いつか、日本のことを忘れてしまいそうな気がする
景炎の許可をもらい、鈴麗と護衛を伴って街中に出かけたのは、大慶帝国に入って二週間が過ぎようかという頃だった。
今日は、景炎は用事があって留守にしているという。彼がいない日中、街中を自由に見て回りたかったのだ。
「蘭珠様、何を見たいのですか」
「ええとまずは書物でしょう、それから装身具を見て……お腹が空いたら、『三海』に入るのもいいわね」
どこかの茶房ではなく、目的地は『三海』。玲綾国から嫁いだ百花の間者が女将を務める店である。
「では、まずは書店に参りましょうか」
紙作成の技術は作られているものの、印刷技術はまだ完成していない。だから、書物というのは筆写するしかなくて大変高価なものだった。
「何の書物をお探しなのですか」
「この国の歴史を書いたものがあるといいわね」
「でしたら、景炎様にお願いしたら入手してくださるでしょうに」
「そうかもしれないけれど……景炎様のところには届かないような書物を自分で見てみたいと思って」
高大夫の協力を得て蘭珠が育てた間諜達からは、さまざまな報告が上がっている。
その情報を取捨選択する術も蘭珠は学んでいたけれど、まだ、足りないものがいろいろあるとも思っていた。
「この国では田大臣が権力を持っているでしょう。皇太子に娘を嫁がせるくらいだもの。どうしてそうなったのかとか、そういうことを知りたいのよね。よくご存じだろうから、景炎様がそのあたりのことが書かれている本を持っているとも思えないし」
学士達が書いたり写したり写したりした書物は、人の手によって映されて世の中に流通している。
数は少ないから、書店に流れているものは少なく、たいていは自分の屋敷で写し、自分の屋敷で保管するものだ。
けれど、学者が亡くなったり、貴族が亡くなったりした時には、大量の書物が世の中に出ることがある。
蘭珠が今向かおうとしているのは、そういった書物を扱っている店の一つだった。
「ああ、ここね。あなた達は、店の外でしばらく待っていてちょうだい」
護衛の兵士達は店の前で待たせておいて、店内に入ったけれど、けれど、目的に合うような書物が見つからないまま出てくることになった。
注文をしておいたから、次回までには捜しておいてくれるはず。
「次はどちらに行きますか?」
「そうねえ……『三海』に行きたいわ。店内でお茶が飲めるのでしょう? 茶房って行ったことがないんだもの」
その店に行くのが、今日の蘭珠達の一番の目的だ。幸い、書店からもさほど遠くないところにある。
店は混み合っていたけれど、すぐに二階にある個室に通される。護衛の兵士達は、やはり店の前で待たされることになった。
待たせてしまうのは少し申し訳ないのだが、全員店内に入れるわけにもいかないのでしかたない。
やがて、茶菓を運んできた女将が、蘭珠の前で頭を下げた。
「女将でございます」
「久しぶりね。元気そうでよかった……」
「ええ、亭主も大事にしてくれますから幸せでございますよ」
「本当に、よかった」
再会を喜び合い、案内してくれた女将が、幸せそうなことに安堵して素早く情報交換を行う。
「今日食べて気に入ったから、鈴麗を使いにやるってことにするわ……あら、おいしい。今日、留守番してくれている侍女達に土産にしたいから、日持ちするお菓子をつめてもらえるかしら」
「かしこまりました」
一礼した女将が去ると、鈴麗もほくほくした顔でさらに手を伸ばした。甘い生地を蒸した蒸しパンのような菓子は優しい甘さでおいしい。いくつでも食べられそうだ。
「あまり待たせるのも気の毒ね。お菓子が届いたら帰りましょ」
窓からちらりと下を見れば、護衛についてきた兵士達が待っているのが見える。彼らが立っていることで、店に入るのを諦めてしまった客もいるみたいだ。
「こちらのお饅頭、おいしいですよ」
「そうね。いただくわ」
口いっぱいに菓子を詰め込んで、鈴麗がもぐもぐとしているのを見ていると、おかしくなる。蘭珠は手を伸ばして、蒸籠に入って運ばれてきた饅頭を手に取った。
小麦粉を練った生地に甘い餡を包み、蒸したもの。わかりやすく言えばあんまんだ。
前世では、コンビニエンスストアに並んでいるのをよく見かけていた。冬場の朝食には肉まんかあんまんを食べることも多かったからなんだか、懐かしくなってくる。
出されたものを見て、蘭珠は一瞬遠い目になった。
――日本で生きていた記憶が、だんだん遠くなっていくような気がする。
こちらに生まれて十八年。記憶が戻ってから十年。
時々思い出すことはあるけれど、日本での生活なんて、日頃は記憶の奥底に沈んでいる。いつか、あちらの世界でのことを完全に忘れてしまうんだろうか。
「どうかなさいました?」
「ううん、なんでもないの。ああ、女将がお菓子を持ってきてくれたわ。鈴麗、籠を持ってちょうだい」
鈴麗に籠を持たせ、外に出てきたら、そこに意外な人間が待ち構えていた。