侍女は夫(予定)が気に入らないらしい
結局、国境の川のところで玲綾国の兵士達は帰されることになった。ここから蘭珠に付き添ってくれるのは、鈴麗だけだ。
国から乗って来た馬車は、戦闘で壊れてしまったから、新しい馬車が用意された。蘭珠と鈴麗が乗り込んだその馬車のすぐ側を、馬に乗った景炎が進む。
「おい、鈴麗」
「――ダメです」
「まだ何も言ってない。本当にうるさいお目付役だ」
「ダメなものはダメです」
――景炎様を怒らせたらどうする気なのよ!
という蘭珠の心の叫びを鈴麗が気にしている様子もない。「うるさいお目付役だ」、と言いながらも景炎の声音には面白がっている気配もあるからまだ許容範囲なんだろう。
「蘭珠、昨日はちゃんと眠れたか」
「ああああ、えっと、はい、ちゃんと眠れました!」
――問題は、私の方よ。い……嫌じゃなかった……のに……。
馬車の壁にもたれるようにして、蘭珠はがくりと肩を落とした。
再会そうそう口づけられた、キスされた――呼び方はどうでもいいけれど、あんなにうろたえるべきじゃなかった。
慌てふためいて鈴麗を呼ぶなんてまるで「すごく不愉快でした!」と宣言しているみたいで、いたたまれない。
「それならいい」
景炎の言葉が終わるか終わらないかのうちに鈴麗が素早く窓の覆いをかけてしまって、外の様子をうかがうことができなくなる。
――謝ることもできなかった。
「蘭珠様、そのお顔はどうなさったのですか」
「――だって、変なのよ。落ち着かないの」
顔がひきつっていたらしく、鈴麗が不安そうなまなざしでのぞき込んでくる。
――こんなにときどきするのは、きっと私だけ……なんだろうけど。
恋とは落ちるものだ――なんて言葉を今まで馬鹿にしていたけれど、実際に自分がその立場に置かれてみれば、自分が間違っていたのだと痛感させられる。
「――蘭珠様が、そのような顔をなさるなんて」
「……おかしい?」
「おかしくはありませんが、気に入りません」
「気に入らないって」
あまりな言いぐさに、思わず笑ってしまった。鈴麗も本気で言ってるわけじゃないと思いたい。
「だ、大事にしてくださると思うけど……ああでも、いろいろしでかしてしまったからどうかしらね? 椅子から落ちるとかありえなくない?」
鈴麗の言葉にいちいち上ずった声で返してしまうのが情けない。
事前に集めた知識で、もう少し毅然と対応できると思っていたのに。
「ま、見てくれはよろしいですけれどもね。宮中での地位は不安定ですから、あまり安心してはいけないと思います」
鈴麗はばっさりと切り捨てた。
――そうなんだけど、ね……。
手を伸ばして窓の覆いをずらし、すぐ側を進む景炎の横顔に視線をやる。また、胸がどきりとするのを覚えた。
大慶帝国第三皇子景炎。『戦史』の世界では、悲運の将軍として登場する。
皇帝となった異母兄龍炎――今は皇太子だ――との折り合いが悪く、国境警備の名目で僻地へと追いやられた。
とはいえ、それがきっかけとなり『六英雄戦史』の主人公、林雄英と知り合い、彼の兄貴分であり、師匠とも言うべき存在となっていく。
――折り合いがよくないのは、『百花』達からの情報でも聞いていたけれど。
大慶帝国の皇帝には、数名の妃がいる。皇太子龍炎と公主春華は、正妃の産んだ子供だ。
それから違う妃の産んだ第二皇子がいて、その次が景炎。他に何人かの皇子や公主がいるけれど、重要視しなければいけない相手ではないはずだ。
「でも……人望はあるのでしょう?」
――たしか、『戦史』でもそんなキャラだった。
人望があったからこそ、皇帝となった龍炎に疎まれ、僻地に追いやられた。
「人望だけで渡っていけるほど、世の中甘くはありませんよ。現に皇太子の正妃は、有力者である田大臣の娘ですからね」
蘭珠の言葉を、鈴麗は鼻を鳴らして軽くいなした。
「それから、第二皇子殿下。こちらの方もお妃を迎えておいでです」
「第二皇子は、権力闘争からは一歩引いているんだった?」
第二皇子については、何も情報が入ってきていない。ということは、重要視しなくていい程度の相手なんだろうけれど。
「はい。皇太子、景炎様と比較すると凡庸――というのが、家臣達の判断ですね。ただ、能力が著しく劣るというわけでもなさそうです。基本的に争いが苦手な性格とのことでした」
――第二皇子は、国が平和な時期なら名君になれる人なのかも。
戦が強く、カリスマ性のある人間がそのまま偉大な支配者になるわけではない。
第二皇子が、名君になれる人間かどうかは蘭珠が判断すべきことではないけれど。
最初の印象が最悪だったのか、景炎は蘭珠に必要以上に接しようとはしなかった。
馬車を停めて、休憩する度に声をかけてくれる。道中の宿では、顔を見せて気遣ってくれるものの、部下達にあれこれ指示を出すのに忙しくて、顔を見せたらすぐに行ってしまう。
結局、三日の間、一緒に食事をすることさえないままだった。
――寂しいって思ったらいけないんだろうけど。
最初の日、口づけられた瞬間、彼を押しのけたのは蘭珠の方だ。だから、嫌われても不思議ではない。
なんとかしたいと思っているうちに、時間だけが過ぎていく。