皇太子妃からの招待状
蘭珠のもとに一通の手紙が届けられたのは、景炎と出かけて数日後のことだった。差出人は皇太子妃翠楽だ。
使者が返事を待っているというので、その場で折りたたまれた紙を開く。
――皇太子妃が、私に何の用なんだろう。
彼女の夫である皇太子龍炎と景炎は犬猿の仲とまではいかなくても、龍炎が一方的に景炎を嫌っている。だから、翠楽とて景炎の妃になる蘭珠に近づく必要はないはずなのだ。
龍炎と母を同じくする春華が蘭珠に声をかけてくれたのは、彼女が兄の立場をさほど気にしていないからだろう。
「明日、お茶をいかがとは書かれているけれど、私と何を話そうというのかしら。鈴麗、わかる?」
「さあ……蘭珠様から、何か情報を引き出そうとしているとか、でしょうか。皇太子は皇太子妃のところにはめったに顔も出さないそうですし……何か、景炎殿下の弱みを掴んで皇太子に取り入ろうとしているのかもしれません」
「そのくらいしか、私を呼び出す理由ってなさそうよね」
自分の夫の地位を高めるために、後宮では妃達の間でも微妙な争いが繰り広げられている。いよいよそこに突っ込んでいかなければならないと思うと気が重い。
けれど、明日は特に予定もないし、断る理由もないが、特に仲良くしたいような相手でもないから「お招きありがとう」という気分にはなれないのだ。。
――皇太子について、何か聞ける……かも……?
結局、そう理由づけるしかなかった。
「返事を書いている間、皆は下がっていていいわ。終わったら呼ぶから」
そう命じておいて、出て行きかけた鈴麗を引き止める。
「この間『三海』で買ってきた菓子があったでしょう。皆で分けてちょうだい。杏仁酥だけ二枚残しておいて」
「かしこまりました」
『三海』の菓子はおいしいけれど、女将からの報告書を受け取るためには、しばしば献上を命じるか鈴麗を使いにやらなければならない。
そんな理由もあって、気前よく侍女達にばらまくことにする。甘いものがあれば口も軽くなるし、せっせと宮中での噂話に花を咲かせてくればいい。
書物を手に、蘭珠は窓辺に置いた椅子に腰を下ろした。手にしているのは、最近の国境の情勢について市井の学者が分析したものだ。
書物を手にしていても、そこから先何かを掴もうとしていたわけではない。蘭珠の記憶は、『愛梨』であった頃得た知識を掘り起こそうと必死になっていた。
――皇太子妃翠楽がどんな人間だったのか、覚えてないのよね……。たぶん、影が薄かったってことなんだろうけど。
おそらく、『戦史』には翠楽についての記述はほとんどなかったと思うけれど、龍炎の妃として名前が出たことがあったのはなんとなく覚えている。
――私に近づく理由って、他に何かある?
龍炎が景炎を追いやろうとしているのはわかっている。翠楽が蘭珠から何か情報を引き出そうとしているのかどうかは別として、おとなしく付き合ってやる必要もない。
――返事を書いたら刺繍をしよう。
書物を持っていても、頁をめくらないのだから進むはずもない。花嫁衣装の準備も進めないといけないし、景炎に贈る手巾も仕上げてしまいたい。無心に針を動かしている方が健全だ。
午後になったら、鈴麗を誘って庭に出てみようか。景炎が練習に付き合ってくれる機会はそう多くないけれど、鈴麗と互いの長所と短所を確認し合うだけでもいい。
今、蘭珠が刺しているのはホトトギスの図案だ。白い絹に金や銀、赤といった華やかな色の意図を使って春を告げる鳥の姿を刺していく。
手を動かす――考え込んで手が止まる――また、手を動かす――そんなことをしているうちに、昼食の時間となっていた。