間諜(スパイ)組織を作りましょう
景炎と特使である彼の叔父が帰国して数日後のこと。
蘭珠は王宮内でも普段出入りを許されない区画に入り込んでいた。
「高大夫、高大夫はおられませぬか――!」
声高に呼べば、大慌てで白髪の老人が走ってくる。
「姫様、こんなところにおいでになって、何をなさっているのですか」
「……ああ、よかった。蘭珠は、高大夫にお会いしたかったのです」
蘭珠は、胸の前で手を組み合わせ、目上の者に対する礼を取った。目のぱっちりとした愛らしい少女が礼を取る姿に、行き交う大人達の表情も柔らかなものに変化する。
「高大夫に大事なお話があるのです。時間を作ってはいただけませんか」
「姫様が、私になんのご用でしょうかな?」
腰を屈め、蘭珠と目の高さを合わせてくれながら、高大夫はたずねてくる。
「それは、ここではお話できません。とても大事なお話なのです」
つんと顔をそむけると、その様子に小さく笑った高大夫は蘭珠を手招きした。
「それでは、こちらへ」
彼が蘭珠を招き入れたのは、王宮で仕事にあたるための部屋だった。
部屋中に竹簡や巻物が散らばり、室内に墨の香りが漂っている。一段高くなった場所に火鉢が置かれ、その傍に敷物が二枚敷かれていた。
ここは、国内の歴史をとりまとめている部署、ということになっているが本当は違うのを蘭珠は前世の知識から知っていた。
高大夫本人は作中にちらっと顔を出すだけなのだが、水鏡省で働いている間者の一人が、作中の重要人物なのだ。
「姫様、こちらにおかけください」
蘭珠が真剣な様子であると理解してくれたのだろう。高大夫は一人前の女性に対するような恭しさで蘭珠に敷物をすすめてくれる。
迷うことなく、蘭珠はそこに正座した。
――だって、ここで引くわけには行かないんだから。
正直なところ、ここにいたるまで蘭珠自身に迷いがなかったわけではない。頭の中で何度も何度も繰り返し考え、他に方法がないと思ったからこそ、ここに来たのだ。
高大夫の席の側には火鉢が置かれ、ちょうど湯が沸いているところだった。茶道具ののった盆を引き寄せ、彼は丁寧な手つきで茶をいれ始める。
「さあ、どうぞ。陛下からいただいたおいしいお茶ですぞ」
「ありがとう」
――私が来たこと、高大夫はどう思っているんだろう。
茶碗を受け取り、蘭珠は大夫の様子をうかがった。
「高大夫に、お願いがあります。蘭珠は、自分の間諜がほしいのです」
「――はい?」
手にしていた茶碗を取り落としかけ、それから大夫は慌てた様子でその茶碗を盆の上に戻す。
「蘭珠は、自分の間諜部隊が欲しいのです」
「姫様が、間諜が欲しいと――そうおっしゃる理由は?」
「だって、水鏡省の長は、高大夫でいらっしゃるでしょ? 隠してもムダです。そのくらい、ちゃーんと知ってるんだから」
この世界では、どの国の王宮も間諜部隊――わかりやすく言うとスパイ部隊――を持っている。
自分の国許で育てた間諜を他国に送って内情を探らせるのが当たり前のことなのだ。
玲綾国においては、高大夫が率いる『水鏡省』がその役を負っている。全てを映し出す水鏡のように――というところからつけられた名前だ。
「は、面白いことをおっしゃる」
長い沈黙の後、ようやく高大夫はそう口にした。
――そりゃ、一度で許してもらえるとは思ってなかったけど。
「お、面白くなどありませんっ! 蘭珠は、一生懸命考えました! どうしても、必要なんです!」
両手で長裙をぎゅっと掴み、半分涙目になって訴えかける。
「真面目に考えました! 勉強ももっと頑張ります! 剣の稽古だっていたします――だから……」
他に言葉が出てこない。どうしたら、高大夫を説得することができるんだろう。言葉を探して、必死に頭を回転させる。
――景炎を助けたいのならば、私が自分で動くしかない。
彼が帰国した後も考え続けて出した結論だった。
蘭珠の前世である愛梨の考察によれば、『戦史』本編の蘭珠は、箱入りのお姫様。景炎に向ける愛情はあったかもしれないけれど、何の役にも立たなかった。
彼の遺骨を抱いて、物語本編からそっと姿を消すなんて、そんな未来を迎えるのはごめんだ。
焦れば焦るほど言葉が出てこなくて、唇が震えた。
「姫様、姫様。そう興奮なさらずに。姫様が、お望みでしたらこの爺、協力いたしますぞ。姫様は、国外に嫁がれる身。ご自分の間諜をお持ちになるのも悪くはないでしょう」
「……ホントに?」
「爺は、嘘はつきません。そのかわり、花嫁修業の方もみっちりやっていただきます。爺の教えることにばかり気を取られては困りますのでな」
「う……は、はい……」
花嫁修業のことは完全に頭から飛んでいた。きっと、これからは慌ただしい時間を過ごすことになるのだろう。
勉強しなければならないことの多さにいきなり挫折しかけたけれど、蘭珠は高大夫の前で深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします、先生」
「……任せてくだされ」
ゆっくりと顔を上げた時には、蘭珠の瞳には強い光が浮かんでいた。
――これで、最初の手は打てた。
嫁ぐまでにどれだけの手を打つことができるか、それで勝負が決まる。
今は、物語が始まる十年以上前。蘭珠にできることと言えば、できる限りの情報を集め、備えることだけだった。