改めてよみがえる想い
襲撃を受け、傷を負った兵士達を手当てしたり散乱した荷物を拾い集めたりしているうちにあっという間に夕方になってしまった。
蘭珠と鈴麗は、景炎の部下の手によって近くの宿場町へと案内される。腰を落ち着けることになったのは、おそらく町でも一番の宿屋であろうと思われる店だった。
――ずいぶん、気を配って準備してくださったみたい。
飾られた花、上質の敷物。一国の公主を迎えるのにふさわしいだけの支度が調えられている。
部屋には火鉢が置かれ、茶をいれられるように湯が湧かされていた。
宿の湯殿を借りて血や泥を洗い落とし、紅の長裙に白の長衣を重ねて窓辺に腰を下ろす。きちんと結い直した髪に、珊瑚の髪飾りを挿した。
――疲れた。
窓枠にもたれるようにして、顔を腕の間に埋めてしまった蘭珠の側に、静かに鈴麗が付き添う。彼女も疲れているだろうに、蘭珠の世話を焼くのはやめようとしなかった。
「温かいお飲み物を用意しましょうね。ええと……ああ、生姜茶があります。これにしましょう。それと……蘭珠様、胡麻のお団子があります。いただきましょう」
「そんなにばたばた動かなくてもいいのよ?」
「甘いものと温かいものは心を落ち着けますからね。さあ、召し上がれ」
てきぱきと鈴麗が用意してくれた生姜茶を口に運ぶと、お腹の底から温まってくる。正直なところほっとしたから、鈴麗のやることにはやっぱり間違いないんだろう。
「鈴麗、あなたもお団子を食べなさいな。疲れてるでしょうに」
「あああっ、だめですっ! 蘭珠様がそのようなことをなさるなんて――!」
「ふふん、やったもの勝ちだものねー!」
鈴麗の隙をついて急須を奪い、蘭珠は鈴麗の分も生姜茶をいれてやった。胡麻団子の入った皿も鈴麗の方に押しやる。
「うぅぅ……い、いただきますぅ……」
鈴麗も甘いものには弱い。甘いものと温かいお茶でほっとしたところで、蘭珠は改めて口を開いた。
「鈴麗、景炎様の兵士達をどう思う?」
「よく鍛えられていると思います。盗賊達を追い払ったのも見事な手際でした」
「……そうよね」
窓のところから下を見下ろせば、景炎の兵士達があちこち行き来しているのが見える。
――景炎様は、いないのかな。
兵士達の間に景炎の姿を捜すけれど、彼の姿は見つからなかった。
「それにしても、百花の失態でございます。国境の襲撃を予想できないなんて……」
「それはしかたないでしょう。いつ、どこで盗賊が襲ってくるかなんて、私達にわかるはずもないし」
「……そうでしょうか。単なる盗賊にしては、妙に統制が取れていたような気もするのですけれど。だって、今回ついてくださった警護隊長は、玲綾国の軍人の中でも、有能な方ですよ」
「うーん、そう……か……な……」
たしかに盗賊が出没するという情報は得ていたけれど、言われてみれば単なる盗賊にしては妙に強かったかもしれない。とはいえ、盗賊を相手にするのは初めてなので、盗賊がどういうものなのか正直よくわかっていない。
扉の外に誰が来た気配がする。鈴麗がすかさず立ち上がって様子をうかがいに行き、そして強ばった表情で振り返った。
「あ、あの蘭珠様……景炎殿下がお越しです」
「入るぞ」
蘭珠の返事も待たず、景炎は室内に足を踏み入れる。
――ど、どうしよう……!
頭の中が真っ白になって、蘭珠は窓枠に半ばもたれるようにしたまま景炎の顔を見上げることしかできなかった。
「怪我はないか」
問われた言葉にも、首をかくかくと振ることしかできない。自分がこんなにも言葉につまるなんて考えたこともなかった。
そんな蘭珠の様子を見ていた景炎は、愉快そうに笑ったかと思うと、自分も手近な椅子を引き寄せる。
「そこの侍女、しばらく席を外してもらえるか」
「だめです、離れません。蘭珠様をお守りするのは鈴麗の役目でございます」
「え、えええと……」
――この状況は、どうかと思うのよ。
鈴麗は蘭珠の側にぴたりと張り付いているだけじゃなくて、自分の腕の中に蘭珠を抱え込み、自分の衣の袖で蘭珠の顔を隠している。
がるがると牙を剥いて唸っているライオンの姿が想像できて、蘭珠は困惑した。
鈴麗は蘭珠を守ろうとしてくれているのだろうが、結婚相手にまでこんなにがるがるしなくてもいいんじゃないかと思う。
「えええと、ね……大丈夫、だから。下がってくれて大丈夫」
「油断してはダメです、蘭珠様。男はみんなケダモノだって、出立前に聞かされました」
――ケダモノって……!
一体誰だ、鈴麗の頭にそんな考えを吹き込んだのは。衣の袖で蘭珠の顔を隠している鈴麗の様子がおかしかったようで、景炎がくっと笑う。
「要は俺が主に何かすると警戒しているわけか。それなら、この椅子に両手を縛り付けておくか? 俺はそれでもかまわんが」
面白がられているからまだいいが、この状況は正直よろしくない。
こほん、とわざとらしく咳をしてから、蘭珠は鈴麗に命じた。
「お下がりなさい」
「……でも」
「扉のすぐ外で、誰もこの部屋に近づけないように見張っていてちょうだい」
重ねて命令すれば、渋々と言った様子で鈴麗は部屋の外へと出て行く。
「大丈夫ですね? 本当に大丈夫ですね?」
と、出て行く直前まで何度も景炎に確認しているのを聞いて、蘭珠の肩が落ちた。
「侍女が、大変失礼な真似を。お許しいただけますか」
そう詫びの言葉を口にしながら、胸が痛いくらいにどきどきしているのを自覚する。
十年前に会った少年は、立派な青年へと成長していた。
きりっとした目元に、通った鼻筋。唇の端をにやりと上げて、彼は蘭珠を正面から見ていた。
襦裙の胸元を掴んだまま、かちかちになって景炎を見上げている自分はおかしいのだと思う。
景炎は青い袍に身を包んでいた。腰帯は紺色で、金糸で刺繍が施され、腰には大剣を吊っていた。
「十年ぶりか。病気がちだと聞いて心配はしていたのだが――俺の送った薬はちゃんと飲んだか」
「の、飲みました飲みました……! 全部すっかり飲みました!」
彼からの手紙にはいつも滋養強壮によいという薬が添えられていた。
黒っぽい丸薬は正直苦かったけれど、景炎の気持ちだからと毎日おとなしく飲んでいた。
返す声が上ずってしまっているのを情けなく思う。こんな風になりたいわけじゃなかったのに。
「病弱だと聞いていたが、先ほどはなかなか見事な立ち回りだった」
「え、えええと……それは、です、ね」
なんて返したらいいんだろう。彼に警戒心を抱かれているのはわかるけれど。頭をめまぐるしく回転させて、ようやく答えにたどり着く。
「か、身体を動かすのが健康にいいって聞いて、剣術の先生をつけてもらったら……ええと、めきめき丈夫になってしまって。この一年は熱も出していません」
――本当のことなんて言えるはずないし。
実のところ、景炎から送られてきた薬を欠かさず飲み、剣術の稽古で適度に身体を動かしていたのが効いたのか、蘭珠はかなり健康優良児だった。
病弱という話が広まっているのは、蘭珠と高大夫が意図的にそう情報を流していたという一面もある。その方が、蘭珠に集まる関心は低くなるだろうから。
「……そして、剣を持つ、か。侍女も手練れを連れてきたようだな。一帯何を企んでいる?」
「た、企んでませんっ! 企んでません!」
必死に首を横に振る。
――なんで、こんなことになってるんだろう。
「手練れ連れてきて正解だったじゃないですか! 道中は危ないって言うし!」
正面から目を見つめられていたたまれなくなり、彼の目から逃れようと身体を捩る。
「この髪飾り、まだ使っていたのか」
あっと小さな声を上げて、蘭珠は髪に手をやった。着替えた時挿してもらったのは、昔、彼が蘭珠に贈ってくれた髪飾りだ。
「は、はい……だ、大事に……ひゃあっ!」
身を捩った拍子に彼の手から顎を解放できたのはよかったとして、そのまま椅子から滑り落ちた。口からみっともない声が上がって、蘭珠は涙目になった。
「――お前、本当に落ち着きがないんだな」
「お……落ち着きがないわけではっ!」
「初めて会った日も、縁側から転がり落ちたじゃないか」
「あ、あれは!」
あれは、いきなり前世の記憶がよみがえったからだ。あの時は、自分がどういう状況に置かれているのかわからなくて、完璧に頭が真っ白になった。
ずるりと椅子から転がり落ちたままでいる蘭珠の身体を抱え起こし、彼は元のように座らせてくれる。
「――遅くなって、すまなかった」
不意に優しい声が耳に届いて、思わず蘭珠は顔を上げた。驚くほど近くに景炎の顔がある。涼やかな切れ長の目に、通った鼻筋。少し薄めの唇も好ましくて――。
その顔が近づいてきたかと思ったら、柔らかなものが唇に重ねられて蘭珠は固まった。
――こ、これは……キ……キ……ス……され……!
いくらなんでも再会したばかりで手が早すぎだろう! 何もしないって言ってたのに!
どんと勢いよく、景炎の胸に手をついて押しやった。
「り……鈴麗! 鈴麗!」
「蘭珠様、何かありましたか!」
あまりのことに頭が真っ白になって、思わず声を上げて鈴麗を呼んでしまう。
「……ぶ、無礼者! 離れなさい!」
相手は婚約者なのだから、無礼も何もないけれど、蘭珠が慌てているからそれが鈴麗にも伝染したみたいだ。
「誰が無礼だ、誰が――明日からは、俺も護衛に加わる。成都まであと三日、安心するといい」
そう言うなり、身を翻した景炎は部屋を出て行ってしまう。呆然と見送っていた蘭珠は、彼の姿が見えなくなってからようやく気がついた。
「り、鈴麗、どうしよう……!」
あまりにも思いがけないことだったから、頭の方がついてこなかった。
――嫌われても、しかたのないことをしてしまったじゃないの!
半泣きになっているのがわかるから、説得力も何もあったものじゃないけれど、少なくとも嫌じゃなかった。
「油断も隙もないったら! 鈴麗は、婚儀まで蘭珠様のお側を離れませんからね――!」
それって大丈夫なんだろうか。そう思ったけれど、今はそれ以上追及する気にはなれなかった。