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出立

 婚儀の話は、それから数日後に現実のものとなった。いつものようにばたばたと鈴麗が部屋に飛び込んでくる。


「蘭珠様っ、蘭珠様っ! 陛下がお呼びですよ。いよいよ婚姻のお話ではないでしょうか」

「……わかったわ」


 父の前に出るのにくつろいだ格好ではいけないと、鈴麗の手を借りて、慌てて身なりを整える。


 ずんずんと廊下を突き進み、父の待つ部屋へと足を踏み入れる。


そこにいるのは父だけだった。ちょうど朝儀を終えて戻ってきたところらしく、朝服のまま少し疲れた表情で脇息にもたれている。


「お父様、蘭珠、参上いたしました」 

「まあよい、そこに座れ」


 父は、蘭珠を手招きすると自分と向かい合う位置を指示した。そこには敷物が敷かれていたから、蘭珠も遠慮なくそこに座る。


「景炎皇子からお前を迎えたいという話が来た」

「――わかりました」

「お前は、話が早いな」


 蘭珠がなんのためらいもなくその言葉を受け入れたのに父は驚いたようだった。わずかに首を傾げ、蘭珠へと問いかける。


「婚約が整ってから十年、今さらだとは思わないのか」

「破談にしなかったのはお父様でしょう? ……それに、景炎様は何もおっしゃらないけれど……おそらく、大慶帝国内部も揉めているのでは?」


 兄である皇太子龍炎との仲があまりよろしくないということもあり、景炎皇子は宮中では若干肩身の狭い思いをしているそうだ。


 彼と十年の間やりとりをした手紙に詳細は記されていなかったけれど、蘭珠のところには別ルートから情報が入ってくる。


「……さすがだな。『病弱』でめったに表に出ないのによく知っている。好きに動いているようだな」


「高大夫にいろいろ教わっているから。お父様もそれはご存知でしょうに」


「さまざまな花を育てているのだろう? その花は、どう育ったのだ?」


 父は小さく笑って身を乗り出した。


「どの花も――見事ですよ、お父様。お見せできないのが残念なくらい」


 あいにくと、蘭珠個人の組織なので父に会わせるわけにはいかないのだ。残念、と父は笑ったけれど、それもまた当然のこととして受け入れてくれた。


「そうか。それなら、嫁ぐ準備を始めなければな」

「……はい」


 彼の名前を聞くだけで、心臓がどきどきし始めて、息が苦しくなってくる。けれど、この感情になんて名前をつけたものか、自分でもまだわからない。


 ――恋をしている。そう言えたらいいんだろうけど。


 父の前から下がった後もしばらくの間、蘭珠の胸はどきどきしっぱなしだった。


 ◇ ◇ ◇

 

 輿入れする公主の馬車に乗り込んでいるのは、蘭珠と鈴麗だけだった。


「……もうすぐ国境でございますね」


 そう言った鈴麗は、少々お疲れの様子だ。蘭珠自身も疲れを覚えている。こんな長距離を馬車で移動したことはなかったから。


「国境を越えて三日。そこが成都だそうよ」

「あと三日も馬車に乗るのだと思うと、腰が痛くなってきますね、蘭珠様――そろそろ休憩を入れるように頼みましょう」

「まだ大丈夫なのに」

「いけません、蘭珠様。お身体には気をつけないと――」


 ――本当に、心配性なんだから。


 くすりと笑って、蘭珠は窓の覆いをそっと外して、外の様子をうかがう。


 都を離れてから十日が過ぎ、あたりの光景はずいぶんのどかなものへと変化していた。


 見渡す限り続くのはどこまでも畑と耕されていない大地のみ。遠くで農民達が牛を追って畑を耕しているのが見える。


 もう少し行ったら国境となっている大きな川があるはずだ。それを越えて何日か行ったら、大慶帝国の都である成都に到着だ。


 ――あの人に再会したら、いったいどんなことになるんだろう。


 不意に胸の奥がざわりとする。


 自分自身でも、少々困惑している自覚はある。十年たったら、景炎に向ける気持ちについてある程度の答えが見えてくるかと思っていたけれど、そんなことはなかった。


 ただのキャラに対する感情なのか、生身の人間に対する感情なのか。


自分がかつて愛読していた小説の世界で生きているなんて言っても、誰も信じないだろう。


――秘密を守り続けるのも大変だった。


 それから後も馬車は走り続け、国境となっている馬車のところで一時停止した。これから、船の用意をする間、軽く休憩を取ることになる。


 見張りの者をたて、各自簡単な食事をすませる。小麦粉の団子と水、それに干した果物などが兵士達の食事だ。


 蘭珠達も、兵士達と同じものを食べる。鈴麗のいれてくれる上等の茶がつくことだけが違いだ。


「都に入ったら、この食事からも解放されますね」

「そうね……店のある所に行ったら、お菓子くらい買えないかしら」


 夕方は温かい食事が出るけれど、鍋の中に食材を放り込んでごった煮にしたものと、木の杭に挿して焼いた団子くらいだ。


 米に汁物、焼いた肉や揚げた魚に青菜の漬け物、新鮮な果物、そういった品々が並ぶ普通の食卓が恋しくなってもしかたない。


 食事を取っている間に船が用意され、蘭荷が積み込まれた。


 河口に近いこの場所は、川の幅も広い。向こう岸ははるか遠くて、越えるのにかなりの時間がかかりそうだ。


 大きな帆を張られた船に馬車も乗せられ、蘭珠達が乗り込むのを待ってゆっくりと船は進み始める。


 本来なら船室に入らなければならないのだろうけれど、蘭珠も鈴麗も甲板にとどまったままだった。頬を撫でる風が気持ちよくて、中に入る気にはなれない。


 ――この川を越えたら、もう引き返すことはできない。


 ここからでは都を見ることなどできるはずもないけれど、故郷に最後の別れを告げたかった。


「……鈴麗」

「はい、蘭珠様」

「もし、国に帰りたくなったらそう言って。百花から人材を補充次第、国に帰す手配をするから」


 蘭珠は帰ることができなくても、侍女である鈴麗は帰ることができる。


 ――鈴麗の人生を変えてしまったのも、本当のことだからいやいや従ってほしくはない。


 嫌になったら、いつでも下りていいのだと、今、改めて告げる。


「とんでもありません。蘭珠様と離れるなんて――追い返したいというのなら、話は別ですが、追い出されてもいつでも蘭珠様の側に駆けつけることができる場所にいますとも」


「……ありがとう」


 鈴麗は、蘭珠の側から離れない。


 わかってる。わかっていて、それでも問わずにはいられなかった。


 ただ、この場でもう一度問いかけてしまったのは、鈴麗だけではなく皆の人生を変えてしまった後ろめたさからなのかもしれなかった。


「さあさあ、そんなことより……蘭珠様、水の上は冷えますから――外套をお召しになってくださいませ。風邪を引いたら大変です」


 ――病弱なのは、設定なのに。


 高大夫と相談して、蘭珠はあまり表に出ないですむように病弱設定で今まで生活してきた。それは、鈴麗もわかっているはずなのに、こうやって過剰に世話を焼きたがる。


 ――ま、いいか。


 鈴麗がそうやって蘭珠の世話を焼くのを楽しそうにしているから、蘭珠もつい任せてしまう。


「それなら、あなたも外套を羽織らないとだめよ」


 鈴麗にも外套を羽織らせ、甲板に立ったままずっと前を見つめる。


ゆっくりと川を横断した船は、大慶帝国側の岸に到着した。


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