15.悪女と奥様の特別な関係
朝起きて、ジェラルド様がいらっしゃる時は「おはようございます」のハグをする。
最初はベッドを下りてからだったけど、次の日はベッドに座ったままになって、数日後は眠そうなジェラルド様が寝転んだままハグを所望するので、エスティーをどかしてベッドの中でぎゅっとした。
前日に「今夜はどうしても魔法陣談義ができない、何時間かかるか不明な案件がある」と緊迫した顔で仰っていたから、だいぶ夜更かししたのだろう。
頑張りましたね、と背中をポンポンしたらジェラルド様は飛び起きて、なぜかすごく謝られた。
嫌じゃないか聞かれて大丈夫ですと言ったので、今はいつも起きる前にぎゅっとしている。いつも以上に温かい腕の中、すぐ傍にふわふわのジェリーとエスティーもいて、こっそりジェラルド様の良い匂いに満足する朝だった。
でも夜寝る前のハグは絶対にベッドに入る前と決めているらしい。なぜかと聞いたら「大変だからだ」と言われた。良きパートナーとして、相手に負担をかけるべきではない。私は神妙に頷いた。
「ジェラルド様、行ってらっしゃいませ。」
「ああ、行ってくる。」
このやり取りも朝の習慣になった。
クレマン情報だが、たまたま私が挨拶した日のジェラルド様は仕事の調子が良かったらしい。ジンクスとして是非と勧められ、私が起きている日は食堂なり廊下なり玄関なりで見送っている。
日中の私は研究するか、リディに連れ出されて庭を散歩したり、ジャン達に挨拶したり。
ティータイムには読もうとした資料を取り上げられ、イレーヌから粛々と謎の蘊蓄を聞かされている。どこの領地の何がどうとか最近のドレスの流行りが何とか。
時々急に「ちゃんと聞いてたかクイズ」をされるので困るけど、これが意外と普段接しない分野の話で新たな研究を思いついたりする。取り掛かれていない研究課題が山積みだ。
昼食で食事の、ティータイムで茶会のマナーも地道に仕込まれている気がしてならない。
私はこっそり聞いてしまったのだ、使用人同士の会話を…「絶対に逃がさない」「本当は詰め込みたいが様子を見つつ」「念のため見張りの強化を」「一丸となって奥様を囲うぞ」「逃がさん」……私はそこまで逃亡癖がありそうだろうか?
帰宅する頃には私は研究に没頭している事が多いので、出迎えはいいとジェラルド様がイレーヌ達に言っていた。集中するとどうしても彼女達の声も聞こえないのだ。
たまにふと気付くと横でリディが上級貴族のマナー本を朗読している事がある。無意識下に刷り込みをされているかもしれない。
そうやって過ごしていたある晩のこと。
夕食を終えた私達のもとへ、何やら困り顔のクレマンが早足にやってきた。
「アレット・オブランを名乗る女性がお見えです。」
ジェラルド様と顔を見合わせる。
私が子爵家の侍女に預けた手紙を読んだのだろうか。来るときは言ってね、とも書き添えたんだけど。
「君も聞いてないのか。」
「はい。手紙には困った事があれば頼りなさいと書いたので、もしかすると何かあったのかも…」
ひとまず通すように言って先に応接室へ向かう。
しばし待っていると、イレーヌが一人の少女を案内してきた。
茶髪を上品なシニヨンに結い上げ、化粧で美しく整えられた顔立ちは大人びている。
刺繍の入った緑色の長袖ドレスを着て、首回りは毛皮の肩掛けが隠していた。アレットは十五歳のはずだけど、目の前の子は私と同じかもう少し上くらいに見えた。
紅を塗った唇が弧を描き、私より黄色味の強い緑の瞳がきらりと光る。
「久し振りね、お姉様。その顔、「本当にアレット?」とでも言いたいのでしょう?ふふ、相変わらず女の化け方に疎いのだから。」
ああ、間違いなくアレットだわ。
本当にいつも私の予想を飛び越える子だ。私は少し目を見開いたまま「久し振りね」と返しつつ、動揺を隠してしかめっ面になっているジェラルド様の腕にそっと触れた。
「ジェラルド様。妹のアレットです」
「…そう、か。」
「アレット・オブランと申しますわ、ファビウス侯爵閣下。突然訪問する無礼、どうかお許しくださいませ。」
貴族令嬢らしくカーテシーを披露したアレットに、私達はひとまず着席を勧める。
侍女頭のイレーヌ自ら紅茶の用意をしてくれたけれど、アレットの意見で使用人は全員下げられた。ジェラルド様は視線でどうするかと私に聞いてくれ、私が構わないと頷いたのだ。
「閣下、お姉様、まずはご結婚おめでとうございます。仲が良いようで安心しました」
二人掛けのソファにぴったりと並んで座る私達に、アレットは満足げに微笑みを浮かべている。ジェラルド様はちょっと気まずそうに咳払いして、真剣な目でアレットを見据えた。
「俺達の結婚について、君はどこまで知ってるんだ?」
「経緯ならばおおよそ全て、でございます。手紙を読んでお姉様が懐かしくなりましたし、閣下もそろそろ私の話が聞きたい頃かと思い、諸々の調整をつけて参った次第ですわ。」
「…私の名を使っていた、理由?」
二人を見回して聞く。
元々、アレットがエステル・オブランを名乗って奔放に遊んだ結果、私が【稀代の悪女】としてジェラルド様に嫁ぐ事になった。
ジェラルド様はアレットがなぜ私の名を使ったのか知りたいご様子だった。
アレットがくすくす笑う。
「ではまずそこから――…だってお姉様、結婚したくないって言うんだもの。」
扇をぱさりと広げ、アレットはにっこりと笑みを深めた。
私は「ああなるほど」と納得して頷いたけれど、ジェラルド様はちらりと私達姉妹を見回す。
「閣下。義兄となった貴方に嫌われる事を承知で申し上げますが、私は幼少の頃より男遊びが大好きですわ。手のひらで転がす優越感も、肌を合わせる一時の快楽も、下手を踏めば痛い目に遭うスリルも、まとめて楽しんでおりますの。結婚で束縛されるなんて御免です」
「そ、そうか……」
「当家の事情をどこまでご存知か知りませんけれど、お父様は駄目です。いずれゴミのような縁談を持ち込まれてお姉様に押し付けたでしょう。」
「まぁ、そうね。」
私は父の顔を思い浮かべながら首肯した。
縁談はいらないと主張し、稼ぎの一部を渡す事で満足させてきた。
「ですから、遊ぶついでにお姉様の名を落としました。一応確認したんですよ?結婚できない方がいいのよね?って。研究中に聞いたから、お姉様は覚えてないでしょうけど。」
「だが悪評だけでは、まともじゃない縁談こそ持ち込まれたんじゃないか?」
「そこは私に同情的なお父様のこと、お姉様がいなければ困ると私が撥ねました。お姉様が稼ぎを家に入れてくれていた事も大きかったでしょうね。」
第一、悪女エステル・オブランは手を出そうと思えば出せる相手。
結婚相手ではなく火遊び相手なのだとアレットは語った。
「【稀代の悪女】の醜聞が消えたのは君の仕業か?」
ジェラルド様が突然そんな事を聞いて、驚く私と違ってアレットはにんまりと口角を上げる。
消えたって……そういえば、ラウもそんな事を言っていたような。
「だって、もう要らないでしょう?お姉様は名を使われただけの被害者だと、既に広く周知されています。後は大きな夜会でもあれば、閣下がお姉様を見せびらかすだけでよろしいのではないかしら。」
「アレットにかかれば、人の噂も手のひらの上ね。」
「当然だわ。悪女に感謝している人はとても多いのだから」
「ちなみに、今日はどうしてあのべとべとではないの?」
「お姉様、せめて派手な化粧と言って?あれは派手顔が好きな男性用。今日の私は閣下にお会いするのだから、清楚系で少しでも印象を良くするに決まっているでしょう。喋る内容が男好きで見た目も派手では、閣下のような男性の信用は得られないのよ。」
ふむふむ。
納得しているとジェラルド様が咳払いした。眉間の皺が深い。
「では、俺との結婚は君が撥ねなかった結果だと?」
「端的に言えばそうですわ。お姉様は結婚を嫌がりましたが、私は男を漁りながら良い物件…失礼、将来お姉様の面倒を見てくれそうな殿方を探していたのです。」
お父様はアレットの夫に子爵家を継がせる気だけど、アレットは結婚したくない。
最悪家出するつもりだけど、私は「資料が」とか言って家出についてこなさそう(その通りである)。結婚相手が見つかれば一番良いだろうと考えたそうだ。
「正直、駄目元でしたけれどね。お姉様って、口を開けば魔法陣、ちょっと歩けば魔法陣、食事をとっては魔法陣だから。」
「そんなに言っているかしら?」
「間違いではない。」
ジェラルド様のお墨付きが出た。じゃあ、そう。
「身内なら可愛いけれど貴族の社交には向かないし、婚約したからと言ってマメに愛の言葉なんて綴らないでしょうし、男女の機微はわからないし、結婚後は冷遇されようがどうなろうが、魔法陣の研究はやめないでしょう。女主人としての仕事より優先するに決まっています」
「向いていないのよ、結婚。」
「最悪、お姉様の大好きな【アレク様】に会えるわよと騙して、貯めたお金で引っ越しさせるつもりだったのですわ。」
「な、なんて惨い事を!」
それは実際には会えないという事じゃない。天国から地獄!
青くなって震える私を無視し、アレットは「世話役さえ手配すれば、お姉様も生きていられるでしょうから」と続けている。
「そんな中、閣下のお噂を耳にしました。周囲から結婚を勧められてだいぶ辟易していると。……第二師団長と言えば、強力な魔法によるご活躍は耳にタコ。少なくともお姉様の価値はご理解頂けると思い、手持ちの男を通じて情報を集めたのです。」
「アレットは元からジェラルド様を知っていたのね。」
「というより、これは……まさか」
「えぇ。閣下に【冷遇前提で悪女を娶ってはどうか】と勧めた者、ほぼ全て私のお友達ですのよ?」
ジェラルド様が俯いて額に手をあて、深くため息をついた。
私達の結婚はアレットが結び付けたものだった、という事ね。それはびっくり。
「俺が本当に冷遇したらどうするつもりだったんだ。」
「お優しい閣下の仰る【冷遇】なんて、お姉様にとってまったく冷遇じゃありませんもの。使用人の反応はわかりませんでしたが、お姉様、最悪この屋敷なんて吹っ飛ばせるでしょう?」
「まぁ、できなくはないわね。」
むしろ、全然できるわね。
魔力筆一本と私一人の魔力があれば事足りる。そんな事しないけど。
「ご要望は驚くほどお姉様向き。私はお父様を言いくるめて、閣下が参加するパーティーに出席して頂きましたわ。あの男、アッサリ頷きましたでしょう?最初から「きちんと愛するつもりだ」なんて言ったらそうはいきませんでした。」
「……君は父親を嫌っているのか?愛されていたと聞くが」
「愛。まぁ、彼にとってはそうだったのでしょうけど。私は嫌いですわ」
扇をふわりと顔の前に広げ、アレットは瞳を私へと向けた。
「ねぇお姉様、母を亡くした私って可哀想かしら。」
「いいえ?」
「お父様が私にばかり構って、幼い頃のお姉様は可哀想?」
「別に。」
私は首を横に振る。このやり取りで、ジェラルド様も何かを察したようだ。
アレットは鷹揚に頷いて扇をぱちんと閉じる。
「そう――可哀想だという言葉を押し付けられる筋合いなど、ありませんわ。自分の意思でいらないと言ったものを我慢と決めつけられ、人といるのが好きだと言えば幼い頃に母を亡くした寂しさだと言われる。私はそういった煩わしさの中で生きて参りました。」
「なるほどな。調査では、エステルには侍女も装飾品も与えられなかったとあったが…」
「いりませんでしたからね、私は。」
基本引きこもりの私である。
最低限の身支度は自分でするし、食事は置いておいてくれればいい。着飾って出かける事がないのだから、ドレスも装飾品もいらない。
お父様が何を考えて「可哀想なアレットを優先する」と言い続けたのか知らないけれど、私は特に困らなかった。
「お姉様は、私が男好きだと明かしても引いたりせず受け入れてくれましたわ。そうなのね、と。成功も失敗も私の自由意思に任せ、助けを求めれば手を差し伸べてくれる。――…私もそうでありたいとは思いますけれど、お姉様は放っておけば研究を優先して死にますもの。」
「確かに。」
ジェラルド様が深く頷いて私の頭を撫でた。
嬉しいけど妹の前はちょっとだけ恥ずかしい。
「私とお姉様の関係については以上ですわ。その様子では心配なさそうですが、これからもお姉様をよろしくお願い致します。」
「ああ、任せてほしい。大事にする」
深々と頭を下げたアレットに、ジェラルド様が真剣な顔でそう返す。
二人共が私を大切に思ってくれている事がわかって、胸の奥が温かくなった。私は立ち上がって、顔を上げたアレットの隣に座る。
「お姉様?」
「最近知ったのだけど、こうするとだいぶ落ち着くのよ」
驚く妹の身体をぎゅっと抱きしめた。
アレットは一瞬固くなって、でもすぐに小さな呆れ笑いをして背中に手を回してくる。
「もう…私がどれだけ手玉に取ってると思うの?ハグなんて日常茶飯事よ」
言われてみれば確かに、そうなのかもしれない。
私より小さくて私より大人っぽい妹は、回した手に力を込めて呟いた。
「でも……お姉様が一番だわ。」
― ― ― ― ― ―
アレットがやって来た。べとべとじゃなくて驚いたけど、
私とジェラルド様を結び付けたのはアレットだったらしい。
将来私がどうなるか心配してくれたようだ。
一応私も、考えてはいたのだけど。
アレットが逃げたくなったら、
お父様から逃がしてあげられるようにと。
今日聞いたところによると、私さえ無事なら
ここに行こう、という身の置き場は決まってるらしい。
さすがである。
ジェラルド様が喜ぶ技を教えてあげると言われて
是非にと話を聞こうとしたら、
ジェラルド様本人に断固として阻止された。
アレットは楽しそうに笑ってたけど、
どんな技かは結局教えてくれなかった。




