ようやく話が動き始めるらしい
蘭珠が景炎と顔を合わせてから十年近くが過ぎたある日のことだった。
「蘭珠様! 蘭珠様!」
「鈴麗ったら、慌ただしいわね」
ばたばたと部屋に駆け込んできた鈴麗の方に蘭珠は半分あきれたような目を向けた。今、蘭珠はおとなしく書物に目を通しているところだった。
少し離れたところにある火鉢では、薬缶がかけられて、ちょうどお湯が沸いたところだった。
世間的には「病弱なので、とてもではありませんが公の場には出られません」ということになっているので、あまり外に出ないようにしている。高大夫の教えを請うために出かけることはしょっちゅうだけれど、それは常にお忍び、こっそりだ。
その代わり、縫い物は得意になったし、書物にも精通するようになった。今、読んでいるのもかなり難解な書物だ。
手にしていた書物を傍らの卓に置くと、鈴麗は興奮した様子で口を開いた。
「慌ただしくもなりますとも! 大慶帝国に嫁いだ者から手紙が来たのです! 先ほど高大夫から頂いて参りました」
「……やったわね、鈴麗!」
思わず蘭珠も両手を打ち合わせた。右手を鈴麗の方に突き出し、高い位置で打ち合わせる。
奴隷階級に落とされて、いつ死んでもおかしくなかった娘達を集め、蘭珠が高大夫の協力を得て作り上げた組織は『百花』と名付けられた。
今では、高大夫の配下である水鏡省とは協力体制にある。
百花の娘達は、『身よりのない子供を集めて育てている豪商の家』ということになっている訓練施設で訓練を受け、そこから外の世界に出て行った。身の危険はあっても、ただ死を待つよりはずっとよかったと、全員が蘭珠に忠誠を誓ってくれている。
今、侍女の鈴麗が持ってきた手紙は、訓練施設を卒業し、一般の民に紛れて情報を集めるために国外に嫁いでいった者から届いたものだった。
大慶帝国の都、成都でも有数の菓子屋『三海』に嫁ぎ、今では女将として店を切り盛りしているという。
「……ふむふむ。『遠縁の者の結婚が決まりました。三男なので、今後のことも考えて、玲綾国の取引先から嫁を取るそうです』ですって」
「蘭珠様のことでしょう。たしか、景炎殿下は第三皇子でいらっしゃいますよね」
「そう……だけれど……高大夫はなんておっしゃってた?」
「蘭珠様の縁談がもうすぐ調うことになる。お相手は景炎殿下で間違っていないだろうとのことでした」
市井に紛れて暮らしている彼女達は、街中の噂話をこうやって『養い親』への手紙として送ってくる。大慶帝国の菓子屋だけではなく、近隣諸国全般に潜り込んでいた。
これは、高大夫の手配りによって完成したシステムなのだが、養い親への手紙として普通のルートで送られてくるために、途中で紛失したり、誰かに読まれたりする可能性がある。
そのために、読まれても困らないよう、あらかじめ決められた符丁で書くことになっていて、想像力で補わなければならない部分もかなりあった。
「……読み間違えなくてよかった」
ほっとして、蘭珠は受け取った手紙を丁寧に元のように折りたたんだ。それから、火鉢にかけられた薬缶をずらし、火鉢の中にその手紙を放り込む。
「使いの者にお礼を言っておいて」
「かしこまりました」
ぺこり、と頭を下げて鈴麗は引き下がっていく。そして、戻ってきた時には、大きな団扇を持っていた。
「さあ、蘭珠様。お昼寝の時間でございますよ――お身体は大事にしなければ」
「いやよ、疲れてなんかないもの」
「いけません。疲れたお顔をしておいでです。あまり丈夫ではないのですから、気をつけませんと」
「いや、だからそれは設定――って、あれ?」
どこをどうされたのかわからないうちに、寝台に運び込まれ、上掛け布団にぐるんぐるんに包み込まれている。
――私、一応成人女性なんですけど?
蘭珠は心の中で突っ込んだ。
一応も何も、十七になった時に成人の儀式はすませたから立派な大人だ。同年代の女性と比較して、極端に華奢な体型というわけでもないと思う。
それなのに、鈴麗はあっという間に蘭珠を寝台へと担ぎ込んだ。いったい、どうんな手を使ったんだろう。
「……お休みなさいませ、ここに鈴麗がおりますから」
――考えるだけ、ムダだわ。鈴麗を止めることはできないんだもの。
鈴麗は、『百花』としての訓練を終えた後、蘭珠の侍女となった。いざという時には、蘭珠を守る役も与えられていて、絶対の忠誠を蘭珠に誓っている。
「そうね。少し休んだ方がいいかもしれない。鈴麗、ありがとう」
「とんでもございませんっ! 蘭珠様がぐっすりお休みくださることが大事ですから」
寝台から出られないようぐるぐる巻きにした割りに、暑くならないようにと風を送ってくれている。
――鈴麗の言うことも間違ってないかも。
朝からずっと書物に目を通していたから、かなり疲れているようだ。
それに、考えなければならないことはたくさんある。鈴麗の言葉に従い、蘭珠はおとなしく目を閉じた。