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1.侯爵様は悪女をお求め

 



「悪女エステル・オブラン。俺と結婚しろ」


 ソファに座った真正面。

 これまで見たこともないほどの美丈夫が、人形のような無表情でそう言った。


 はあ、と間抜けな声が漏れないよう口を閉ざし、私はぱちぱちと瞬いて隣のお父様を見やる。

 脂の滲む額をハンカチで拭きながら、こちらを見もせずへらへらと笑って「もちろんお受けします」と答えるその姿に、私の意思など関係無いのだと察した。


「子爵。早くサインさせるがいい」

「畏まりました。…エステル。早くしなさい」

 やっとこちらを見たお父様に向けて、私は僅かに片眉を上げてみせる。

 説明してくださいという意味は伝わっただろうに、鬱陶しそうに眉を顰めて軽く手を振られた。


 婚姻届には不備も怪しいところもなさそうだけれど、先程の悪女発言といい、婚約もすっ飛ばした急な結婚といい、どうなっているのか。

 書面によれば、私の夫となる人はジェラルド・ファビウス侯爵らしい。ファビウス侯爵家は魔力持ちの家系だったはずだから、日常生活でちょっと魔法陣を使うくらい許されるだろう。

 ……許されるわよね?


 ペンを手に取り、目の前の男性をちらりと見る。

 年の頃は二十歳を幾つか過ぎたくらいか、十八歳の私とそこまで差はなさそうに見える。

 輝く金髪に蜂蜜色の瞳。整った顔立ちだからこそ、冷ややかな眼差しがかなり威圧的だ。身体は鍛えられているようで、腰には立派な剣があった。「俺と結婚しろ」と言うのだから、この方が侯爵様で合っているはずよね。

 サインを終えて婚姻届を差し出すと、侯爵様が頷いた。


「結構。明日使いを寄越す。急な話のため、金は後になるが」

「承知しております。エステル!悪女のお前を迎えてくださるんだ、礼を言いなさい。」

「…大変光栄でございます。」

 だから悪女って何?

 とは思ったものの、ひとまず微笑んでおいた。子爵令嬢が侯爵家に嫁ぐのだから、光栄と言って間違いではないだろう。

 侯爵様は従者に書類を回収させると、「教会に提出しておく」とだけ言って、私に挨拶する事もなく立ち去った。



 ……で、どうしてこうなったの?



 ここに至る経緯を思い出そう。

 昨夜いきなり「明日の夜会に出ろ」と言われ、理由も分からぬまま今日、少々胸がきつくて丈の足りない妹のドレスを無理やり着せられ、茶髪をまとめ上げられうなじに香水をプシュッとされ、顔にベタベタと化粧品を塗りたくられた。

 鏡を見て随分派手だと思ったけど、お父様いわく妹と違って質素な顔だから仕方ないらしい。


 サイズの合わないピンヒールという凶器で踊れやしないので、私は鼻の下を伸ばした男達から逃げてバルコニーで休んでいた。

 すると小走りにやってきたお父様に「こんな所にいたのか」と無理矢理引っ張られる。急がされたお陰で髪も息も乱れ、元々きつかった胸元がちょっと危険で、グイと手で直しつつ部屋に入った途端――あの男性、侯爵様から「噂通りの姿だな」と言われたのだった。


 お父様、人がいるなら先にそう言って欲しい。

 いくら私だって、それを知っていたなら胸元を直しながら突入するなんて真似はしなかったのに。

 そして、お父様からの紹介や説明を待とうと思いつつ着席し、即、あれである。


 回想終了。

 横でニコニコと「これでしばらく金の心配がないな」と笑うお父様をじろりと見やった。


「お父様、説明してください。何が起きたのですか?」

「我がオブラン子爵家とファビウス侯爵家の縁談がまとまったのだ!エステル、引きこもりのお前にしてはよくやったぞ!」

「彼は私を悪女だと言っていたようですが。」

「ああ、お前は社交界では【稀代の悪女】と言われているからな。まさか侯爵が悪女を求めているとは思わなかったが、お前の話を聞いてぜひ今夜連れてきてくれと言われたのだ。」

 色々と初耳だ。

 だいぶ強引に連れ出されたなとは思ったけど、せめて部屋に入る前に説明しておいてほしい。

 そして何より、


「悪女というのは。」

「アレットが遊びに行く時、よくお前の名を借りているだろう?」

「そうなんですか?」

 三つ年下の妹の顔を思い浮かべて首を傾げる。

 あの子が私の名を借りて何の得があるのだろうか。


「ちょっとした誤解や些細な行き違いが噂となり、エステル・オブランの名は年々悪し様に広まってしまってね。まあ、引きこもっているお前の評判なら特に変わりはないか、と放置していたのだが。」

 変わりはあるでしょう。特にオブラン子爵家の名誉的なところが。

 お父様ときたら相変わらず考え無しだ。数年気付かなかったらしい私も大概、家族を放置していたわけだけど。


 アレット、あの子一体何をしてきたのかしら。

 気にはなるが私は結婚したので、すぐに家を離れる女である。実家に残る妹の事など、たった一晩ではどうしようもない。


「……諸々、把握致しました。確認しますが、先方は【悪女】をお求めなのですね?」

「【稀代の悪女】という評判を聞いて来たのだから、そうに決まっているだろう。性悪女が好きとは、変わった男もいたものだ。さあ早く帰って明日に備えなさい。」

 なるほど、侯爵様は特殊嗜好…と。

 社交界が面倒だからと引きこもっていた自分も悪いかと思いつつ、深いため息を吐いた。引きこもらずにきちんと夫探しをしていれば、こうはならなかったのだから。




 さて、結婚したからには仕方がない。


 翌日私は侯爵家の馬車に一人乗り込み、お父様から「離縁されたら部屋の資料を燃やすからな」と笑顔で脅されて旅立った。

 コツコツ写本したり買ったりして溜めた資料が燃えるのは困る。侯爵家で私がどんな扱いになるかわからないから、大事な資料ほど持って行けないし。

 こっそり拡張した資料室の分も含めると、全体でかなりの量になるし。


 夜会にも茶会にもほとんど顔を出さなかった私は、間違いなく引きこもりだ。

 これまでは研究論文で稼いだお金を一部渡していたから、お父様からうるさく言われる事もなかったんだけど。

 侯爵家からの支援金じゃ、まぁ私が出す額より上よね。


 あちらは悪女を求めて何をする気だろう。

 お父様が言っていた通りの特殊嗜好…悪女が好き、という事ならまだいいかもしれないけど、もしも「好き放題暴力を振るえる女を求めている」…とかだったら最悪だ。


 魔法陣を書くための魔力筆を折られたら困る。

 でもそれを咎めた結果離縁され、資料を燃やされたりしたらもっと困る。高いけど魔力筆は買い直せるもの。


 とはいえ、自由の無い家だったらどうしようか。

 あの研究も達成できてないしこれも未解決、そっちはかじりかけで放置しているしまだ構想段階のものも……

 ごにゃごにゃと考えるうち、いつの間にか侯爵邸に着いていた。




 馬車を降りようと外を見れば、実家の何倍かという立派な屋敷。

 開かれた門の前に使用人が並んでいる。先頭にいる執事服を着た初老の男は家令だろうか。


 私はスカートの裾を摘まんでタタンと踏み台を降りた。

 髪型や化粧、香水は昨日の夜会と同じに塗りたくられたけど、服は妹のではなく自分の長袖デイドレスだし、靴も自前のショートブーツだ。昨日とは機動力が違うのよ、機動力が。

 なぜか少し驚いた様子の家令に軽く会釈した。


「エステル・オブランと申します。今日からお世話になりますね。」

「…家令を務めております、クレマンです。」

 彼はそう名乗った。

 白交じりの灰色の髪、こちらを見定めるような目をしていて、唇の上には清潔に整えられた髭がある。いかにも主に忠実な使用人頭といった風だ。

 表情を見るに、私は歓迎されていないみたい。社交嫌いにもわかる程とは、隠す気がないわけね。


「旦那様は仕事でご不在のため、本日はお会いになれません」

「あら、そうですか?互いに気楽で良いですね。」

「……まずは部屋へご案内させて頂きます。」

「ええ、よろしくお願いします。荷物は…運んでくださるのね、ありがとう。」

 使用人達が目をぱちくりさせていたけれど、私は特に気にせずクレマンの後について行った。本館のエントランスに入ったものの、色々と素通りして裏口を出る。

 私の住まいは別棟らしい。



「こちらがエステル様の部屋にございます。」

「まあ…随分と良い部屋ですね。」

「……。」

 陽当たりは良さそうだし、広さも程よい。あまりだだっ広いと落ち着かないし、狭くても研究に支障があるのだ。続きで資料室があったらなお良かったけど、それは贅沢というものよね。

 悪女を虐めたいのかとちょっと思ってたけど、こんな部屋をくださるのなら、やはり「悪女好き」の方かもしれない。


 ……という事は、私は()()()()()()()資料を燃やされるのか。なんてことだ。


「荷解きは手伝わなくて構いません、触られたくない物が多いので。」

「…本館にお招きする事はまずないと存じますが、立ち入る際は手荷物検査をさせて頂く事もございますので、ご承知おきください。」

「そうですか。」

 上の空で返事をしながら、空っぽの本棚が一つでは資料の整理に不便だなと考える。


「身の回りの世話はこちらのリディがつきます。」

「よろしくお願い致します、奥様。」

「ええ、よろしくお願いします。」

 深緑の髪をきっちりと結い上げた侍女は、表情の読めない顔で黒い瞳を私に向けていた。

 年の頃は三十歳手前くらいだろうか、クレマンが「本館の仕事もあるので、ずっとこちらにいるわけには」云々と言っている。


 夜中はこの別棟に外から鍵がかけられ、本館の使用人部屋を使っているリディもそちらへ下がるらしい。私一人になるという事だ。

 登録された者にしか開けられない鍵だとかで、間違いなく魔法が使われている。ちょっとソワッとした。古い屋敷は、使われている魔法陣も古い事が多い。


 魔法陣は時代によって形式や記号、文字が変わったり、土地で違いがあったり、一族のみ継承する魔法があったりなど、非常に奥が深いのだ。

 時間と魔法陣はいくらあっても良い。

 美しいものから、乱れているのになぜか正しく発動するものまで、本当にどれだけ調べてもまったく足らない。

 ああ、なんてロマンに満ちた学問。


 ついうっとりと目を細めて悩ましいため息をついたところで、クレマンとリディが変わらない位置でじっとこちらを見ている事に気付いた。

 何でさっさと出て行かないのだろう。つい怪訝に眉を顰めて見やると、クレマンが口を開く。


「何かご質問などはございますか?」

「質問?そうですね……」

 そもそも、昨日初めて会った人と署名して、今日その人の家に嫁いできたらしい、くらいしか情報のない私である。

 暴力を振るったりなさいませんよねとか、夜中は閉じ込めるそうですけど昼間は出かけていいんですかとか、聞きたい事は色々あるんだけど、ひとまず。


「私が【稀代の悪女】と呼ばれるような女だから、求婚された。この認識は正しいのですね?」

「ええ。間違いありません」

「そうですか。夫婦で出席する夜会などは?」

「旦那様はお忙しい方ですので、基本的に不参加かと。」

「ふふ、結構なことですね。」

 つい笑ってしまった。

 どう振舞えばあちらの求める悪女なのか、それすらわからない状況なのだ。夜会に出なくて良いのはありがたい。夫の趣味嗜好がどうあれ、公的な場では控えた方が良いこともあるでしょうし。


 何より、私は夜会に行くぐらいなら引きこもっていたい。不参加希望の侯爵様万歳である。

 クレマンが少し片眉を上げた。


「どのようなご不満があろうと、既に婚姻の届け出はされております。」

「まぁ、不満などあるはずもありませんよ。これほどの厚遇を頂いているのですからね。」

 落ち着いたアンティーク調の家具をちらと見回して言う。

 どっしりした広い机は引き出しも多いし、椅子の座り心地もよさそうだ。カーペットは古そうだけど掃除は行き届いている。

 子爵家では鏡台の鏡が邪魔で仕方なかったけれど、ここはチェストだ。素晴らしい。台は平面を全て使えてこそである。


「…夕食はこちらへ運ばせます。では。リディ、行きますよ」

「ああ、湯浴みの準備だけ先にお願いできますか?早く洗い流したいので」

「承知致しました。」

 そんな会話を終えてようやく私は一人になった。

 ぎっちりと結われた髪を四苦八苦して解き、肩を軽く回して息を吐く。何時間も馬車にいたのだから、当然身体は疲れが溜まっていた。

 顔は化粧でべとべとだし、髪を引っ張られてた頭皮は痛いし、つけられた香りはキツくて好みじゃない。


 リディが速やかに湯を用意してくれる事を祈りながら、荷物から筆記具と新しいノートを取り出した。研究しているとノートはガンガン消費するから、いつでも数冊は新品を持っているのだ。


 魔法以外について書き記すのはいつ振りだろうか?

 しかし、私はこれを研究しなければ大切な資料(お宝)を失う身。今日から侯爵家での暮らしについて記録をつけていきたいと思う。


 ペン先をインクに浸し、私は最初のページに日付を書いた。




 ― ― ― ― ― ―




 ファビウス侯爵家に到着、家令クレマンと侍女リディに会う。

 クレマンに確認してみたが、やはり私は【稀代の悪女】として嫁いだらしい。

 悪女でなければ離縁されるかもしれず、そうなれば実家にある私の大事な資料が燃やされてしまう。


 悪女とは何か。


 辞書を引くと性格が悪いとか醜いとか書かれていたが、お父様が私にアレット好みの化粧をさせたところを見るに、悪女としての外見はアレットが正しいのだろうか?


 まずい事に気付いた。

 私ではあの痛みを伴う髪型が作れないし、赤い口紅も、顔に塗るものも無い。頑張れば何とかなるかもしれないが、たまにで許して頂けないだろうか。忙しいと言っていたし、きっと会わない日も多いだろう。


 明日はそれとなく悪女についてリサーチしてみよう。




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