その4
「涼風さん」
名前を呼ばれて初めて視線を上に戻した。
「……先生」
渡辺先生は記憶の中の面影よりもやつれているように見えた。
よく見れば、目の下には化粧でも隠しきれない大きなクマがあった。
「ご無沙汰ね」
許可していないにも関わらず、渡辺先生は私の真向かいの椅子に座った。
香ばしいコーヒーの匂いが鼻をつく。
「元気だった? ちゃんとご飯は食べているの?」
渡辺先生はまるで保護者みたいなことを言って、私の口を開かせようとした。
渡辺先生がどんな人間かは嫌というほど知っている。考えを知られないよう感情を押し殺すのに精一杯だった。
「……元気です」
「先生、仕事やめたの」
「えっ」
カップの蓋を取り、スティックの砂糖を流し込みながら、まるで今日の天気でも言うような口ぶりで、渡辺先生が言った。あまりに唐突な発言にあっさりポーカーフェイスを手放した。
「驚いたでしょう。もう随分前から、学校に行ってないのよ」
渡辺先生はマドラーでコーヒーをかき混ぜながら微笑んだ。何て言ったらいいか分からなかった。ただただ驚くことしかできないでいると、渡辺先生はふっと鼻で笑った。
「だから今は就活中」
マドラーをちゃっかり私のプレートの上に載せると渡辺先生はカップに口をつけた。
「どうして……」
「どうしてかしらね。向いていると思ったの。でも、結局辞めちゃった。ねえ、涼風さんはどうしてだと思う」
「えっ……」
質問を質問で返され、答えに行き詰まると先生は笑った。並々と注がれていたコーヒーが先生の笑いにあわせて危なっかしく揺れる。カップの縁にべったりとついた口紅を見つめながら言葉を探した。
「遠慮しないで。あ、根暗でぬいぐるみ好きの涼風さんには分からないか」
突然、剥き出しになった悪意が私を貫いた。
「唯一のお友達がぬいぐるみだなんて、可愛過ぎるにもほどがあるわ」
その一言でつい、抑えていようと思った気持ちが瞬間的に爆発した。
「む、無神経で人の気持ちを考えず、あろうことか生徒をいじめるような人間に教師は務まらないと思います……!」
渡辺先生はカップを傾けるともっともだというように頷いた。
「……そうね」
引っ込めるつもりはなかったが素直に認められると居心地が悪かった。同時に先生が本当に私をいじめていたのだと知り、激しく落胆した。
落ち込んだときの癖で肩をすくめると、渡辺先生は小さな子に話すような声のトーンで言った。
「でもね、弁解させて貰うと、先生がいじめていたのは涼風さんだけよ」
容赦なく浴びせられた二度目の暴言が胸を貫いた。
痛みで目の前にいるのが確かに渡辺先生本人なのだと悟る。
「涼風さんがいるって分かっていて、小野田先生にあなたのことを愚痴ったこともあったわ。授業中、あなたばっかり問題を答えさせたり、答えられないと皆の前でがっかりして見せたり、今思い返せば色々したわね、私」
一年前のことなのに、当時のことが頭に浮かんで手が汗ばんだ。
「……どうしてそんなこと」
「さあ、どうしてかしら」
渡辺先生は他人事のように片方の口角を上げて微笑んだ。
自分が同世代の人間から距離を取られるのは分かるが、教師にまで理不尽な目に遭わされる理由はあの当時も今もいくら考えても分からなかった。