13.奥様、妙に親しそうな男を連れ込む
「いらっしゃい。よく来たわね、エミール」
「エーミルです」
応接室にて微笑みを交わし、私達は向かい合ってソファに腰掛けた。
長い銀髪を低い位置で結ったラウは…えぇと、確か三十代後半くらい。変装した姿をいくつも使い分けていて、表向きの喋り方や名前や仕事が全部違う。
今日はリディだけでなく侍女頭のイレーヌもティーセットの用意を手伝ってくれて、今も壁際でピシッと背筋を伸ばして立っていた。
イレーヌは噂によれば五十歳手前で、きっちりと結い上げた黒髪に茶色の瞳、ちょっと吊り目気味なのと大体唇を真っすぐ引き結んでいるから、ちょっと怖そうに見える。エーミルを警戒してるのか、それとなく観察しているようだった。
防音の魔法を使う事は事前に話してあるけど、私達を二人きりにするような事は絶対にないだろう。
「早速よろしいですか?」
「えぇ、では――暗き闇の支配を。」
テーブルに置いたコースターサイズの魔法陣に触れ、魔力を流して闇属性の「結界」を起動する。人や物を弾くのではなく、音を遮断するものだ。
お互いのソファが完全に入る広さの結界が現れる。可視化されつつもガラスのようにきちんと透過して見えるのは、イレーヌ達からこちらの様子が見えるようにだ。
「それで?なんつー大物に嫁いでんだよ、エステル。」
穏やかな微笑みを張り付けたまま、彼は声色まで変わって素を出した。
私はちょっぴり肩をすくめてみせる。
「私だってこうなると思わなかったわ、ラウ。大体の事情は知ってるんでしょう?」
「さてね。しかし思ったより大事にされてるじゃないか。第二師団長ジェラルド・ファビウスと言えば、社交界のどんな華にも靡かない氷の侯爵って噂だったんだぜ。まさか【稀代の悪女】と呼ばれる毒華にかかるとはね。」
「貴方、私が悪女と言われてる事を知ってたのね。」
「責めるか?」
「いえまったく。私はきっと、最初から知っていてもアレットを止めなかったでしょうから。」
「だろうな。」
お前はそういう子だよとラウが言う。
彼と出会ったのはお母様が死んですぐだから、もう十年ほどの付き合いだ。
葬式の日に、一番遅れて来たのが彼だった。
お父様は教会の中で親戚と話していて、お墓の前にはもう私とアレットしかいなくて。中古の紳士服に着られたような青年が、いつの間にか立っていた。雨が降っているのに、彼は傘もない。
暗い瞳と目が合って、私はつい話しかけた。
『どちらさまですか?』
『おじさんだぁれ?』
『お兄さんな。チビ達、平民に話しかけるなって習わなかったの?まぁいいけど、すぐ消えるからちょっと待ってな。』
帽子を取って胸にあて、くすんだ銀髪の青年は険しい顔で墓に向かって目を閉じる。
アレットが私の手をくるくる回して、「ぎんいろおおかみあめのひないた」と口ずさんだ。この国ではよく知られた絵本。
圧倒的な強さを持つ銀色狼は、至上の美しさを持つ金色狼といつも一緒。
兎一羽も捕まえられない金色狼に、銀色狼は食事を分け、共に駆け、共に笑い、共に寝た。
けれどある日、銀色狼が帰った先の巣は荒らされて、金色狼の姿はない。
探して探してようやっと、黒色狼に捕まったと知って駆け付けた。
帰りたいと泣き続けた金色狼は黒色狼の怒りに触れ、食らいつかれたその直後。銀色狼は黒色狼と激しく戦い打ち勝って、けれど金色狼は息も絶え絶え、会えてよかったと呟き死んでしまった。
二頭の涙は降り始めた雨に混じり、大地へと染みていく。
銀色狼雨の日泣いた、金色狼雨の日死んだ。
流れ流れて涙は溜まり、深く深くに嘆きの泉。
爪も牙をも底へと沈め、いつかの屍を抱いてる。
『…貴族のお嬢さんは、俺みたいなガラの悪い平民を怖がるもんだがな。さすがはアイツの娘か。』
『おじさんは』
『お兄さんな』
『お母様のお友達ですか?』
『さてね。ただ、上の娘にとんでもない魔法の才があるって事は聞いたかな。』
銀色の瞳がじろりと私を見ていた。
なんて、読めない目をするのだろうと思った。今考えると、たかが八歳のくせして何をと少し、思うけれど。子供でさえ「わからない」と思う目を彼はしていた。
複雑な感情が絡んで、溢れ出しそうで、それを押さえつけたような。
不格好に跪いて、彼は私に手を差し出した。
『得体の知れない男の手を取る度胸があるなら、お嬢さん。逃げたいと思った時に逃げられるよう、生き抜く手段を教えてやるよ。』
お父様はこの場にいない。
大きな目を不思議そうに瞬いて、アレットは私にぴったりとくっついた。
私は――…
『まず、お名前を教えて?私、エステルです。こっちは妹のアレット』
『……は、そうだわな。これは失礼した、俺の名はラウレンス。よろしくな……これでどうだ?』
『それじゃあ、得体が知れなくないラウレンス。まず貴方に傘を貸してあげるから、連絡手段を教えて。』
『…ああ~……間違いなくアイツの子供だ……。』
それから十年。
ラウは色んな顔を持っていて、私もエステル・オブランとヴァイオレット・バラデュール、二つの顔を持っている。
彼の協力がなければ私はここまで学べなかったし、お父様に隠れてヴァイオレットの口座を作る事も、論文を出す事もできなかったただろう。
「…以上が収支報告だな。いつもなら新しい論文にかかってる頃だろうが、旦那にはまだ言ってないのか?」
「言えるわけないわ……聞いてよ、ラウ。ジェラルド様ってとんでもなくヴァイオレットを尊敬しているの。本当に全著書を読んだかってタイトルを暗誦させられたもの。私もアレク様でやり返したけど」
「ぶッ、ぐふっ、こほん。」
大口を開けてげらげら笑いそうだったらしいラウは、侍女たちの目を気にして咳払いした。
見た目だけは紳士然としてにこやかだ。
丁寧に扱ってもらってるのかと聞いてくるので、これまでの――正確には、ジェラルド様と良きパートナーになってからの日々を、かいつまんで話す。
ラウの腹筋は瀕死だそうだ。
「つまり生殺し中ってわけか…ぐっ、ふふふ…さ、さすがだなエステル……!魔法陣以外は本当にポンコツで、最早安心するぜ……」
「失礼な事を言われてるって事はよくわかるわ。」
「ごほん、いやいやつまりだな?お前の夫はかなり紳士だし、お前の意思を尊重してくれる良い男ってわけだ。……あいつの見立ては間違ってなかったな」
急にジェラルド様を褒めだしたラウが、最後だけぼそっと小声で言った。
聞き返したものの、何でもないと軽く手を振られる。
「面白そうだから、噂のぬいぐるみをこの後見に行って、お前とファビウス侯の顔を思い浮かべてみるよ。」
「そんな遊びしていないで、この手紙をお願いできる?」
「おっ、もう書けたのか。何十日かかるかと思ったぞ」
私が出したのは宛名のない封筒。
この中には私――いえ、ヴァイオレットからアレクサンドル様にあてた手紙が入っている。本当に、許されるなら何十日と推敲にかけたかったのは間違い無い。
でもきっとキリがないし、私はアレク様のお歳も正体も知らないのだ。
もしご高齢だったら。もしご病気だったら。もし、前線に出るようなお仕事をされていたら。
人は突然死ぬ。
お母様みたいに。
「郵送料金は口座から引いて。」
「了解。……返事、来るといいな。」
「う~ん…期待せずにおくわ。どうにかなってしまいそうだから」
「ははっ、ごほん!それもそうか」
お茶とお菓子を楽しみながら、私とラウは今後の事を擦り合わせた。
幾つかの連絡手段、この屋敷で使われる魔法陣は私が一人で破れる強度なのか――ラウは心配性なのだ――それから、論文とは別に内職を続けるかどうか。
内職といっても種類があって、ヴァイオレットとして受ける仕事はネームバリューがある上に技術を求められるから、なかなかの高額だ。
後は手遊びというか、頭の中が研究でいっぱいだろうと、ちくちくやってれば作れる刺繍による魔法陣。魔力を込めた糸が必要だから、先に魔力を込める作業をしてから一気に縫っていく。こっちは万人向けの基本図案だから、製作者の正体がどうのという話にはならない。
糸が擦り切れたら効果が弱まるし糸が切れたら量によっては起動しないので、日常的に使うものだと足の早い消耗品だ。安定して需要がある。
「ヴァイオレットの方はこれまで通り、依頼が来たら都度受けるか考えるわ。刺繍はやれるかわからないから、溜まったら言うわね。ここ研究環境が整い過ぎてて、そっちに時間を使ってしまうのよ…」
「エステルにとっては良い嫁ぎ先だったんじゃねぇか?」
「驚くほどね。ジェラルド様に出会った事で私、対面での魔法陣談義の楽しさを知ってしまったわ。ジェリーとエスティーに挟まれて、彼のお顔をこっそり見ながら、あらゆる魔法陣について語り合って――はぁ、最高のひと時よ。ラウ、知っていた?光属性魔法陣の光度設定においては従来、数を用いて表すのが通説だったんだけど」
「エステ~ル。戻ってこい。俺はそれどうでもいいわ」
「……相変わらずつれないわね。」
しゅんとしてカップに手をかけた。
ジェラルド様なら、ちゃんと聞いた上でご自分の意見も交えて話してくださるのに。
早くも夜が待ち遠しくなりながら、ぬるい紅茶に口をつける。
「ちなみに、ダンスは踊れるんだよな?」
「基本程度なら…何年振りかわからないけどね?どうしたの急に。」
「いずれは夜会に参加せざるを得ないだろ。ファビウス侯も大体は断ってるらしいが、ご意向を汲まなきゃいけない相手ってのもいる。たとえば――…王子とか、な?」
「王子殿下…」
特段悪感情があったわけではないけれど、つい眉を顰めてしまった。
確かに、いくらジェラルド様でも王家に招待されたら、それを断るわけにはいかない。
「私の噂など王家はご存知よね。呼ばれるとしたら求められるのは何?アレットのお化粧を再現しなきゃ駄目かしら。」
「しなくていい。【稀代の悪女】は魔法みたいに消えちまったからな」
「……どういう事?」
ふっ、と影が落ちる。
私とラウが揃って横を見ると、結界のギリギリ外側に騎士服姿のジェラルド様がいた。何か急いだのか、金色の御髪がちょっと乱れている。乱れてなおこの美しさ。すごい。
急いでるらしい割には結界に入ってこない?入って良いか躊躇っているのかしら。防音の結界を張っていたが故に、私達は彼が部屋に入った音も何も聞こえなかったのだ。
私は魔法陣の発動を止めて立ち上がった。
「お帰りなさいませ、ジェラルド様。どうか…」
されましたか、と聞く前にラウも立ち上がる。
そして恭しく胸に手をあててお辞儀をした。
「これはこれは、お初にお目にかかります。クラーセン男爵、エーミルと申します。僕はエステル――失礼、夫人とは古い付き合いでして。結婚のお祝いを述べていたところなのですよ。」
「そうか。貴族のマナーを学び直して来い」
ジェラルド様が冷たい目でぴしゃりと言う。
眉間の皺がいつもより深い、ですって……?何かあったのかもしれない。
ラウは「重ね重ね失礼を」なんて反省したように眉を下げてるけど、あれは内心すごく笑っているわね。何かしらでジェラルド様をからかっているなら、是非やめて差し上げてほしい。
「エスティー。君が紹介すべきじゃないのか?」
「んっ!?そう、ですね?」
サッと横に並んだジェラルド様がなぜか私の腰を抱き寄せた。脇腹じゃないからくすぐったくはないけど、どうして?
ラウが唇の裏を噛みしめて歪んだ笑みを浮かべている。腹筋が痛そうだ。
「えっと、ジェラ」
「うん?いつも通りで良いぞ、エスティー。」
ジェラルド様の手と声と目と表情からすご~く圧力を感じる。私はぎこちなく微笑み返した。
「…ジェリー、こちら、魔法陣の商流において長くお世話になっている方で、クラッセン男爵です。」
「ぶふぐッ、ごほん。ご紹介に与りました、クラーセン男爵エーミルです。」
惜しい。
ジェラルド様が片手で部屋の扉を示すと、両脇に待機していたリディとイレーヌが静かに扉を開けた。
「よくわかった。ゆっくり茶を楽しんで頂いたようだが、まだ話していかれるか?」
「今日のところはこれでお暇致します。――夫人。僕の事はお好きにお話しください。貴女の判断に任せますよ」
「…わかりました。例の件、よろしくお願いしますね。男爵」
わざとらしいほどに恭しく礼をして、ラウはリディとイレーヌに送られて部屋を出て行く。
ぴたりとくっついたままジェラルド様を見上げると、閉まった扉を不機嫌そうに睨みつけていた。
くいと服を引いてみる。
「ジェラルド様」
「っ、失礼した――もし君が厄介な男に付き纏われ脅されて防音の魔法陣まで使わされ何かよろしくない取引でも持ち込まれていたらどうしようかと一気に頭に血が上ってしまって俺が大事にしているとわかれば牽制になるのではと愛称を」
目をそらしたまますごい喋るわね!?
ジェラルド様は「もう触りません」とばかり、腰を抱いていた腕を浮かせている。私がどかないからくっついたままだけど。
「心配はありがたいのですが、彼は大丈夫ですよ。納得がいかなければまた寝る前に話しますが…」
「一つだけ、今聞かせてくれ。例の件とは?」
「出したい手紙があったので郵便局へ届けるようお願いしました。匿名郵便なのでお金がかかります。彼には一部お金を預けているので、そこから出してくださいと。」
「……そうか、わかった。話してくれてありが…」
言葉が途切れる。
なんだろうとじっと見上げていると、ジェラルド様はちょっと困り顔でちらっとだけ私を見た。
「離れないのか?」
「あ…そうですよね。思った以上に大丈夫だったので、ついこのままでいてしまいました。」
離れますねと呟いて下がろうとしたら、背中にジェラルド様の手がある。はて。
彼の手にそっと力がこもった。私が拒否したらすぐ離せるくらいの力。
大丈夫ですよと示すべくぴったり寄り添うと、なんだか良い匂いがした。
すごい。美形はまとってる香りまで良い。
― ― ― ― ― ―
ラウと打ち合わせ。
ジェラルド様の良きパートナーとして、
いつか夜会に出ざるを得なくなった時のために
ダンスの復習をした方が良さそうだ。
ラウを知らないジェラルド様は、
変な男なら警戒せねばと、私を愛称で呼んでみたり
くっついてみたり、色々試されていた。
私もジェラルド様が変な女性?に
付き纏われてたら、同じようにすべきかもしれない。
追記:
寝る前に今日の香水は何を使ったか聞いたら、
任務の日は使ってないと言われた。
でもあんなに良い匂(慌てて消した痕跡)




