19.侯爵夫妻の「初めまして」
結婚指輪を手袋の下に隠して、私とジェラルド様は舞踏会にやってきた。
控室で黒髪のウィッグをかぶり、係に渡された目元を隠す仮面は金銀の狼。
悲恋とも永遠の愛とも言われるあの絵本がモチーフだろう。美しさのあまり攫われる金色狼が女性用、取り戻そうと戦った銀色狼が男性用ね。
ジェラルド様が「ペアの物を」と頼んだせいか、狼の片耳にはお揃いのピアスが揺れていた。パートナーがいる証になるらしい。
仮面の形はランダムらしく、ジェラルド様は金色狼の仮面をつけた私を見て、「縁起でもないな」と呟いていた。確かに。
「会場では絶対に俺の傍から離れないように。」
「はい」
ジェラルド様のような美形は、目元を隠したくらいではまったく関係なしに美形である事がよくわかった。仮面のピアスがなければ女性が群がってしまうに違いない。
ジャケットの襟につけてくださっている金木犀のピンブローチに触れ、よしよしと指先で撫でておく。
会場は仮面をつけた黒髪の人だらけだった。
仮面やドレス、髪型、装飾品の違いがあるので一応の見分けはつくけれど、知り合いがいたとしてもすぐには気付けないだろう。
来るのも帰るのも好きな時間にという会らしく、途中でやってきた私達が一斉に注目を浴びるような事はなかった。中心では緩やかな曲に合わせて何組も踊っている。
一番目立っているのは全身真っ黒な紳士だ。
複数人の男女と談笑するその人は、嘴のついたクローカラスの仮面に黒の燕尾服、そして黒い毛皮…いえ、羽だわ。豪奢な黒羽の飾りをつけたマントを羽織っている。
「あれは主催だ」
私の視線に気付いたジェラルド様が教えてくれた。
ちょうど主催さんもこちらを見て、パッと口元が笑う。少し距離があるけどこちらに来るのかしら、と思ったところでジェラルド様に手を引かれた。
「踊るぞ」
「えっ、良いのですか?主催さんは」
「放っておけ。俺はあいつに会いに来たわけではない」
私はわかっていなかったけど、ちょうど曲の変わり目だったらしい。踊っていた人達もほとんどが自然に入れ替わる。主催さんもさらっと女性を誘ってダンスの輪に滑り込んだ。
ジェラルド様がリードしてくれるお陰で、基本程度しか踊れない私もそれなりに様になっている。
屋敷では最初クレマンに練習相手になってもらおうとしたけど、いつの間にかジェラルド様とやる事になっていたのよね。
『魔法陣の話をして良いが、躓いたりバランスを崩したらその都度話を中断する』
なんて言われた時は、「そんな!」と叫ぶより先に、よくわかってるなぁと感心してしまったものだ。
お陰で今、踊りながらでも話ができる。
「こちらが誰かわかったのでしょうか?」
「ああ。仮面とウィッグがあったとしても、よく知る相手であれば体格や顔の輪郭、身のこなしでおおよそわかるものだ。俺が連れている女性という時点で君も目立っている」
「そういうものですか」
少し不機嫌そうなジェラルド様のお顔を見つめていると、彼は誰かにサインを送るように目に力をこめて僅かに首を振る。私達の横を別のカップルがくるりとターンを決めながら通っていった――と思えば、それは主催さんだった。
私と目が合い、主催さんが悪戯っぽくウインクする。ジェラルド様と同年代、二十代前半といったところだろうか。
会釈を返そうとしたものの、ジェラルド様がそれとなく回って私と位置を入れ替えてしまった。また何か目でサインを、いえ、睨んでいるだけかもしれない。
曲が終わると、ジェラルド様は私を連れて素早く歩き出した。そっと振り返ると若いご令嬢達が主催さんに群がっている。あれはしばらく出てこられないだろう。
「軽食で気になるものはあるか?後で届けさせる」
「えっと…」
綺麗に並んだ料理から幾つか見繕っている間、ジェラルド様は常に私の片手をエスコートしながらも誰かを探しているようだった。魔法陣の話ができるという「とある方」だろう。
私はジェラルド様の様子を見つつ料理とデザートを選び、彼が探すのをやめたらしいタイミングで「決まりました」と声をかけた。
二階はダンスホールが見下ろせるようになっていて、バーカウンターやテーブル、椅子などの小休憩スペースが広く取られている。
飲み物だけ受け取って、私はジェラルド様に連れられるままさらに奥の個室へ入った。
よく磨かれたローテーブルを挟んで向かい合わせに、上質な革張りの二人掛けソファが置かれている。奥には一人用ソファもあり、最大五人での応接室といった感じだ。
壁掛け時計をチェック――八時二十分。
「疲れていないか?エステル」
「思ったより大丈夫です、ジェラルド様。練習に付き合って頂いたお陰ですね」
寝る前の習慣と同じにエスコートされ、ソファに並んで座る。
ワイングラスをテーブルに置き、ジェラルド様はよしよしと手の甲を指で撫でてくれた。ウィッグがなければ頭を撫でてくれたかもしれない。
仮面を外し、グラスを傾けて小休憩だ。
「この部屋は勝手に入って良かったのですか?」
「今夜は俺が貸し切っている。大丈夫だ」
「そうだったんですね。もしかして知人の方もここで待ち合わせを?」
「ああ。九時に来る」
「九時!?」
まるかぶりではないの。
つい大きな声を出した私を、ジェラルド様が驚いた目で見ている。
「どうした?」
「すみません、お伝えしていなくて……私も九時にお約束しているんです。だからご一緒できません」
「…そうだったのか、俺の確認ミスだな。君が一緒である事は確約したわけではないから、気にしないでくれ。」
「申し訳ないです……それか、皆で会いますか?」
「先方に確認を取ってみない事にはなんとも言えないな。」
ですよね。
私とアレク様は研究者同士という事を考慮して、あえて仮面舞踏会で会うのだ。ジェラルド様のご友人も、会う相手を増やしたくはないかもしれない。
「聞いてみますね。魔法陣を愛する者同士なら、きっと話は弾むと思いますし」
「ん…君の知人とはそちらの関係なのか?」
「えぇ、実は今日お会いするのは……アレク様なのです。」
「……………、何だって?」
沈黙の長さが衝撃を物語っている。
わかります。わかりますよ、ジェラルド様。とんでもない爆弾発言ですよね。
「アレク様とジェラルド様が会ったら議論の加速度がすごい事になるでしょうから、是非とも会って頂きたかったのですが……」
「エステル」
「はい。」
その前に私の正体について、と話すところが遮られる。
眉間に皺を寄せて瞳を揺らがせ、ジェラルド様は混乱しているようだった。
「……ちなみに、俺は……この【風の間】で九時に、ヴァイオレット女史と会う予定なのだが。」
「えっ」
それはありえない。
ヴァイオレットは私だし、私が待ち合わせているのはアレク様だ。ジェラルド様どなたかに騙されたのでは?
でもそれにしては、本当の待ち合わせまでよく…ご存知で……
「どう思う?」
「…そんなばかな、と……」
「そうだな、君の言う通りだ。奇跡か白昼夢に違いない。夜だが。」
「ほぼ…ありえない事、ではないかと。」
「ああ、【ほぼ】だ。ありえるとしたら一つ。」
蜂蜜色の瞳が私を見ている。
奥底まで覗くように。
どこか、嬉しそうに。
「…貴女に、明かしにくかった事がある。」
「わ、私もです。」
声が震えた。
そんな事があるだろうか?
ジェラルド様が立ち上がり、座ったままの私の前へ跪く。片手をすくうように取られて、心臓がどくりと鳴った。
「俺の名はアレクサンドル・ラコスト。君は?」
「…ヴァイオレット」
掠れた声になって、私は小さく喉を鳴らしてからもう一度、口を開く。信じられない気持ちで、一粒だけ溢れた涙が頬を伝った。
「私は、ヴァイオレット・バラデュールと申します。アレク様」
嬉しいような、可笑しいような、幸せなような、へんな笑い方をして。
私達はわざとらしく頭を下げた。
「「初めまして。」」
顔を上げると、ジェラルド様が涙の跡に口付けた。
ずっと憧れていた人が目の前にいるなんて、大好きな貴方だなんて。つい、手を伸ばして頬を撫でる。宝物に触れるように。
「ほんとに…本当にジェラルド様がアレク様なんですか……わぁあ……」
「君こそ、ヴァイオレット女史本人だったとは……魔法陣が似ていたのも当たり前か。ああ、くそ。嬉しいが心にくる」
「はい。その…尊敬してた人に、自分のファン語りを聞かれていたと思うとちょっと……だいぶ…」
「言うな。お互い様なんだ」
顔の赤い私達は目をそらして、時たまちらりと相手を見やっては、また目をそらす。
ジェラルド様、私の旦那様としてあまりに理想が過ぎるのでは?
「あのっ、信じてないという事はないのですが、頭が追い付かないです……!」
「完全に同意する。俺の妻が女神だったんだがこれは現実か?」
「神様と結婚していた私が聞きたいです!現実ですかこぇ」
混乱してる最中だというのに、ジェラルド様が唇を重ねるので声が途切れる。
女神は言い過ぎじゃないでしょうかって、言ったらきっと私が「神様は言い過ぎ」って言われるのね。
どちらともなく薄く唇を開けて、背もたれへ身を預けた私にジェラルド様が覆いかぶさった。
繋いだ手の指先まで深く絡めて受け入れる。たっぷり時間をかけて味わった唇が離れると、彼は名残惜しそうに頬や額にも口付けを落とした。
「ベッドのある個室にすればよかった」
「そ!それは駄目です…!」
「ヴァイオレット女史に会うために用意した部屋だ。ベッドなど論外だったのは勿論だが」
「あ、ああいうのはお屋敷だけで…」
「今すぐ帰るか」
熱っぽい目で見つめてくるジェラルド様の胸を押し、ひとまず横に座ってもらう。私がワイングラスを持ってしまえば、零すといけないので下手にぐいぐい来ないはずである。
「私、アレク様に聞きたい事がそれはもう山ほどありまして。」
「俺もヴァイオレット女史に聞きたい事が色々あるが、何より貴女が魔法陣を書く姿をこの目で見たい。」
「ただ書くだけなのですが…」
早口加減にちょっと圧倒されながら呟いた。
でもそう言われると、私もジェラルド様が書くところを見てみたいかも。
今度のお休みは見せっこになりそうだ。
バタバタバタ、と廊下を駆ける足音に振り返る。
何事でしょうかと言うより早く、私達の部屋の扉が叩かれた。
「失礼致します!こちらに銀狼閣下はおられますでしょうか!クローカラス様より伝令です!」
ジェラルド様が物凄い顔で舌打ちする。
苛立った声で「今開ける」と返し、仮面をつけた。私も金色狼の仮面をそっとつけてジェラルド様の後ろに控えてみる。
会場のあちこちにいた警備員の一人だ。
仮面は全員お揃いで、主催さんと色違いのハイーロカラス。
「ベルガの森にて魔物の大量発生を確認!今すぐ合流願います!!」
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ジェラルド様がアレク様だった。
驚いたがとても嬉しい。
たくさん話がしたい (インクの染みができている)
騎士団の任務が入って、行ってしまわれた。
魔物の大量発生。
紙面でしか知らない、過去の惨劇を思い出す。
大丈夫だろうか。
大丈夫に決まってる。
追記:
金木犀のピンブローチが、折れた状態で戻ってきた。




