皇太子妃翠楽の部屋にて
翠楽の住まいは、龍炎の住まいのすぐ側にある独立した房だった。
鈴麗を供に連れて、彼女の住まいを訪れた蘭珠は、素早く建物を観察する。
――皇太子の宮とは、屋根が続いてないのね。
蘭珠は景炎の宮と廊下で行き来することのできる房をもらっている。外廊下であるから、冬場は外套がなければ行き来できないけれど、履き物を履き替えることなくふらりと訪れることができる作りだ。
けれど、翠楽の住まいはすぐ側とはいえ、廊下で繋がっていない。夜、彼女のもとを訪れるのは少々面倒だろうと思えた。
――こんなに近くにいるのに。
翠楽が龍炎に対して、どんな思いを抱いているのかはわからない。けれど、蘭珠が景炎から同じような扱いを受けたなら、きっと胸が張り裂けそうな気がすることだろう。
蘭珠の訪れを待っていたらしく、翠楽はみずから外まで出迎えに来てくれた。
「どうぞ、中にお入りになって――侍女は、ここで待つように。私の侍女が相手をするわ」
翠楽が示したのは、建物のすぐ横にある縁側だ。蘭珠が昔、景炎の目の前から転がり落ちたのも同じような作りをしていた。
そこに、茶菓の用意がされていて、少なくとも鈴麗も歓迎する意志があるのだということを示している。
「侍女にまで、お心遣いありがとうございます。では、鈴麗、ここで待っていてね」
「行ってらっしゃいませ」
半分友人のような相手でもあるけれど、ここではきちんと主従の関係を表に出す。鈴麗は、翠楽の侍女と共に頭を下げて二人を見送り、蘭珠は翠楽に導かれるままに足を踏み入れた。
――そうね、すごく綺麗な人なんだけど……なんだか、あまり幸せそうには見えない。
一歩先を行く翠楽は、華奢な女性だった。病的なほどに色が白く、少し下がった眉と潤んだ目元のせいか、普通にしていても今にも泣き出しそうに見える。
首も細く、高々と結い上げた髪と、そこに挿された豪奢な髪飾りがいかにも重そうで、今にも首が折れてしまいそうに見えた。
宮の中に一歩入ったとたん、よい香りが漂ってくる。
「いい香りがしますね」
「お義姉様からいただきましたの。殿下はこの香の香りがお好みだから、と」
翠楽と、春華の間には行き来があるということらしい。
――二人の仲がどの程度のものなのか調べておいた方がいいかも。
「……そうなのですか」
蘭珠は視線を巡らせる。
この部屋は、蘭珠の住まいとはかなり趣が異なっていた。蘭珠の部屋は茶と紺を中心に調えてあるのだが、この部屋は赤が多い。
――なんだか、落ち着かない。
むろん、宮で使われる色だからけばけばしい赤というわけではなく、品よく調えられてはいるけれど、この部屋に入ると、そわそわしてしまうのはなんでだろう。
「以前からゆっくりお話してみたいと思っていたのですが……なかなか時間もなくて。婚儀の準備は進んでいますか?」
「……ええ」
翠楽は、蘭珠の目から見てもなんだか幸薄そうな雰囲気だった。
――美人なんだけど……覇気がないというかなんというか。
それから蘭珠が携えてきた手土産を差し出し、翠楽からは彼女自ら入れた茶が差し出される。
「さあ、召し上がれ。お口に合うといいのですけれど……」
「変わった香りのお茶ですね」
銀の茶碗を手に取ると、なんとも言えない香りが立ち上った。
「実を言うと、蔡国との国境近辺でのみ作られているお茶なの。だから、なかなか手に入らなくて……」
「そうなんですね。初めていただきます」
人の行き来までは止めることができないけれど、大慶帝国と蔡国との仲はあまりよろしくない状況が続いている。そのため、国境近辺で採れる名産品はなかなか都まで届かない。
――きっと、田大臣の伝手をたどって入手したんでしょうね。
翠楽に進められるまま、蘭珠は茶を口に入れた。独特の香りは、口に入れるとすっと鼻に抜けてとても飲みやすい。
「とても、おいしいです!」
蘭珠の知識からしたら、紅茶――アールグレイ――に近い香りだと思う。たしか、アールグレイは人工的に柑橘系の香りをつけた茶葉だったはず。
茶碗を卓上に戻すと、翠楽はすぐにおかわりを注いでくれた。蘭珠がもう一度茶碗を口に持っていくのを見て、彼女も自分の茶碗を取り上げる。
一緒に出されていた焼き菓子を摘み、茶のおかわりをしながらおしゃべりをしているうちに時間が過ぎていった。
――あ、れ……?
不意に視界がぐにゃりと歪んだような気がして、せっかく注いでくれた茶を零さないよう、慌てて茶碗を卓上に戻す。
額に手をあてて、息を整えようとした。脈がどんどん高まっていって、耳の奥がずきずきする。パニックに陥って翠楽の方を見るけれど、彼女は何ともない様子だった。
――やだ、痺れ……て……。
視界がぐらぐらするだけではない。手足が震え始め、痺れて座っているのも難しくなった。
「す……い、ら……く……さ……ま……?」
彼女を咎めようとしたはずなのに、口もうまく回らなかった。
――まさか。
翠楽が蘭珠に毒を盛ったというのだろうか。
このまま、ここにいるわけにはいかない。震える手足に力を込めて、なんとか立ち上がる。よろりと入り口の方へと歩こうとしたら、前方に誰かが立ち塞がるのが見えた。
――だ、れ……?
目の前に立っているのが誰なのか、視界が歪んでいるから認識することもできない。相手の顔が真っ黒に塗りつぶされたみたいで、両手を前に突き出して相手を押しやろうとする。
「――翠楽、ちゃんと飲ませたのか?」
「……飲ませ……ました……」
「全然効いている気配がないではないか。あいかわらずお前は使えない」
――誰……何……を……。
相手が何を言っているのかは理解できなくても、自分の陥っている状況がよくないことだけは理解できる。
よろめく足でその場から逃げだそうとしたら、腕を掴んで引き止められた。掴まれた腕を捻られ、鈍い痛みに悲鳴が上がる。
「やっ……だ……!」
どんっと床の上に突き倒された。重いものがのしかかってくるのがわかる。
必死に手足を動かそうとするけれど、薬物に支配された身体は言うことを聞いてくれなかった。蘭珠にできるのは、首を左右に振ることだけ。
「小国の公主だと言うから、景炎にくれてやったが、なかなか美しいな。これなら側室の一人にしてやってもよかったな」
「んーっ!」
顎を掴んで、顔を上に向けられる。
「安心しろ。手をつける以上、妃にはしてやるから。末席でよいだろう――玲綾国の公主ではこちらにうまみもない」
――皇太子……?
その時、ようやく理解した。自分の上に乗っているのが皇太子龍炎であるということに。
なぜ、とか、どうして、とか。いろいろな言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。なぜ、龍炎がここにいるのだろう。
冷静に考えれば翠楽は龍炎の妃なのだから、彼がここにいることには何の不思議もない。けれど、混乱している頭では何も考えることができなかった。




