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その9


「……一か月前かしら。瞳子さんが亡くなったって連絡がきたの。交通事故だったそうよ」


「交通事故……」


「深夜の飲酒運転で対向車線にはみ出して、運転手も助手席に乗っていた瞳子さんも即死だったんですって」


 驚きが胃の中に落ちていった。母親への情はとっくに捨てていたから、悲しみも何も湧かなかった。

 だから今、ぐるぐると胸を渦巻く感情は、聞き慣れない死という存在が目の前を横切ったからだと思うことにした。


「お父さんは言わなかったのね」


 返事の代わりに視線を落とした。

 視界に渡辺先生のなでらかな肩が目に入る。よく見れば、スーツにはいくつもの折り目がつき、アイロンもろくにかけられていないようだった。


 あの自信に満ち溢れた渡辺先生が今や職を失い、生きることにみっともなくしがみついているのだ。


 そう思ったら、強烈に渡辺先生への同情が沸き上がった。


 渡辺先生はきっと今この瞬間、母親の死を聞かされた可哀想な私に同情しているだろう。だが、それは私も同じだった。母親の死より、目の前の渡辺先生の服装に垣間見えた彼女の余裕のなさにいたたまれない羞恥心を掻き立てられていた。


 私が知る渡辺先生はいつも身だしなみはきちっとしていて、気位の高い女の人というイメージだった。それなのに。こうして目の前にいる渡辺先生が別人のように思えた。


「こんな形で母親の死を知らされたら嫌よね。驚くのも当然だわ。……私の口からこんなことをあなたに伝えて、本当にごめんなさい」


 渡辺先生は黙っている私を見て、母親の死を悼んでいるのだと誤解したみたいだった。


「別に……」


 短い返事も強がりだと思われたのだろう、渡辺先生は最初の頃の威勢の良さを取っ払い、ずいぶんとしおらしい態度で言った。


「涼風さんの言う通り、今更、許しを請うても遅いって分かっているわ。でも、過去の自分の過ちを正すためなら、何だってする。ねえ、私にチャンスをくれない」


「チャンスって……」


「あなたの青春を奪った償いをしたいの」


 息を呑んだ。渡辺先生は真剣だった。あくまで私にはそう思えた。

 先生の言葉と表情が初めて一致したような気がした。

 だが、彼女の前で思い込みは何より危険なのだ。

 渡辺先生から目を離さず、慎重に言葉を選びながら言い返した。


「……信じられません。ここに座って話し始めたときはそんなこと、おくびにも出さなかった癖に」


「謝ろうと思ってあなたに声をかけたわけじゃなかったから」


「じゃあ何で」


 私の問いに涼風先生が黙った。短い沈黙だったが、理由を言いたくないのだと表情で分かった。


「……涼風さんの姿が一瞬、瞳子さんに見えたの……。あなたを見て、胸が高鳴った自分が惨めで、つい、きつく当たってしまった。本当はこんなはずじゃなかったのに。あなたを前にすると私はおかしくなる。お願いだから、私を早く解放して。そのためなら何だってするわ」


 渡辺先生の懇願を一通り浴びせられると、彼女がつくづく理不尽で身勝手な人間だということを思い知らされた。要するに渡辺先生は母親と似ていたからという理由で私に辛く当たり、母が死んだら罪悪感でいっぱいになったために自分の行為を帳消しにしようと私に頼んでいるらしかった。


 心の中に無視できない怒りが沸き上がった。


「本当に何でも、してくれるんですね」


 耳に届いた自分の声は嫌に落ち着いていた。渡辺先生を困らせてやりたい。

 そんな気持ちが私の唇を動かした。渡辺先生が頷いた。


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