なんでこの人がここにいるんだろう
「女の買い物は時間がかかると言うが――ここまで時間がかかるとは思ってなかったぞ」
――なんで、この人がここにいるのよ!
悪びれない様子の景炎に、蘭珠はすっかり目を丸くしてしまった。
「お前達、ここはもういい。自由時間にしてやるから、夕方には持ち場に戻れ。蘭珠は俺と一緒に来い」
「あ――待ってください、景炎様! なんでここにいるんですか!」
たしか、今日、景炎は用があって留守にすると言っていた。だから、彼が戻る前に帰ればいいと思っていたけれど。
「なんでって、今日の市中見回り当番は俺だ。そしてその役はもう終わって、夕方まで暇だ。お前が街に出てきているんだから、合流したっていいだろう」
「そ、それはかまいません……というか――今日市中見回り当番だって聞いてないです!」
「だろうな。明日の当番だったのをさっき変わってもらったから」
しれっとした顔で景炎は言う。
――変わってもらった、って。
それは、蘭珠と一緒に街中を歩いて回りたいということだろうか。
景炎と一緒にいることができるのは、素直に嬉しいと思う。けれど――こうも自分の行く先行く先に景炎が現われると、何か裏があるのではないかとも思ってしまうのだ。
――そんな風に考えるのは、私が後ろめたいところがあるからなんだろうけど。
人に言ってはいけない秘密を抱えている自覚はある。
それを言ったら、景炎以外の人達にも秘密は抱えているけれど――何より、これから何が起こるのかを知っている、ということを景炎には知られたくない。
きっと、そんなことを口にしたら、魔物でも見たような目で見られるだろうから。
「お前、この店よく知っていたな」
「し……知っていたわけではないです。成都に来た日、前を通りがかったから気になって」
「そうか? 最近、人気なんだぞ。玲綾国から持ち込まれた菓子が人気だと、姉上が言っていた」
春華公主と景炎は、比較的よく行き来しているらしい。それをどうこう言える立場でもないけれど、胸の奥がずしりと重くなった。
「それで、どうだった?」
「どうって……そうですね、お茶もお菓子も美味しかったです。国にいた頃は、茶房に入ったことがなかったので、楽しかった……です」
茶と軽食や甘い菓子を出す茶房は、街中には何軒もある。
店の格によって出される食べ物には差があって、高級な店になればなるほどいい茶葉を使うし、菓子も砂糖をふんだんに使った贅沢なものが出されることになる。
「そうか。では、今度一緒に行ってみることにしよう」
「……あっ、そんな、景炎様が行くような……」
彼を止めかけて不自然なことに気づく。あの店は茶だけではなくて酒も出す。景炎が行ってみたいと思っても不思議ではない。
――『三海』に、あまり景炎様を近寄らせたくないんだけど。
なんだか、彼には全てを見透かされてしまいそうな気がして。
――なんだか、このパターン多い気がする……!
この間も、後宮内をうろうろしているところを捕まってしまった。
景炎とはこうやってあちこちで顔を合わせる運命なのかもしれない。
「俺と一緒では嫌か」
その言葉にはぶんぶんと首を横に振る。
「いえ、そんなことないです……今度は一緒に行きましょう。あとは小間物屋と反物屋も見てみたいと思ってました。刺繍糸と、手巾にする布が欲しくて」
手巾に刺繍を施して、思う相手に渡す――どこにでもある習慣なのかもしれない。一応、蘭珠もたしなんでいることはたしなんでいる。
――景炎様が喜ぶかどうかは……わからないけれど。
こちらの世界では春を告げるホトトギスが、幸福の象徴とされている。ホトトギスを刺繍して渡したら、思いを告げることになるのだとか。
今さら思いも何もないだろうけれど、少なくとも、感謝の気持ちを表すことくらいはしたいと思う。
「刺繍糸なら、頼めばもらえるだろうに。布も城の倉庫にたくさんあるぞ」
「そうですけど、自分の目で見て歩くのって楽しくないですか?」
公主である蘭珠の楽しみは、さほど多くない。日々やらねばならないことが多いから、街に出られる回数も多くない。
もちろん、こちらの世界に生を受けて十八年。今ではすっかり馴染んだ生活ではあるけれど。
「そう言えば、お前はよく出歩いているな。この間も、兄上の宮の近くで会った」
「宮にこもってばかりでは、身体もなまってしまうので散歩しているんです」
蘭珠は真面目に返したけれど、景炎は小さく笑う。笑われるようなことでもないと思ったから、自然とふくれっ面になった。
「何が面白いんですか?」
「ああ――いや、お前は悪くない。蘭珠公主は、病弱だと聞いていたから、まさか――こう出歩いているとは思ってもいなかった」
「……それは」
後ろめたいところがあるから、蘭珠は視線を泳がせた。
――蘭珠公主は病弱である。
意図的に、そういう噂を流した一面も否定できない。
宮にこもりきりということになっていたら、高大夫のところにも行きやすかったし、父もうるさいことを言わなかった。
その分、蘭珠は自分の好きなこと、やりたいことに熱中する時間を取ることができていたわけで。
「――景炎様がくださったお薬をせっせと飲んで、剣の稽古をして身体を動かしたからです。とても苦くてまずかったけど、ちゃんと全部飲みました」
「そんなにまずかったか?」
「最近は慣れたけど、子供の頃は本当に苦くて。毎回、蜂蜜を用意してもらってたんですよ」
「それは悪かった。俺は飲んだことなかったしな……苦そうだとは思ってたが」
剣の相手をしてくれるのも、庭の抜け道を教えてくれたのも。こうやって街中で顔を合わせたら案内してくれるのも――全部、彼の気遣いだ。
おそらく彼と蘭珠では見ているものが違うし、思いが重なることもない。
――でも、死んでほしくないから。
こうやって現実に彼に手を引かれて歩いていても、いまだに信じることはできなくて、時々自分がいる場所がわからなくなる。。
――ひょっとしたら、長い夢を見ているだけなのかもしれない。
この世界が現実だと認識しているのに、時々そんな不安にかられることさえある。
目を開いたら、実家の二階。小学生になった年に与えられた一人部屋のベッドで目を覚ますんじゃないかと。
「どうした?」
「いえ……ごめんなさい、なんでもないです……ただ、その居心地が悪いというか、なんと言うか」
護衛の兵を連れている景炎の姿は、街中でもとても目立っている。その彼に手を引かれて歩いている蘭珠の姿もまた、とても目立っているみたいだった。
「なんだ、そんなことか――気にしなくていいのに」
「気にしましょう、景炎様」
人の視線を感じる度に、耳に血が上るような気がする。そんな思いをしているのは、自分だけなのかと思ったらいたたまれなくなった。