その8
「帰らないで」
意味が分からなかった。気が付いたときには渡辺先生の両腕が私の背に回されていた。
瞬きを繰り返しても変わらぬ現実に激しく動揺する。
「なっ……!」
「行かないで、涼風さん」
渡辺先生の気の強さを紛らわすような金木犀のコロンが首筋から香った。
彼女の柔らかな体が私の体と密着する。
渡辺先生は子供のように私を離すまいときつくしがみついていた。
「は、離して。どうして急にこんなこと」
「お願い。埋め合わせをさせて」
渡辺先生が私の言葉を遮り、切羽詰まった調子で言った。
どんな顔をしているのかは見えなかったが、彼女の声には初めて聞く必死さが滲んでいた。
「埋め合わせって」
「今までのこと、全部、謝るわ。瞳子さんの娘だからってあなたに酷いことばかりした。だけど、これ以上、最低な人間になりたくない」
なんて自分勝手な人なのだろうと呆れて、脱力した。感情を押さえながら、言葉をひねり出す。
「そんなこと言われたって……。渡辺先生が自分で引き起こしたことじゃないですか。それを今更……」
渡辺先生は首を振った。
「あの頃は自分の憂さ晴らしに罪悪感なんてこれっぽっちも芽生えなかった。でも、今は違う。瞳子さんの訃報を聞いて、ようやく気が付いたの。自分がしていたこと全てに何の意味もなかったんだって。日に日に、虚しさが募って」
「訃報?」
渡辺先生が顔を上げた。彼女の瞳の中に目を見開いた私が見えた。
「もしかして、聞いていない?」
「は、……」
渡辺先生がしまったというように下唇を舐めた。それからがっくりと項垂れる仕草を見せた。
「誰の、訃報ですか」
恐る恐る聞くと渡辺先生は一度顔を上げて、ためらう素振りを見せた後、唇を開いた。