その7
「いいです。飲む気、なくなったので」
「それは私のせい?」
「他に誰がいるんですか」
「何か悪いことしたかしら」
この期に及んで何を言うのだろうか。しかも眉一つ動かさず、人畜無害そうな顔のとぼけた姿に驚きというより唖然とした。彼女の視線を振り切り、席から離れようとしたとき、右手を強い力で掴まれた。
体が後ろに引っ張られ危うくひっくり返りそうになった。
「なっ、何ですか」
抗議の声を上げると渡辺先生は私の手首を掴んだまま小さく口を動かした。
「……悪いと思っているの」
思いもよらぬ言葉に目を見開いた。空耳なのではないかと思った。
「今、何て」
「だから、悪いと思っているのよ。これでも」
渡辺先生が苦虫を噛み潰したような顔で言った。信じられない。一体、何を言い出すのだろうか。
「悪いと思っているからこんな風に話しかけているんじゃない」
渡辺先生は不服そうな顔を浮かべた。自分でも何を言っているのか分からない。そんな顔だ。言葉と表情がちっとも噛み合っていない。握られている手首が痛くて、無理やり引っぺがそうとすると渡辺先生はさらに力を入れた。
「い、痛い……」
「私の方がもっと痛いわ。心が割れそうなくらい痛いの」
「そんなの嘘です」
眉間に力をこめると、渡辺先生が言った。
「嘘じゃないわ」
足を組み替えて、片手でこめかみを押さえる。その仕草に誠意は微塵もない。
「また私を傷つけて、楽しもうとしているんでしょう。……渡辺先生の思い通りにはなりません」
「生意気ね、本当」
「……代償は支払ったつもりですから」
「どういう意味よ」
「私の青春は先生に奪われたんです」
渡辺先生が鼻で笑った。
「ああ、そうね。確かに。本当にかわいそうなことをしたわ」
「そんなこと、微塵も思っていない癖に。手、離して下さい。もう帰ります」
強く手を引っ張ろうとすると、渡辺先生がその場に立ち上がった。
引っ叩かれるのかと身をすくめた瞬間、思いもよらぬことが起きた。




