2.野菜運びの悪女
目が覚めると知らない天井が見えた。
「ああ……嫁いだん、だったわね……?」
いまいちピンとこないけど。
閉めきられたカーテンの隙間から光が漏れている。壁掛け時計を見ると十時を回っていた。
昨夜は遅くまでお手製魔法陣の設置場所と隠し方に頭を悩ませていたものね……。もう一時間は早く起きるつもりだったけど、ふかふかの布団が心地よくて寝過ぎてしまった。侯爵家万歳。
こんなに睡眠の質が違うなら、実家でも高品質の布団を買っておけばよかった。
手近なカーテンを開けて光を入れ、昨日風呂場から取ってきた桶に向けて、色紙を巻き付けた小瓶を傾ける。
「清き水の恵みを」
瓶に彫り込んだ魔法陣がふわっと青く光り、トポトポと水が流れ出した。水差しを取りに行くのが面倒で作った給水瓶だ。
彫る時指を切ったり、陣がちょっと歪んで生ぬるい水しか出なかったり、ヤスリをかけるのを面倒くさがって指を切ったり、なら覆えば良いじゃないと紙を巻いたらどうしてか水の出が良くなったり、色々思い出がある品だ。
顔を洗ったら着替えて桶を支えに手鏡を立てかけ、癖のない茶髪にさくさくと櫛を通した。俯いて作業ができるよう、横髪を後ろへ流してバレッタでパチンと留める。
「よし、身支度完了。水を捨てましょう」
まだカーテンが閉まっている窓を選んで近付き、シャッと開けた。今日の空は晴れ。見下ろしてみると、別棟の庭はあまり手を入れられていないようだ。雑草が伸びている。
窓も開けて桶を窓枠に一度置き、真下に人がいない事を確かめてから水を捨てた。
「ん?」
捨てた途端、離れた位置で誰かがこちらを見上げている事に気付く。
服装と体格から、たぶん男性だと思われる。
男性の頭が動いたので、地面にバシャンと落ちた水と、私とを交互に見たのがわかった。
私は逆さにした桶を持ったまま二度瞬き、特に声をかけられなかったので、軽く首を傾げてから部屋に引っ込んだ。人をじろじろ見るなんて失礼な人ね。
一応客人なのだけど――いえ、結婚したんだった。
「さすがにお腹が空いたわね…どれどれ。」
昨夜と同じパターンではなかろうか、と部屋の扉を開けてみる。そこにはやはり食事の置かれたワゴンがあった。
カラカラと室内に引き込み、ワゴンの前に椅子を置いて食べ始める。テーブルに並べる?そんな二度手間はやらない。
トースト、スクランブルエッグにソーセージ、サラダ、フルーツ……食後の紅茶に至るまで、全て冷めていた。私は猫舌でトーストはちょっぴり固いくらいが好きなので、おいしく頂いた。
量も腹八分目といったところで、脳の働きを邪魔しない。素晴らしい。
「本当に、随分よくしてくださるわね。侯爵様は悪女好きで確定だわ…」
来たばかりの私に気を遣ったのだろう、リディは昨夜一度も姿を現さなかった。湯浴みの支度を頼んでいた事をハッと思い出した頃には、風呂場の湯はすっかり冷めていたのよね。
私は集中すると、部屋の外から声を掛けられるくらいでは全く気付かないのだ。
風呂場を探ってみるとやはり加熱の魔法陣が隠れていたので、リディに心の中で謝りつつ湯を頂いた。
すっかり食事を終え、改めて今日の目標について考える。
噂になっていた【稀代の悪女】の実態を探ることだ。どのような噂を聞いて求められたのか、私はどんな悪女になるべきなのか。
それには侯爵家の誰かに聞くのが早いわよね。
今は夜中ではないから、別棟の鍵はかかっていないはずだ。
誰かしらに会う事を期待して、私は昨日も使った別棟の見取り図片手に部屋を出た。
まず昨日通った道を確認しようと本館方面へ歩くと、四十代くらいの男性が野菜を積んだ荷車を引いている。
「こんにちは」
「ああこんにちは…お嬢さん見ない顔だな。見取り図持ってるってことは、新しく入った子か?」
「はい、昨日来たばかりです。エステルと申します」
「そうかそうか、俺は庭師のジャンってんだ。奥の畑で野菜も作ってる。いやぁ、これは可愛い子が入ったなあ」
ジャンは三十年もここに勤めているらしい。
侯爵様はよそ者には無愛想だが良い人だよ、怖がることはない、と言われた。確かに子供とかに怖がられてそうな迫力だったわね。
使用人の通用口に来ると、何やら騒がしい。
剣を提げた見張りっぽい人や掃除道具片手の侍女、書類を運ぶ途中らしい文官が揃っている。
「一体どうやって入ったんだ?」
「わかったら苦労はしないだろ。」
「どんな男だったんだい?」
「えっ、いや…美人を連れ込んでた、しか聞いてないぞ。」
「そんなの男娼で決まりじゃないか!昨夜遅くまで旦那様の渡りを待ってたって話は何だったんだよ」
「だから、そういう事じゃないの?」
「なんて侮辱だ!」
私はジャンと顔を見合わせた。
何だかお取り込み中のようで、とても声をかけられる雰囲気では無い。
さすがの私も、ここに飛び込んで「すみません、悪女とは何だと思いますか?」と声をかけないだけの分別はある。
「ジャン、ダンショーとは何ですか?」
「えあっ?あー……エステルみたいなお嬢さんは、知らなくていいよ。男娼と付き合いがあるのなんて、噂の悪女くらいだろうさ。」
「なるほど。悪女はダンショーと付き合いがあるものなのですね。」
辞書で調べたいが、実家に置いてきてしまった。
今はダンショーの存在がわかっただけ進歩と思いましょう。
……おや?
もしかしてジャンは、私が噂の悪女だと気付いていなかったのだろうか。
「あの」
「もうこの話はやめよう。あいつらを宥めてくるから、エステル。これを厨房に届けてくれないか?イレーヌがあれじゃあ、すぐ声をかけるのはよした方が良い。」
「これですね」
沢山の野菜が入ったカゴをひょいと抱え上げると、ジャンが目を見開いて「い、意外と力持ちだな」と呟いた。
身体強化の魔法陣を衣服に縫い込むくらい、書類や本の山に対峙する研究者として当然の嗜みである。
「全部じゃなくていいんだ、残りは倉庫に持っていくからな。ええと、これだけだ」
「厨房は…」
「その角を左だ。マルクに渡してくれ」
「わかりました」
こっくりと頷いて、皮袋に詰められた野菜を抱えた。
がやがやとした「だからわたくしは反対だったのです!」「落ち着け、イレーヌ!」という声を背に、私は厨房へ向かう。
「すみません、マルクという方はいますか?ジャンに頼まれた野菜を持ってきたのですが。」
「ああ、そこに置いといてくれ!」
火にかけたフライパンを揺すりながら、恰幅の良い男性が声を張り上げた。
もう昼食の支度が始まっているのだろう。
そことはどこなのか、と周囲を見回した私に、若手の料理人が厨房の空いたスペースを指してくれる。
「そう、その台だ。……君、どこに勤めるの?」
「別棟です」
「別棟だって!?」
悲鳴のような声に、騒がしかったはずの厨房が一瞬、静まり返る。唖然とした顔の料理人達が揃って私を見ていた。
あまりにじろじろ見られるので自分の格好を見直したけど、着慣れた安物のデイドレスに野菜の土汚れが移っているくらいだ。
「こんな純朴そうな子が…」
「不憫だ」
「リディが名乗り出たはずでは?」
「イレーヌは何考えてるんだ」
「あの、別棟は何かまずいのですか?」
手は休めずにぶつぶつ話し合いを始めた彼らに声をかけると、揃って憐れむような目を向けてきた。
誰かが「それすら知らされてないのか」と呟く。
「あそこは【稀代の悪女】と呼ばれる方がいる所なんだ。」
よく知っております。
…どうやら、この人達も私がその悪女だと気付いていないようだ。考えてみれば確かに、侯爵様もわざわざ私の姿絵――なんてそもそも描かせた事がないが――を見せびらかしたりはしないだろう。
「悪女の使用人なんて、覚悟が必要だぞ。理不尽に仕事を増やされたり、ひどい事を言われたり、痛めつけられる事だってあるかもしれない!」
「なるほど……悪女とは使用人の仕事を増やし、ひどい事を言い、痛めつけるのですね。」
「だからイレーヌに言って、お嬢さんは本館の所属にしてもらいな。別棟担当なんて、きっと何かの間違いさ。」
「ああ、喜んで引き受けるのなんてリディくらいだろう。」
「受けて立ちますって言ってるの聞いたぞ」
侯爵様だけでなく、リディも「悪女好き」のようだ。
料理人達の声援を受けてお礼を言いつつ、私は厨房を後にした。
悪女について、割と情報が集まったのではなかろうか?
…などと考え事をしていたら、見事に道に迷った。
私が持っているのは別棟の見取り図であって、本館の見取り図ではないのだ。階段なんか上がったかなぁ、と思いながら降りていくと、下から深刻そうな話し声が聞こえる。
「いなくなった?どういう事だ」
「別棟内には間違いなくいらっしゃいません。荷物は置いていかれたままでしたので、周囲を捜索中で…」
侯爵様とクレマンの声だった。
なになに…ほほう、別棟から本館に入る時は悪意ある者が弾かれる?そんな魔法陣が仕掛けられていたのね。どこに仕込んであるのか、いつか見る機会があるだろうか。
二人はそれがあるから、「あの悪女」が本館に来たはずはないと考えているようだった。
……そうか、いないって……私の事か。
しっかり食べた朝食のワゴンは廊下に出したから、ちゃんと起床した事はわかったはずだけど。返事が無くて不審がられたのか、誰か部屋に入ったのか。
首を傾げていると、深いため息が聞こえた。
「どうせ敷地外には出られまい、と言いたいところだが…」
「如何にして人を連れ込んだかは問題ですね。」
「夜までに見つけ出せ」
「承知致しました。」
遠ざかっていく声に耳を澄ましつつ、私はそろりと階段の上へ戻った。
ここにいますし、人を連れ込んだって…誰も連れ込んではいないのですが……と、あそこで言うのは簡単だ。簡単だが、侯爵様がお求めなのは悪女だ。
化粧品の代わりを見つけてあのべとべとが再現できるまで、侯爵様の前に出ない方がいいでしょう。
「仕方ないわね、急いで戻りましょう。」
私は廊下の窓を開け放つと、ひょひょいと屋根に上がって上から別棟を見つけた。
スカートをたくし上げて屋根の上を走り、飛行の魔法陣を刺繍したハンカチを取り出して魔力を流す。
「猛き風の助けを」
ふわりと浮き上がった私は別棟へ飛び、水を捨てたまま開けっぱなしの窓に飛び込んだ。
部屋で一時間ほど待っていると、誰かが扉を開けようとしたのかガチッと音が鳴る。
「!?え、エステル様。いらっしゃるのですか?」
「あらリディ。ええ、いますよ。昼食ならそこへ置いておいてください。」
「それどころではありません!失礼しま……あ、開かない…?」
カチャカチャと鍵音がするけれど扉は開かない。さっき暇潰しに施錠魔法を使ったからだ。鍵があったところで開く事はない。
昨夜から今朝の仕事振りを見るに、リディは食事を運ぶくらいじゃ部屋に入らないから大丈夫だと思ったんだけど…。
「ここを開けてください!貴女が人を連れ込んだ事で大騒ぎになっているのですよ!」
「え?あぁ、それは間違……いえ、えーと、ダンショーの事でしょう?それくらいで騒がないでほしいです。」
悪女はダンショーと付き合いがあるもの。
誤解だけど、ちょうどいいので悪女アピールしておく方がいいでしょう。
「なっ…」
「いいからワゴンを置いて下がってくれませんか。ああそれと、本館の見取り図が欲しいですね。」
「……旦那様にご報告致します。」
固い声で告げて、リディは去っていった。
私は暇潰しの魔法陣は別の物にすればよかったと思いながら、苦労して施錠の魔法陣を取り除いた。アレク様のように理路整然とした魔法陣ならもっと早いのに、私のは細かいので時間がかかる。
魔法陣の構成について思いをはせていたら、いつの間にか数時間経っていた。
部屋の扉を開けるとやはり、冷めた食事の載ったワゴンが置かれていたのだった。
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庭師ジャンに会い、本館の厨房へ行く。
どうも皆私が噂の悪女と気付いていないようだったが、悪女について情報を得る事ができた。
悪女とは、
・ダンショーと付き合いがある
・使用人に対し、仕事を増やす/ひどい事を言う/痛めつける。
リディは率先して悪女付きになった、悪女好きであるらしい。
適温適量の食事、作業中の部屋に踏み込まない気遣い。
懸命に働いてくれるリディのためにも、悪女になりきらなければならない。
まず、私が誰かを連れ込んだと言うリディにダンショーだと説明し、
それくらいで騒ぐなと言い放った。
さらに、本館の見取り図がほしいと仕事を追加しておいた。今日迷ったからだ。
リディは悪女好き仲間の侯爵様に報告するらしい。上出来ではないだろうか。