、職業紹介所とか仲介人だろうか。首を傾げて尋ねた私を前に、侯爵様はこめかみに手をあてて俯いた。
「………、クレマン。何とかしろ。」
「お言葉ですが、ご自分で選ばれた奥様ですよ。」
「私の好きにして良いなら街へ出かけます。本屋…いえ、ダンショーと宝石を買いますから。ええ、私悪女なので。……そうだわ、化粧品も買わないと。赤い口紅とか、あの顔にべとべとするやつを。」
「べとべと」
「侯爵様のお好みですものね。大丈夫です、私悪女ですから。頭が痛くなる髪型も習得してみせます。」
重ね重ね今日は見苦しい姿ですみませんと、丁寧に頭を下げる。
顔を上げると、侯爵様は呆然と私を眺めていた。
「………、クレマン。何とかしろ。」
「お言葉ですが、ご自分が選ばれた奥様ですよ。」
「二人とも疲れているのですか?先程も同じやり取りをしていましたよ。」
「ああ、もういい。エステル・オブラン!」
「はい。」
くしゃりと髪を搔き上げ、侯爵様が言うことには。
「屋敷を勝手に出ること、転移系魔法陣の勝手な使用を禁じる。買い物があれば全てクレマンに申し伝えろ。……それと、初対面の時のような格好は、俺の好みではない。」
「へっ!?……ではなぜ私は、あのような苦行を受けさせられたのか…」
「…あれは君の普段の格好ではなかったのか?」
「普段はコレですね。」
「……なら、それで過ごせばいい。」
「よろしいのですか?ありがとうございます。」
笑顔でお礼を言い、私はホッと胸を撫でおろした。
口紅は赤いのを買えばいいし、べとべとは商人に聞けばなんとかなるだろうが、髪型をどうしようかとちょっと困っていたのだ。全部やらなくて良くなった。素晴らしい!
「こちらに来てまだ日も浅いですが……気付けば廊下に置かれている冷たいお食事、起床にも干渉せずにいてくれる侍女、湯殿の彫像裏に彫られた美しい加熱魔法陣……はぁ、なんとも楽しく過ごさせて頂いております。」
出発前にちょっと不安になっていたのはなんだったのか、良い日々である。
見事な彫り込みの加熱魔法陣を思い返し、私は片頬に手をあてうっとりとため息をついた。
「…侍女を代えよう」
「え?差し支えなければリディにお願いしたいです。彼女はよくやってくれていますよ」
「そうか……クレマン。後でリディを連れてこい」
「…承知致しました。」
― ― ― ― ― ―
悪女好きにも色々いるらしい。
侯爵様はアレットが好むような外見は好みではないので、
髪型や化粧は普段通りでいいと言う。非常に助かる。もっと早く言ってほしかった。
侯爵様より
・悪女はダンショーや宝石を買い漁る。 ※自費でやること。
・ダンショーは魔力が少ない。
・買い物したい時は全てクレマンに伝える。
・屋敷を勝手に出てはならない。
・転移系魔法陣を勝手に使用してはならない。
【重要】
恐らく侯爵様はかなり魔法陣作成にお詳しい!ヴァイオレットの名を知っていた。
あわよくばアレク様と繋がりのある方だといい。
ところで、リディが昼食の載ったワゴンを部屋の中まで運び込んできた。
それも熱々の食事。私が何をしたというのか。
食べ終わるまで部屋の中で見張る事にしたらしく、
必死に息を吹きかけて時間に追われる気持ちで飲み下した。私が何をしたというのか。
夕食も同様の流れを辿りそうだったので、慌てて今日はもう本館に下がるよう申し伝えた。
なぜか謝られ、私が悪女である事を否定される。これは「貴女は侯爵様に相応しい悪女ではない」と言われているのだろうか。リディを説得しなくてはならない。
夕食は冷めるのを待ってからゆっくり食べた。