その6
「そのすかした顔がずっと気に食わなかった。あの日……あの日、初めてあなたの表情が変わるのを見るまでは」
渡辺先生がいつのことを言っているのかすぐに分かった。
同時に彼女の瞳に孤独な翳りがほんの一瞬、垣間見えた気がした。
渡辺先生はまた何を考えているのか分からない顔で微笑んだ。
「あの日……」
「覚えているでしょう、涼風さんも。あなたが学校に来なくなったきっかけだものね。まさか、テディべアを持って学校に来ていたとは思ってもみなかっあたわ」
「あれは、オ……ぬいぐるみが、大事にしていたぬいぐるみの目が取れそうで、学校帰りに病院に寄ろうと思って」
「病院?」
「ぬいぐるみのための救急病院があるって……駅の近くに」
「ああ、そんなのがあったわね。ファンシーな看板を見かけた気がするわ」
「だから、一度だけです。ぬいぐるみを学校に持ってきたのは、あの日だけ」
渡辺先生はじっと私の目を見つめた。
言いようのない居心地の悪さに身じろぐこともできず、視線を逸らした。
精一杯の抵抗に仏頂面を装い、ぶっきらぼうに呟く。
「……何ですか」
反応を見るため、それほど間を置かずに視線を上げると渡辺先生はまだこちらを見つめ続けていた。
彼女の口元が挑発的に弛む。
「涼風さんの声、ちゃんと聞いたの初めてかも」
渡辺先生の一言がまた胸の奥にぐさりと刺さった。
しかし、今度こそはと歯を食いしばって先生のペースに巻き込まれないよう抗う。
「ちゃんとって……授業でたくさん発言したじゃないですか。私ばっかり」
嫌味を言っているつもりなのだが、渡辺先生が表情を崩すことはなかった。
むしろ、私を追い詰めるこの状況を楽しんでいるようにも見える。
「聞いたことはあってもちゃんとじゃなかったのよ。いつも、次は何を言って困らせようかってことばかり考えていたんだから」
「さ、最低……」
「やっぱり、そう思う?」
渡辺先生は髪をかき上げながら悪びれずに言った。
「自覚はあったつもりだけど……自分の思った通りになると罪悪感って芽生えるものなのね。不思議だわ」
「私、もう失礼します……」
決してギブアップしたわけではないが、これ以上、不毛な会話に付き合い切れず、その場に立ち上がった。
「まだ飲み物、残っているわよ」
先生の有難い指摘にコップを見遣ると中身が半分以上残っていたが、勿体ないとは思わなかった。




