いきなり前世の記憶が戻りました!
――なんで、なんでこんなことに。
鏡を見ながら、陽蘭珠はため息をついた。鏡に映っているのは、まだ八歳の女の子だ。
まじまじと鏡を見つめれば、そこに映るのは小さな顔。冷静に見れば、とても可愛らしい少女だ。
黒目がちの大きな瞳は、びっしりと睫に囲まれている。小さな鼻は形がよく、唇は紅で彩られている。見事な艶を持つ黒髪は、編み込みやら輪やらをいくつも作った複雑な形に結い上げられていて、そこにはこれでもかといわんばかりに黄金の髪飾りが挿されていた。
蘭珠が首を動かすと、「しゃらん」という音が鳴る。
――落ち着いて考えなきゃ。
言い聞かせてみるけれど、まだ事態を完全に把握しているというわけではない。
鏡の縁を両手で掴んではぁっとため息をついた。
結局、あの後蘭珠が大泣きしたことで景炎との顔合わせはお開きになってしまった。医師が呼ばれ、甘ったるい薬を飲まされて、そのまま寝所に送り込まれた。
付き添っていた侍女達には眠いと追い払ったけれど、眠くなるはずもない。
鏡を見つめながら、蘭珠はもう一度ため息をついた。
――昨日の夜、『六英雄戦史』を読んでいたはず……なのに、今、ここにこうしているということは。
愛読書の世界に飛ばされてしまったということなのだろうか。
『六英雄戦史』とは、蘭珠の前世――愛梨として生きていた頃、ものすごいヒットしていたライトノベルのタイトルだ。
滅びた王国の血を引く英雄、林雄英。そして、大陸に存在する五つの王国出身の英雄達。魅力的なキャラクターと複雑に絡み合った謎。
幾分硬派な作りではあったけれど、コミカライズされたことをきっかけに原作も爆発的なヒットをすることになった。
陽蘭珠は、大慶帝国出身の英雄、景炎の妻として作中に登場する。景炎は雄英に剣を教える師匠であり、兄のように慕われるキャラクターであり、特に人気が高かった。
作中、雄英をかばって死亡するシーンは作中屈指の名シーンとされている。
――なんで、こんなことになっているんだろう。
先ほど彼の顔を見た瞬間、一気に記憶が押し寄せてきて混乱したけれど、冷静に考えれば、物語が始まるのは今から十年以上先だ。なにせ、蘭珠の知っている景炎は、三十代に突入したところだった。
それにしても、と鏡から視線を逸らし、自分の身体を見下ろす。視線の先にあるのは小さな手。爪の先は赤い染料で染められている。
襦という日本でいうところのシャツやブラウスにあたる衣に重ねて長裙と呼ばれるスカートをはく。帯は胸のあたり、高めの位置で結び、上からさらに長い衣を重ねた格好だ。仕上げに被帛……ひらひらとした布を腕にかければ完成。
いずれも上質の絹で仕立てられていて、八歳の幼女が身に着けるには豪華な品だ。
――蘭珠は公主だったから……この程度の品に囲まれているのも当然なのかも。
と、冷静に考えているのは蘭珠の中身、魂といった方がいいのだろうか。魂の年齢は十八歳だからだ。
――しかも、よりによって陽蘭珠だし。
蘭珠は鏡に映る自分の顔を見つめた。
陽蘭珠は、特に重要なキャラクターというわけでもない。影も薄く、景炎死亡の後は彼を弔うために姿を消した。英雄である景炎にはふさわしくないと、どちらかといえば嫌われるキャラクターであったような覚えがある。
――なら、愛梨の方はどうなったんだろう……。
自分の身体がどうなったのか気になったけれど、なんだか、嫌な想像しかできなかったので、そこからは全力で目をそらすことにした。
――まあいい。よくはないけど、現実を見るしかない。今、私がいるのは『六英雄戦史』の世界。私は陽蘭珠……。
蘭珠の中には、愛梨としての記憶と蘭珠としての記憶が混在している。
――ってそれどころじゃなかった!
先ほどまで対面していた劉景炎は、蘭珠の夫になる予定、というか物語の世界ではそうだった。
隣国大慶帝国の特使である大慶帝国皇弟に連れられた景炎は、婚約者になるかもしれない蘭珠の顔を見に来たのである。
――どうしようどうしよう。
彼との対面の途中であったけれど、縁側から転がり落ちた蘭珠がパニックに陥ったことで、中止になってしまった。
「ねえ、誰かいる? 景炎様はもう帰っちゃった?」
慌てた蘭珠の声に、侍女が入ってくる。その返事を聞いて、蘭珠は肩の荷が下りたような気がした。