20.俺の妻が女神だったんだが(ジェラルド視点)
やっと真の意味で妻と寝床を共にして、数日後。
俺はエステルと共に街へ出ていた。今更ながら結婚指輪を買うためだ。
本当は部屋を移ってもらった時点で作りたかったが……あの頃のエステルはただ受け取るだけで、きっと心から喜んではくれなかっただろう。
今日の彼女は道端の女性陣を牽制するようにちらりと見回し、ファビウス侯爵家のブローチをつけた胸を張ってすまし顔で俺に寄り添っていた。
…俺は正直、あのエステルの事だから、自覚しても普段はずっと「魔法陣が、魔法陣で」とぴよぴよ囀っているだろうと思っていたんだが。
どうも俺が思う以上に、彼女は俺を気に入ってくれているようで。
「デザインにこだわりは?」
「特には。私がジェラルド様のもので、ジェラルド様が私のものだってわかったら、それでいいです。」
こういう事をさらりと言う。
自覚したエステルは強かった。事あるごとに破壊力抜群の真っ直ぐな好意を向けられ、女に対する態度を氷だなんだと言われていた俺が、エステルには敵わずどんどん骨抜きにされている。
場所を考えてほしい。俺は真顔で注意した。
「エステル」
「はい。」
「街中じゃなければ夜みたいな事になっていた。あまり煽らないように」
当然煽ったつもりはなかったんだろうが、赤くなって俯く姿も非常にそそられ……、危ない。エステルの意見を確認しつつ、指輪のデザインを決めて支払い手続きを済ませた。
振り返ると、彼女は白い小花を集めた銀木犀のイヤリングを見ていたようだ。
「それが気になるのか?」
「ジェラルド様」
「欲しいなら買ってやるが……銀木犀か。」
鏡の中、エステルの耳元にイヤリングを添えて考える。
つい最近【高潔】なヴァイオレット女史への挨拶に使った花だが……貴女に添えるなら、間違いなく【初恋】だ。
「似合うな。」
「私、【初恋】が叶った女なので。」
少々意外だったが、エステルも花言葉を知っていたらしい。
そうか、君も俺が【初恋】か。つい口角が上がる。これは買おうとイヤリングをエステルに持たせ、俺は店内を見回して金木犀のピンブローチを手に取った。
ファビウス家のブローチを外してそれをあててみせると、エステルが微笑んで頷いてくれる。
「よくお似合いです。」
「俺は【真実の愛】を知る男だからな」
「ふふふ」
真似をしてみせたのが伝わったのだろう、くすくすと笑うエステルが可愛い。
魔法陣の話をする時の無邪気な笑顔や目の輝きも良いが、こうして落ち着いて笑う姿も愛おしい。
ヴァイオレット女史が舞踏会に来るかは、まだ返事がなくわからなかった。
もし会えなかった場合、魔法陣の話をしたいだろうエステルには第一師団長を紹介するのもやぶさかではない。あいつもまぁ、魔法陣の話ができるからな。俺ほどではないが。
結婚指輪は舞踏会に間に合うが、仮面をつける以上はそれも手袋の下だ。ペアの仮面をつけるのは勿論、エステルは銀木犀を、俺は金木犀をそれぞれ身に付けるのも良いだろう。
「あの、ジェラルド様」
「何だ?」
「それは私が買って貴方に贈っても良いですか?」
ピンブローチを指して、彼女は予想外の提案をしてきた。
宝飾店で妻に払わせる男がいるか?俺は遠慮したが、エステルは俺の腕にぎゅっとしがみついて言った。
「だってジェラルド様は私のだから…」
はあ?
俺がさっき煽るなと言った事を秒で忘れたか。むしろこれは逆か?今すぐにでも欲しいとい俺のエステルがそんな事を考えるわけがないだろ。
黙って静かに頷き、我慢のためにエステルの腰をしっかりと抱いて支払い手続きを待った。
店を出てすぐ流れるような動きで懐中時計を開き、「こんな時間か」と呟く。
さして急ぐ時間帯ではない事は明らかだったが関係ない。エステルが他の店に寄りたい気持ちがあるなら、それに付き合う事はまったくやぶさかではないのだが。できればすぐ帰って君を愛でたい。
どうだろうかと様子を伺えば、彼女は俺の懐中時計を凝視していた。さすが俺の妻。これの価値がわかるとは。
「ふっ…これはヴァイオレット女史自らが守護を刻んだ一点物なんだ。ヴァイオレット女史自ら――…この流れるような曲線、文字列と記号の――……かのような心強さもあり…」
「あの、私もですね!」
蓋の裏に魔力筆で刻まれた美しい魔法陣を見せて語っていると、エステルが少し大きな声を出した。
口を閉じて見下ろせば、緑色の瞳がきらきらと輝いている。
「何かあると怖いので持ち歩いてないのですが、実はアレク様直筆の守護のペンダントを持っておりまして!」
「そ、そうか。」
君が寝落ちしていた時に見た。今はガラスケースに入れて机に飾ってるらしいな。
……アレクサンドルは、俺なんだが……
「私も全力で競り落としたのです、帰ったらお見せしますね。手書きとは思えない正確な線、無駄なスペースが一切ない美しき構成配置…ああ、何をどうしたらあのように完成された魔法陣が書けるのでしょう。オークション会場では米粒よりも小さい距離でとても見えませんでしたが、初めて手元で見た時の感動といったら……私、あの日は思わず感謝の涙を流しました。アレク様と同じ時代に生まれた奇跡……」
「………すごいな。」
「わかってくださいますか。私、アレク様直筆の一品を持っているという事実を励みにしてこれまで」
「エステル」
「はい。」
あまり可愛い事ばかり言ってくれるな。
俺が名を呼べば君は、必ずこちらを見上げてくれる。それを利用して唇を奪うと、道端で野次馬の女達が声を上げた。エステルがまたしても真っ赤になって俯く。
「帰ろうか。そろそろ限界だ」
囁き、わざと音を立てて頬に口付けると、もう充分に大人の女であるエステルは「これ以上は」と言いたげに俺の腕にしがみついた。
もっと愛でていたいが、せめて馬車までは我慢するとしよう。
指輪を買って数日、ヴァイオレット女史から返事があった。
アレクサンドル・ラコスト様
畏れ多くも金木犀の香りが届き、なんと甘いものかと驚いております。
そんな挨拶から始まっている。
やはり俺から返事があると思っていなかったらしい。
【気高い人】からの便り、か……必死に考えて書いた甲斐があったな。褒め過ぎだとも言われているが、本心なのでしょうがないし、そもそもヴァイオレット女史が俺を褒め過ぎなのだ。
この便箋が地域限定の物とは存じませんでした。
私もラコスト様に聞いてみたいと思う事が沢山ございますので、
素晴らしいご提案をありがたくお受け致します。
私の夫も魔法陣作成の同志ですので、
一緒に参加させて頂くつもりです。
目印として銀木犀を身に付けるように致しますね。
お会いできる時を楽しみに、この秋の豊かな実りを祈っております。
ヴァイオレット・バラデュール
ご結婚されていたのか。ヴァイオレット女史が認める程なのだから、夫の知識も相当なものなのだろうな。きっと非の打ち所の無い温厚で知的で頼りがいのある御仁に違いない。
そして偶然にも、彼女もエステルと同じく銀木犀を装飾品に選ぶようだ。
ダンスの練習に励むエステルに付き合いながら考える。
ヴァイオレット女史に会う前には、俺がアレクサンドルだと伝えなければならない。
きっと喜んでくれると思いはするものの………僅かばかり、不安でもあった。
当日、俺とエステルに渡されたのは狼の仮面。
黒髪のウィッグをつけたエステルは新鮮だったが、儚く散る金色狼をモチーフとした仮面をつける姿は少々、「縁起でもないな」。つい口に出してしまってハッとしたが、エステルは気を悪くするでもなく「確かに」と頷いてくれた。
「会場では絶対に俺の傍から離れないように。」
「はい」
少々気合のこもった返事をして、彼女は俺の腕に片手を添えたまま、反対の手でジャケットの襟につけた金木犀のピンブローチをよしよしと撫でた。やめろ、思い出すから。
『だってジェラルド様は私のだから…』
駄目だ、思い出した。
今日も俺の妻が可愛い。温かみのある茶髪を梳いて撫でて口付けたいが、ウィッグが邪魔だ。俺は音の無いため息をついてエステルの指にキスを落とした。
会場に入ると、すぐに主催であるラファエルの姿が目に入る。
仮面はクローカラスか。
燕尾服も羽飾りだらけのマントも黒一色だ。さすがに黒で狼の仮面を選ばないだけの良識はあったようだ。この国の夜会でそんなものつけたら「誰の女だろうと手を出す」と言っているのと同義だからな。
ラファエルと目が合い、あちらは即座にエステルを確認して笑ったようだった。
「踊るぞ」
「えっ、良いのですか?主催さんは」
「放っておけ。俺はあいつに会いに来たわけではない」
次の曲が始まるのに合わせて中央に進み出たが、ラファエルもすかさず女を誘ってダンスの輪に入る。ちょっとでも俺を冷やかさないと気がすまないのか、お前は。
「こちらが誰かわかったのでしょうか?」
「ああ。仮面とウィッグがあったとしても、よく知る相手であれば体格や顔の輪郭、身のこなしでおおよそわかるものだ。俺が連れている女性という時点で君も目立っている」
「そういうものですか」
ここで踊る事は、正式な夜会に出る前段階として意味があるものだ。エステルにはわざわざ言っていないが、一種の根回しである。
俺の視界に入り込んできたラファエルが「後で奥さんと話していい?お願い!」という顔でウインクしてきたので、端的に拒否した。すると今度はエステルから見える所へおもむろに移動し、気付いたらしいエステルが不思議そうに瞬く。
なんと反応しようか、と考えた事が読み取れたので、放っておけばいいと強引に位置を入れ替えた。ラファエルの事は視線で少々牽制しておく。人の妻と内密に視線を交わそうとするな。
曲が終わり次第すぐにその場を離れた。一人と踊った事であいつは他の女達に群がられているだろうが、自業自得だな。
エステルに軽食で気になるものがあるか聞き、彼女が選ぶ間にざっと会場の客を見回した。
……銀木犀をつけた女性はいないようだな。
選んだ料理を指定の時間に持ってくるようボーイに指示し、二階のバーカウンターでグラスだけ受け取って貸し切り部屋へ移動した。
ヴァイオレット女史との待ち合わせは、この【風の間】に九時。
エステルと共にソファへ腰かける頃、壁掛け時計は八時二十分を示していた。疲れていないか聞くと、エステルは俺がダンスの練習に付き合ったお陰だと笑う。
魔法陣で釣った面もあるが、君はよく頑張っていた。ワイングラスをテーブルに置き、エステルの手の甲を指の腹でそっと撫でる。キスしやすいように仮面を外すと、何も警戒していないエステルが俺に倣って仮面を外した。
「この部屋は勝手に入って良かったのですか?」
「今夜は俺が貸し切っている。大丈夫だ」
「そうだったんですね。もしかして知人の方もここで待ち合わせを?」
「ああ。九時に来る」
「九時!?」
何をそんなに驚くのかと思ったところで、待ち合わせ時間が決まっている事をエステルに伝えていなかった事に気付く。彼女は、俺と知人は会場で立ち話すると思っていたのかもしれない。
どうやらエステルも同じ時間に約束していたらしく、あまりに初歩的な失敗に心が沈んだ。
「俺の確認ミスだな。君が一緒である事は確約したわけではないから、気にしないでくれ。」
「申し訳ないです……それか、皆で会いますか?」
「先方に確認を取ってみない事にはなんとも言えないな。」
研究者は正体を隠すためにペンネームで名乗るのだ。
仮面があるとはいえ、あまり会う人数を増やしたくはないだろう。ヴァイオレット女史は俺と妻が来るとは知っていても、妻の知人までは想定していない。
「聞いてみますね。魔法陣を愛する者同士なら、きっと話は弾むと思いますし」
「ん…君の知人とはそちらの関係なのか?」
「えぇ、実は今日お会いするのは……アレク様なのです。」
うん?
瞬いて、エステルを見下ろす。
「……………、何だって?」
「アレク様とジェラルド様が会ったら議論の加速度がすごい事になるでしょうから、是非とも会って頂きたかったのですが……」
「エステル」
「はい。」
まさかな。
まさかそんな事はないよな?
「……ちなみに、俺は……この【風の間】で九時に、ヴァイオレット女史と会う予定なのだが。」
「えっ」
緑色の瞳が驚愕に丸くなる。
それは「良かったですね!」と続きそうなものではなく、そんなはずはないとでも言いたげなものだった。
「どう思う?」
「…そんなばかな、と……」
「そうだな、君の言う通りだ。奇跡か白昼夢に違いない。夜だが。」
「ほぼ…ありえない事、ではないかと。」
「ああ、【ほぼ】だ。ありえるとしたら一つ。」
そうだとしたら、ああもし、そうなのだとしたら。
俺達はなんて滑稽で幸せな夫婦だろうか。つい口角が上がる。
「…貴女に、明かしにくかった事がある。」
「わ、私もです。」
声を震わせるエステルを見て確信した。
俺は彼女の前に跪き、恭しくその手をすくう。緊張のせいか、エステルの指先がぴくりと反応した。
「俺の名はアレクサンドル・ラコスト。君は?」
「…ヴァイオレット……っ私は、ヴァイオレット・バラデュールと申します。アレク様」
一筋の涙を流して妻が笑う。
会えた喜びに気付かなかった可笑しさがどうしても混ざり、俺達はへんな笑顔でわざとらしく互いに礼をした。
「「初めまして。」」
顔を上げ、泣いてくれたエステルの頬に口付ける。
彼女が珍しくも俺の頬に手を伸ばし、ひどく大事そうに撫でた。たったそれだけでどれほど俺を想っているか伝えてくるのだから、君には到底敵わない。
「ほんとに…本当にジェラルド様がアレク様なんですか……わぁあ……」
「君こそ、ヴァイオレット女史本人だったとは……魔法陣が似ていたのも当たり前か。ああ、くそ。嬉しいが心にくる」
「はい。その…尊敬してた人に、自分のファン語りを聞かれていたと思うとちょっと……だいぶ…」
「言うな。お互い様なんだ」
君はなぜヴァイオレット女史を呼び捨てるのかと問いただした事もあるが、今思えば当然だな。自分のペンネームに敬称をつける気になれない、俺とまったく同じ事が彼女にも起きていたのだ。
あの美しい魔法陣を描くヴァイオレット女史が、私生活では無邪気で愛らしい君だとは……エステル、俺の妻としてあまりに理想が過ぎるのではないか?
「あのっ、信じてないという事はないのですが、頭が追い付かないです……!」
「完全に同意する。俺の妻が女神だったんだがこれは現実か?」
「神様と結婚していた私が聞きたいです!現実ですかこぇ」
顔を赤らめて焦っているエステルが可愛すぎたので唇を塞いだ。ああ、俺のものだ。
ソファの座面に膝をついて深く口付けると、エステルは自然と力を抜いて背もたれに身を預ける。繋いだ手の指を絡めれば握り返す、そうやって君が愛を返してくれる事が嬉しくてたまらない。
柔らかい唇も甘えるように動く舌ももっと味わいたかったが、これ以上は抑えがきく気がしない。名残惜しいが少し身を起こし、頬や額にもキスをした。
「ベッドのある個室にすればよかった」
うっかり本音が漏れてしまい、エステルが慌てて駄目だと言う。
俺が頑張って冷静さを取り戻そうとしているのに、「ああいうのはお屋敷だけで」などと言うから即座に「今すぐ帰るか」と呟いてしまった。
エステルは俺の視線に弱いのでじっと見つめてみるが、自覚があるのか必死に目をそらして俺の胸を押してくる。仕方なしに彼女の隣に座り直した。エステルはワイングラスを手に取り、完全にお話しモードだ。
「私、アレク様に聞きたい事がそれはもう山ほどありまして。」
「俺もヴァイオレット女史に聞きたい事が色々あるが、何より貴女が魔法陣を書く姿をこの目で見たい。」
「ただ書くだけなのですが…」
何なら絵師を呼んで肖像画として残したい、とまで言うと引かれるだろうか。新人の使用人なので仕事を覚えるためにメモを取っていると言えば、エステルに隠れてスケッチくらいできるか。それを後で清書させて…
俺が妻に秘密の企みをしていると、廊下から忙しない足音が聞こえてきた。嫌な予感がする、と思った瞬間にピンポイントで俺達の部屋の扉が叩かれる。
「失礼致します!こちらに銀狼閣下はおられますでしょうか!クローカラス様より伝令です!」
仕事を持ってきやがった。
だが、ラファエルはふざけてはいるが、面白半分に研究者の正体を暴くような男ではない。俺とヴァイオレット女史の面談と知っていて割り込むなら、相当な緊急事態だろう。
予想はあたっていた。
「ベルガの森にて魔物の大量発生を確認!今すぐ合流願います!!」
二章 侯爵夫妻の新婚生活 完。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
ブクマやご評価いいね等、本当に励みになっております。
二章+番外編くらいのつもりが三章に続きました。
次回から地下迷宮編です。




