12.6話 獅子咆哮
状況は最悪だ。だが、どんな相手だろうと、相手が人間であれば勝機はあるはず。
まず周囲の状況確認だ。
正面からは黒染松月の殺気、だが本人の影はいまだ見えない。奴の動きは漂う冷気から予想できる。周囲は錆びた鉄格子で空間を多く老朽化がかなり進んでいるドーム。
足元にある照明は俺が標的であると奴に知らせている。
こちらの勝利条件はこの場からの即時撤退だ。
それ自体は後方約20mにあるドームの開いた出入口にさえたどり着けばいい。
奴の戯言は気にする必要はない。最後に自分の命さえあれば後の事はどうとでもなる。
逃げるためには奴の注意をそらし、俺が逃げるための時間を稼いでくれるものでなければならない。
「同じ名前の奴なんかこの世にごまんといる。
第一、俺はあんたと違って魔法が使えない。」
さっきの情報確認を行っていく。この話を続ければ時間稼ぎにもなる。そうすれば何か突破口が見つかるはずだ。
「お前の意見は最もだ。
だがな、”衣笠大が戻ってきた”タイミングが良すぎる。俺が疑うには十分だ。」
「ならあんたの疑いを晴らしてやる。俺はここから動かない。
出てきて、俺と顔を合わせて確認してみろ。
遠目からこそこそ隠れて見てるだけの卑怯者。」
周囲に満ちてきた冷気がさらに冷える。
揺さぶりは十分効果があったと見た。
「お前は魔法使いを誤解している。」
その言葉から揺さぶりが失敗していることに気付く。
黒染松月の声に変化はなかった。変わらず冷たく、下に見られている。
俺の劣勢は覆らないと諭してくるようだ。
「さぁ、逃げ惑え。鼠。」
突如氷柱1本が背後に突き刺さる。長さは約3メートル、直径約1メートルだろうか。
氷柱の裏に黒染松月の横から見た姿が映り込んでいる。
「残り9本の氷柱が刺さるまでがお前のタイムリミットだ。」
「ちょっと待て?!」
余命宣告を受ける。あわてるなという方が無理だ。急げ、急げ、急げ!
逃げ場は後ろにしかない。背後の氷柱に回り込んでそのまま……!
足元の照明を蹴り飛ばす。照明から放たれた光が俺の視界を奪い、何かに足を持たれそのまま割れたアスファルトの上にうつ伏せになって倒れる。
起き上がると同時に勢いよく俺を囲うように8つの氷柱が地面に突き刺される。
「棺の完成だ。」
最後の氷柱が仰向けになった俺の体の上に突き刺さる。
「ぐっ……あっ……。」
痛みが走る。だが俺はまだ氷柱が俺の腹に風穴を開けていないことが分かった。
両手が氷柱を受け止めている。
「それでしばらくは持ちますね。暫く耐えていてください。」
聞きなれた声が耳に入る。松前美夜古の声だ。
同時に氷柱すべてが半分に切り裂かれた。
「open」
美夜古の言葉と同時に白銀の一角獣がある1本の柱に突進し爆散する。
そこから生じた土煙から、黒染松月が現れた。
「美夜古……!久しぶりだな。
上から見下ろすとはいい御身分になったもんだ。」
天井には大穴が開けられ、空の上に美夜古はただ黙ってこちらを見下ろしている。
全身を黒い装束で包み込み、右手には少し小さな黄金の輪が握られている。黄金の輪には無数の鍵がかけられていて、何か嫌なものを感じさせてくる。不穏な、良くない前触れのような、そんな感じだ。ただただ、空に浮いてこちらを見下ろす姿は女王のようにしか見えない。
黒衣を身に纏う魔女は何も感じていなかった。ただ、息をするように獲物と定めたもの、黒染松月の魂を視る。彼女にとって今の段階で衣笠大がこの町にいることを魔法使い側に知られるのは防ぎたいからだ。
糸括は鎌足市の中では最も魔法使いの数が少ない場所。だがここにいる魔法使いは鎌足市に散布されている毒素に対して抗体あるいは耐性があった。これを持ち合わせている魔法使いは魔法界では強者に分類される。
美夜古は衣笠大が街に連れてきて早々に黒染松月と接触することは予想外だった。
「いつまで高みの見物するつもりだ?
降りられないってんなら引きずりおろしてやろうか?」
黒染松月の言葉に反応するように、氷柱が美夜古を囲むように氷柱が空に描かれる。
氷柱が狙うは1点。魔女の魂それひとつ。美夜古を向く氷柱は先端を徐々に研ぎ澄ませていく。
「受け取れ」
黒染松月が右の拳を握る。
空に展開された氷柱すべてが美夜古に放たれた。
氷が上空で砕け散る。冷気の幕が上空を覆い、美夜古の姿は視認できなかった。
そして、血の雨が降る。雨はドームを朱色に染め上げる。
「冗談だろ……?」
彼女の死を直視した俺から出た言葉は酷く、素直なものだった。
勝利を得た黒染松月。だが、彼の表情は曇っていた。
まるでまだ、終わっていないとうような。
カツン、カツンっと音が響く。ブーツか何か、硬い履物をしてコンクリートの階段を下りるような、そんな音だ。黒く、赤い、影が空から降りてくる。影は朱色に染まった大鎌を片手で持ち、肩にかけていた。影は死を運ぶという役割を与えられているようだ。
心臓の鼓動が速まる。
味方であるはずの少女の歩みは天界から下界へ下る女神を思わせる。同時に不吉さを感じさせ、下界にいるただの人間にとって女神の歩みは逆らえないという感覚を刷り込まれているようだった。
「物騒な魔女だ。その獲物で何をする気だ?」
黒染松月はただ彼女が空から降りてくるのを見ている。
「始末をつけるためですが。何か?」
美夜古は大鎌を方から下ろし、鎌の刃を黒染松月に向けた。
「お前が俺に勝てるとでも?」
「模擬戦の勝率は7対3で私の方が勝っていた。」
「これは模擬戦ではすまないぞ?」
「敵になったあなたに私が容赦するとでも?」
魔女の足が地に着く。それを見逃さないもう一人の魔法使いは白い息を吐いた。周囲を取り巻く環境が急激に変化していたことに気付く。身が凍るほどの寒さを体が感じ取る。黒染松月から強い冷気が放たれていた。
黒染松月の殺意に反応するように、美夜古は大鎌を何もない場で振り下ろす。ただの意味のない行為に見えた。だがそれに意味はあった。黒染松月の体が前方によろける。
彼の体からは血が流れ、倒れてしまった。一瞬で勝敗は決した。
「たお……した?」
俺の安堵した気持ちは言葉に出ていた。
「いいえ。あれはこれぐらいでは死には……。」
美夜古の言葉が遠くなる。違和感に気付いた時にはもう遅かった。
黒染松月は俺の首に腕を回し、締め上げてきた。
「身代わりなんぞ容易く作れる。不安要素は潰す。
本当なら見逃しても良かった。でもな、美夜古、お前が出て来たなら話は別だ。
衣笠大はここで処理させてもらう。」
黒染松月が左に氷の刃を作り上げ、俺の首元に刃をかすめさせてくる。溢れた血が刃をつたう。徐々に溢れる血に意識が向かい、倦怠感が増す。俺は死……。
「美夜古、お前の芸を見るのには興味があったが……。
残念だ。縁があったら……あ?」
黒染松月は自分の手が震えているのに気が付いた。
この場に彼が畏怖する対象などどこにもいるはずがなかった。
彼はこの糸括の管理を任され、危険な存在やどこに何があるかなど細かな部分まで把握している。それを踏まえて今この場で戦闘開始した。そのはずだった。なのになぜ。
彼の腹部には”風穴”が開けられていた。
腹部から出血が始まる。喉奥からは血がこみあげ、吐き出す。
痛みは背後から始まった。それを思い出し、後ろを振り返る。
そこには黒い靄を纏った、黒い獅子が金色の瞳を光らせながら、ただこちらを見つめていた。そして、そこにいた者すべてが思った。現実が夢に引きずり込まれるような感覚。現実に戻ることを良しとしない。ただただ、暗くて深い何もない何処かに幽閉される。死を感じ取った。
獅子が一歩踏み出し、咆哮を放つ。
「白雪!」
「open!」
その場にいたものを即座に魔法を行使し、立ち去った。